第10話

「おぞましい邪法を持って殺したい相手……ね」


 紅月の耳に、天穹殿に現れた猫鬼が身を貫いた時に聞こえた、負の感情の渦巻いた声が蘇る。思えば猫鬼も気の毒なものだ。作り方は判然としないものの、どのやり方も罪の無い猫の命が犠牲になっている。


 そう考えると、紅月はなんともいえない嫌な気持ちになるのだった。


 この日の紅月の昼食に上がったものは異様な様だった。解蠱の薬を試してみようというのだ。


 雄黄、にんにく、菖蒲。それらが皿の上にそのまま乗っている。雄黄にいたっては石だ。これらを温水で服用しろと本には書いてあった。


「……食べられるのかしら」


「どれもお薬ですから……酢で和えたりしてみます?」


「いえ、いいわ。ちょっとでも美味しく食べようというのがそもそも間違いの気がする。生のまま囓れ、ということだし」


 まずは菖蒲を口にする。すうっとした独特な香りと青苦さ。何より筋張っていてなかなか飲み込めない。仕方なく紅月は温水でゴクリと飲み下した。


「うう……不味い」


 紅月はげんなりとしながら蒜をつまんだ。


「あっ! ……辛いっ」


 生のままの蒜を噛んだ紅月は悲鳴を上げた。鋭い刺激が舌を突き刺す。紅月はこれも温水で飲み込んだ。


「紅月様、雄黄ですが……」


「飲むわ。寄越して」


 医師が薬として出したのは爪先ほどのかけら。結局、一番飲みやすいのはこれか、と思いながら紅月は飲んだ。


「どう……ですか」


「口がひりひりする以外は何も」


 口から何か飛び出してくるのでは、と期待していたが違ったようだ。


「効果がないということでしょうか」


「そうかもしれないし、量が足りないのかもしれないし……少し様子を見てみましょう」


 そうして半刻を過ぎた頃だろうか。紅月は強烈な吐き気と腹痛に見舞われていた。


「う……うう」


「どうしましょう、医師を呼びますか」


 激しい痛みを堪えながら、紅月は喉の渇きを堪えていた。背骨がギシギシと音を立てる。


「紅月様……! そんな、まだ月夜ではございませんのに」


 自分の体が変化していくのが分かる。紅月は昼間だというのに猫の姿になっていた。


(なんてこと……)


 紅月は動揺しながら、覆い被さった衣の下から這い出た。


「にゃあ、にゃあ」


 紅月は雪香を呼んだ。しかし妙だ。彼女の声がしない。


「にゃあ?」


 あたりを見渡すと、雪香が床に倒れている。紅月は驚いて彼女の元に駆け寄った。


(雪香、雪香……!)


 そっと口元に耳を寄せる。かすかな呼吸音が聞こえる。良かった、生きている。と紅月は胸をなで下ろした。気を失っているだけのようだ。


「にゃあ……」


 紅月は雪香の肩を叩いたものの、目覚める気配はない。もし今誰かが来たら不味いことになる。紅月の焦りはどんどん増していった。


 ――その時だった。


『やああっとみつけたぞおおお!』


 奇妙な声が紅月の耳元で聞こえた。耳を塞ぎたくなるような幾重に重なった大声。ぎょっとして振り返ると、窓に何か黒いものが取り付いている。よく見ると、それは鋭い爪のように見える。だが、窓には格子がある。それ以上手を突っ込むことはできない、と紅月が思った途端、それはぶわっと黒い靄のような小さな虫のように姿を借りて中に侵入してきた。


(あ……ああ!)


 紅月は部屋の隅に後ずさると、背中の毛を逆立てた。


『貴様だな? 俺の体を引きちぎったのは』


 あれ・・だ。あの日天穹殿に現れた猫鬼。紅月が目を見張っている間に黒い靄は部屋の中をぐるりと這い回り、形を変える。現れたのは黒い被毛の巨大な猫。その大きさは馬ほどで、金色の目が爛々と光っている。長い尻尾をゆらゆらとさせながら、猫鬼が口を開いた。


『俺の体、ここにあったか!』


 ずいっと黒猫が紅月に迫ってくる。紅月は壁に追い詰められながら、首を横に振った。


『助けて!』


 思わず叫んで、紅月は自分の口を塞いだ。


(なに? 今声が……声が出たわ)


『あやかしの声だ。普通の人間には聞こえぬがな』


 慌てる紅月を見て、猫鬼は余裕たっぷりに笑っていた。油断は出来ないが、すぐには襲っては来ないようだ。


『あなたは猫鬼なの?』


 こわごわと紅月はそれに話しかけてみた。


『いかにも』


 どうやら話が出来そうだ。一瞬そう思った紅月であったが、すぐに後悔した。すばやく猫鬼の前足が紅月を押さえつけた。


『体を返せ。貴様のせいで力が存分に出せん!』


 猫鬼はがちがちと牙を鳴らし、今にも食いついて来そうだ。


『いやです』


 それでも紅月は震えながら首を横に振った。


『さっき体から追い出そうとしていたではないか』


『え……えっと』


『言っておくが、その状態でそんなものを食べても無駄だぞ。苦しむだけだ』


『そうなの……?』


 あんなに不味い物を食べたのに! と、紅月は喚きたくなったが、今はそれどころではない。


 目の前には凶悪な猫鬼。しかも紅月は猫の姿で抵抗する術はない。だが、こいつはどうやら紅月の中の体の一部を欲している。


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