第9話

 こうして宮に戻った紅月は、さっそく雪香にこれらのものを揃えるように命じた。雄黄、にんにく、菖蒲。これらが薬になるという。


「これで治ればいいのですが」


「治るまで続けるわ。このままでいい訳ないじゃない」


 ようやく一段落したところで、紅月の元にやってきたのは燕禹であった。


「紅月様! 今宵も陛下のお召しがございました!」


 燕禹からしたら大事な知らせかもしれないが、紅月には分かっていたことである。


「何をなさってるんです⁉ もう陛下の元に参りませんと!」


 悠然と構えている紅月に、燕禹はくどくどと言いつのった。


「分かったわよ。ちゃんと行くから」


 大層に仕度したところで陛下と同衾するのは猫なのだ、と思いながら、紅月は重い腰を上げた。あまり遅くなって日が暮れてしまって猫に変化してしまったら、紅月も困るのだ。


「いいですか、陛下の前ではそのような態度を取ってはいけませんよ」


「はいはい」


 とにもかくにも、紅月は天穹殿へと向かった。




「後宮書庫では何か成果はあったか」


 寝室へと入ってきた凌雲が、まず真っ先に聞いたのはそのことだった。


「はい。書物の記述によれば、呪の正体は蠱毒ではないかと」


「ほう……」


 凌雲の表情が一瞬曇る。


「とりあえず、解蟲の方法を試してみることにしました。あとは白瑛という宦官が詳しく調べてくれると」


「分かった。呪がどこに行ったのかは分からないのだな」


「はい。……私は呪の一部が自分の体に入ったのだと感じています。近くにあれば、何か反応があるのではないかと思うのですが……」


 今のところ、猫になる以外何も起こらないし、怪しい気配もない。


「ふうむ……」


「呪の正体が分かれば、私にもなんとか出来るかもしれません」


「危なくはないのか」


「お命を狙われている陛下……凌雲様の方が危険ではありませんか」


 紅月がそう答えると、凌雲は笑みを浮かべ、紅月の肩を抱き引き寄せた。


「そなたはその……」


「なんでしょう」


 紅月は首を傾けて凌雲を見上げる。凌雲は紅月の顔をじっと見つめてから目を伏せた。


「何でもない。さ、眠ろうか」


「は、はい」


 紅月はなんだか気恥ずかしくなって、窓辺に寄り窓を開けた。月光が、紅月の姿変えていく。


「……にゃあ」


「やあ、おいで毛玉ちゃん」


 凌雲に抱きかかえられ、紅月は布団の中に潜りこんだ。


「ほれほれ」


 凌雲はそう言いながら、紅月の目の前に棒を突き出した。棒の先には布きれや鳥の羽が付いている。猫じゃらしだ。昼間の間に誰かにこしらえさせたのだろうか。


(ちょっと! 本当の猫じゃないんだから!)


 人で遊ぶなと紅月は憤慨したが、鮮やかな布地がひらひらと目の前を通り過ぎると、つい目で追ってしまう。さらには鳥の羽がふわっとすると、もう駄目だった。


「うにゃにゃにゃ!」


 紅月は猫じゃらしに飛びついた。さわさわと動くそれを前足で封じ、がじがじと歯を立てる。凌雲は巧みな手つきで猫じゃらしを操ると、紅月は布団上を転げ回った。


(わ、私何やってんの⁉)


 悔しいことにすっかり翻弄された後、紅月ははっとして我に返る。


「にゃにゃにゃ!」


(お戯れはお止めください!)


 爪を出さないようにして凌雲の額に前足を置き、紅月は彼を咎めた。まあ、その非難の声も鳴き声になってしまったのだが。


「ごめんよ」


 凌雲が紅月の前足を掴んで、鼻先を胸毛に埋める。


「はー……猫はいいなぁ。母上の元にもいつも猫がいた。茶トラのと、三毛のと……みんなで可愛がってころころと太っていて」


 母上とは皇太后様のことだろうか。母と過ごした少年時代にいた猫と、紅月を重ねたりしているのだろうか。


「にゃあ……」


「眠ろうか、紅月」


 凌雲は紅月の頭を撫で、胸に抱くと、体を布団の中で丸めた。そして、やがて穏やかな寝息が聞こえてくる。


(凌雲様ってどんな人なのだろうか。よく考えてみたら何もしらない……)


 紅月は寝息を聞きながらそんな風に考えていたが、いつのまにか彼女も眠りに落ちた。




 翌日、天穹殿から戻った紅月が朝食を済ませた頃、表で何か言い争うような声が聞こえた。


「……なにかしら」


「紅月様、見て参ります」


「私も行くわ」


 部屋を出て行こうとする雪香に紅月は声をかけ、一緒に門の外に向かった。


「お前が来て良い場所ではない! 帰れ!」


 すると血相と変えて燕禹が誰かを怒鳴りつけている。見ると、白瑛が困った顔をして立ち尽くしている。


「紅月様に用があるなどと嘘を申せ。どうせ陛下の覚えめでたいことを知って取り入ろうというのだろう!」


 それは燕禹の方だろうと半ば呆れながら、紅月は白瑛に声をかけた。


「どうしたの白瑛」


「あ、紅月様。お探しの書物と内容をまとめたものをお持ちしたのですが……」


「あら、仕事が早いのね。わざわざ来てくれてありがとう。中で見るわ。入って」


 と、紅月が白瑛を宮の中に招き入れようとすると、燕禹は顔を真っ赤にして止めてくる。


「なりません、紅月様。こいつはとんでもないやつなのです」


「あのね、彼は私の為に調べ物をしてくれていたのよ」


「紅月様は知らないのです! こいつは先帝の後宮で、寵姫たちに取り入って成り上がった上に、やつに入れあげた妃が自死したのです。関わってはいけません」


「お黙りなさい!」


 声を荒げた紅月に、燕禹がようやく黙る。


「燕禹。あなたは何の用で来たの」


「それはそのう……ご様子を伺いに」


「そう。今日は忙しいからまた今度にして」


「は……はい」


 燕禹は紅月の機嫌を損ねたと思ったのか、すっかりしおらしくなって立ち去っていった。


「……まったく。白瑛、行きましょう」


 紅月は奥の部屋に白瑛を呼び、卓の上に抱えた書物と書き付けを並べさせた。


「あの、さっきの話は……」


「ああ、あれね。大丈夫よ。私は燕禹の話なんて信じてないから」


「いえ、でも……全て偽りではないのです。取り入って出世したつもりなぞはありませんが、自死した妃がいたのは事実です……」


 そう言って白瑛は俯いた。その横顔にはうっすらと嫌悪感が浮かんでいる。


「……正直迷惑です。出世も興味ありませんし、勝手に期待されても……私は私の仕事をするだけです」


「それでいいと思うわよ。ま、大変よね。見た目が良いと。私の父上も大層な美男子だったけど、あまり幸福そうではないわ」


 紅月がそう言うと、白瑛はわずかに目を見開いた。


「そんなこと、初めて言われました」


 あることないこと吹聴される辛さは紅月にも分かる。麗珍とその子供たちが散々紅月にしてきたことだ。


「ふふ、さあそれより資料を出して頂戴」


「は、はい」


 白瑛は持って来た木簡を広げ、本の付箋の部分を広げた。


「ここと……こことここ。もっと時間をかけて調べれば他にもあるかもしれませんが、とりあえず見つけた猫鬼について記述があったものを集めました。まず、猫鬼の作り方なのですが、これもまた色々書いてあって正確なことは分かりません。代々、猫鬼を操る一族がいるとかいうことが書いてある本もあります」


「ふーん……門外不出ってことなのかしら」


「そうなのかもしれません。猫の魂を集めて妖怪となったものを使役しているとか、飢えさせた猫を食い合いさせるとか……中には死んだ赤ん坊の首を猫の腹に詰めて作るとも」


「まあ、恐ろしい。……でも、ということは作った者がいるってことね」


 白瑛の説明では、そういう術を生業としているのは蠱師というそうで、命や財産を狙った家のもの、あるいは金で依頼をされた家に猫鬼を放つ。すると猫鬼が対象に取り憑いて、体の内側を食い荒らし殺してしまうという。


「それにしても皇帝にそれを差し向けるとは大胆なこと」


 凌雲は信用していないと言っていたが、後宮には実力のある術士がいて、魔術的な結界を張って皇帝を守っているはずだ。あの呪を放った蠱師はそれを知らなかったのだろうか。それとも知っていて、打ち破るつもりで放ったのか。


「白瑛、雪香。私が呪いに手を出さないのはね、色んな理由があるけれど呪い返しが怖いからよ。強い呪力で相手を呪えば、その術が破られた時、大きな揺り返しが来る。そうまでして誰かを呪いたくない」


 義母の麗珍がどんなに意地悪をしても、死んで欲しいとまでは思わない。母だって魔除けをしたり大事な物が盗まれないように札を貼ったり、そういうことはしたけれど、恨んだり呪ったりしたら死後、悪霊になってしまうと常々言っていた。


「……でも、それでも呪いたくなるような強い恨みはあるのではないでしょうか」


 白瑛がぽつりと呟いた。


「あるでしょうけど……陛下はそれほどに恨まれているのかしら。白瑛、何か心あたりはある?」


「……いえ」


「まあ、それは陛下に聞いてみましょう。わざわざありがとう、白瑛。資料には目を通して見るわ。また困ったら相談に乗ってくれる?」


「私で良ければなんなりと」


 白瑛は深々を頭を下げ、退出していった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る