第11話

『欲しいなら殺して取ればいいじゃない』


 紅月がそう見得を切ると、猫鬼が一瞬目を細めた。紅月の体を床に縫い止めていた前足の力が弱まったので、彼女はよじよじとそこから這い出す。


『……お前は死んでもいいのか?』


 それは嫌だ。だけど猫鬼にとってそれが一番手っ取り早いはずだ。ではなぜそうできないのか。なにか理由があるのだ。紅月は一歩前に進み出た。


『や……やめろ。お前を殺したくはないのだ』


『なぜ?』


『お前と俺の一部は混ざり合っている。お前を殺すとそれも死ぬ』


 ならば、交渉の余地がある。と紅月は思った。


『そしたらあなたは私の体からこの呪を追い出して欲しいのね』


『そういうことになるな』


 唸るようにして猫鬼は答えた。ということは紅月の目的も、猫鬼の目的も、同じではないか。


『では追い出し方を教えて頂戴。私も困っているの。人前で猫の姿になったりしたら化け物よばわりされるわ』


 猫になって喜んでいるのは凌雲だけだ。紅月は一刻も早く猫の呪いを解きたい。この猫鬼から方法を聞き出せるかもしれない。紅月はごくりと唾を飲んで、猫鬼を睨み付けた。


『簡単だ。十二月に死んだ猫の頭部を焼いて灰にしたものを飲めば良い』


『うげ……本当に?』


『俺を作った蠱師が言っていた』


 気色悪いと思ったものの、確実に猫の変化が治る術を知って、紅月は内心小躍りしていた。ただ、一つ問題がある。


『今は十月よ。死んだ猫を探すとしてもあと二月ある』


『なんと』


 猫鬼は人間の暦がよく分かっていなかったらしい。真っ黒な顔は表情がわかりにくいが、なんとなく悔しそうにしているように見えた。


『それまで待てるかしら』


『ぐ……それは……かまわんが』


 妖怪のくせに物わかりがいい。よく見ればどことなく愛嬌があるようにも見える。これは紅月の中の猫の部分がそう思わせるのだろうか。


『……あと、皇帝陛下を呪うのも止めて貰えると』


『それはいかん。俺はその為に生み出された。呪わねば俺が消える』


 やはりそれは虫が良すぎたようだ。頼んで呪が払えるなら術士なぞいらない。紅月がため息をつくと、猫鬼はにやりと笑った。


『どうしても止めて欲しいなら俺と番え』


『え?』


 唐突な猫鬼の申し出に紅月は目をぱちくりとさせた。


『人間の伴侶を持てば、現世に強い繋がりが出来る。そうすれば俺も忌々しい蠱師の呪縛が緩んで自由になれる』


『それって、別に呪いたくて呪ってる訳じゃないってこと?』


『同輩と共食いをさせた者の言うことなぞ聞きたいやつがいるか?』


 それはそうだ。この猫鬼も残酷な方法で生み出され、術者に呪縛されているのだ。


『でも……伴侶にはなれないわ。私には夫がいるもの』


 そう言うと、猫鬼はいきなり笑い出した。


『嘘を申すな。お前は未通女の匂いがするぞ』


『な……それでも夫なんです!』


 紅月自体も凌雲と夫婦だという意識はない。ないけれども一応夫婦なのだ。もちろんあやかしの伴侶になるのも御免だ。ただ、この猫鬼の話を聞いて、紅月にはある考えが浮かんだ。要は、猫鬼との繋がりと紅月が持てばいいのだ。ただ、あやかしと関係を持ってただで済むとは思えない。そうまでして皇帝を救わなくてはならないのか、と思う自分もいる。


『……そして、呪われて殺されていい人じゃないんです』


 彼のことは深くは知らないけれど、政の重圧を一身に背負い、孤独に戦っているからこそ、あんなに穏やかな眠りを欲していたんだと思う。それに、彼の手は温かくて、優しかった。


『……あいつがお前の夫なのか』


 あの火球に身を投げ出した時から危険なことは百も承知だ。


『ええ。だから代わりに提案があるの。私があなたに名前をつけてあげる』


 名付けは呪だ。人は幸福に、強く、賢くと願いを込めてまだこの世に生まれたばかりの子供に名をつける。名は人を形作る。また、自分の所属物に名をつけることもある。他と己との関係をはっきりするために。だから、名前は呪なのだ。


 同様に、あやかしに名を与えれば、あやふやな存在がはっきりとするだろう。紅月が自分の中の呪を痛めつけて初めて猫鬼が彼女の居所をつきとめたように、あやかしは幽世というこの現世の層とは少し違うところにいる。猫鬼は蠱師の呪縛を持って姿を持つ。それゆえに猫鬼は蠱師に逆らえない。だけど紅月がこの猫鬼に名を付ければ、もうひとつ現世との繋がりが出来る。それならば伴侶となるのと同じようなものではないだろうか。


『ほう。いいだろう。やってみろ。変な名前なら承知はせんぞ』 


 鋭い牙を剥きだしにして猫鬼が笑う。紅月は深く息を吸い込み、口を開いた。


『……玄牙・・


 紅月はそう名付けた。黒い深淵に浮かぶ牙。そんなものが浮かんだ。


『もう一度呼んでくれ』


『玄牙』


 紅月が玄牙を呼ぶと、彼の体がうっすらと輝き出す。そして黒い靄となり、部屋中を駆け巡る。


『ははは、良い名だ!』


 そして一度、玄牙が姿を形取った時、彼の姿は人のなりをしていた。肌は褐色で目は金色。全身を覆う位に伸びた髪は黒く艶やかだった。ただ、耳と尻尾は猫の形をしている。


『玄牙。約束よ』


『ああ。俺が正気のうちはあの男を襲わんと約束する。ただな、蠱師も馬鹿ではないので何か手を打つであろうよ。俺を使役から完全に断ち切るには蠱師を殺すことが必要だ』


 玄牙の手が紅月の額を撫でる。


『どこにいるの。その蠱師は』


『わからん』


 玄牙が蠱師をかばっているようには見えなかった。強い呪いを使役するものだ。呪い返しを警戒して身を隠しているのかもしれない。


 紅月がそのように考えていると、ふわりと体を持ち上げられる。


『ところでお前の名はなんなのだ』


『私は……紅月。紅に月と書く』


 紅月が答えると、玄牙はにたりと笑った。


『そうかそうか』


 玄牙は満足そうだ。人型だから余計に表情が分かる。


『そうだ、この猫の姿を変えられる? いつもは月の光で姿を変えるのに今回は違うの』


『簡単だ。取り込んだ中の呪が表に出ているだけだからな』


 玄牙は紅月を包み込むように抱き締めた。大きな体と長い黒髪で、まるであたりは夜のように染まる。


『じっとしていろ』


 言われたとおりにしていると、玄牙の髪が四肢にまとわりついてくる。それはまるで意思を持ったように紅月に巻き付いていく。このままくびり殺されるのではないか。紅月は恐怖を感じて叫び声を上げた。だが、その声も巻き付いた髪に封じられ、紅月は黒い繭のようになった。真っ暗な闇。と、紅月の体がギシギシと音を立てる。人の姿に戻ろうとしているのだ。


『さ、もういいだろう』


 いきなり縛めが解け、紅月は床の上に投げ出された。毛の無い四肢は間違いなく人間のものだ。


『玄牙……』


『では二ヶ月後、薬が出来たら来るぞ……』


 玄牙はそう言い残すとまた黒い靄となって姿を消した。


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