第8話

 そしてようやく自分の宮に戻ることが出来た紅月であったが、ほっと一息とはいかなかった。


「いかがでございましたか、紅月様」


 案の定、目を爛々とさせた燕禹が待ち構えていた。彼からすれば最後の出世の機会なのだ。顔色が変わるのも無理はない。


「いかがもなにも……」


「陛下はお優しゅうございましたか」


「……まあ」


 猫かわいがりされたわよ、猫だったからね。と心の中でつぶやきつつ、紅月は燕禹を追い返した。


「はーっ、やっと落ち着ける」


 紅月が長椅子に座ると、すぐさま雪香が朝食の粥を持って来た。


「ありがとう。ああ、お腹空いた」


 変身をするとひどく疲れる。お腹も余計に空くような気がする。紅月は粥をあっという間に平らげた。


「あの、昨夜は大丈夫でしたか?」


 食後のお茶を啜っていると、雪香がおずおずと聞いていた。大丈夫、とは猫にならなかったか、と聞きたいのだろう。


「駄目。思い切り陛下の前で猫になってしまったわ」


 そう言うと、雪香の顔色が真っ青になった。


「なんてこと!」


「でも、喜んでたわ。私を呼んだのも猫を探してたからだったみたい」


「……へ?」


「それで毎晩来るように言われたわ」


「ええ⁉」


 雪香はとうとう手にしていた盆を取り落とした。


「変わってるわよね。猫でいいんですって」


「変わっている……ではすみませんよ紅月様‼」


 紅月が猫になっても出さなかった大声を出して、雪香が顔を覆った。


「そうよね。他の妃たちは妬むでしょうね。ああ……」


「それだけじゃありません! 毎日陛下のお呼びがあるとなれば、だれもが紅月様に注目なさいます。……それでうっかり紅月さまの変化を見られたりしたら……大騒ぎになりますよ!」


 そうだ、そうだった。と紅月は頭を抱えた。


「陛下の元に行っている時はいいとして……問題はそれ以外か……」


「はぁ……仕方ありません……何か持病のあることにいたしましょう。で、あれば人を遠ざけることも出来るかと」


「雪香、ありがとう……あなたが頼りよ」


 見つかったらきっと化け物扱いされる。雪香の手を借りて秘密を隠しつつ、呪の正体を探る。そうするしかない。


「よし、じゃあ行くわ!」


「ど、どこに……?」


「後宮書庫。陛下からお許しを頂いたの。そこでこの変化を治す方法を探さなきゃ!」


「待ってください、私もお供いたします」


 慌てて付いてくる雪香を連れて、紅月は後宮書庫に向かった。




「ここが……」


 大きな赤い門の前まで来た紅月たちは、上を見上げた。思ったよりも広い。ここに、国内からかき集めた書物やこの後宮での記録などが納められているのだ。


「もし、どうされましたか」


 近づくと、門番が二人に声をかけた。紅月は懐にしまっていた皇帝陛下の許可証を見せた。


「これは……話は伺っておりましたが……」


 本当に来たのか、と門番の顔には書いてあったが、紅月はそしらぬ顔をして中に入った。


「うわぁ……」


 棚がびっしりと並んだところに、大量の木簡や書物が積み上がっている。埃っぽいようなかび臭い匂いがしていて、薄暗い。


「この中から探すの……?」


 紅月は気が遠くなった。もしかして何年もかかってしまうかもしれない。それまでこの不自由な体でいなくてはいけないのか。


「大丈夫ですか……? 私のお手伝いしますので」


 雪香も途方に暮れているようだ。


「とにかく! 探してみましょう」


 紅月が腕まくりをして書棚に向かい合った時だった。


「やみくもに探しても見つかりませんよ」


 それは不思議な声だった。透き通った高い声。しかし、女のものではない。紅月は振り返って、さらに息を飲んだ。


 そこには一人の宦官がいた。まだ若い。紅月と同じくらいだろうか。氷の人形のようだ、と紅月は思った。色素が薄いのか、肌は透き通るようで、髪も茶色がかっている。薄暗い書庫の中で、それがぼうっと浮かび上がっていて、どこか現実感がなかった。


「あなたは……?」


「白瑛と申します。紅月様、陛下からあなたの探し物を手伝え、と命じられております」


「えっと……ありがたいけれど、それは……」


 どう伝えたらいいのだろうか。秘密を口にせずに呪についてどう調べて貰えるだろうか。紅月が言いよどむと、白瑛はふっと笑った。


「陛下から紅月様のご事情については伺っております。私のことは気になさいませんよう」


「そう……」


 紅月はほっと胸をなで下ろした。


「あなたはここに詳しいの?」


「はい。三年ほどこちらにいます。先帝よりあまり人前に出ないようにと言われたもので」


「ああ……」


 これだけ目立つ容姿をしながら、紅月がこれまで彼を目にしたことがなかったのはそういう訳だったようだ。


「それでは手伝って。呪について調べたいの。特に猫に関するものを」


「呪でございますか……」


 白瑛が奥に向かっていくので、紅月と雪香は後をついていった。


「このあたりでございますね。過去に後宮で起こった呪いの事件については私の方でも調べてみます」


「ありがとう」


 紅月はとりあえず目の前にあった本を開いて見た。そこには様々な呪法が書いてある。病にさせる呪い、男女を別れされる呪い、財産を奪う呪い。そして――


「これかも」


「見つかりましたか」


 雪香が覗き込んでくるので、紅月はその箇所を指さした。そこには、強力な呪術として蠱毒が挙げられていた。


「蠱毒……見たことはないけど虫を壺の中に閉じ込めて殺し合いをさせる呪よ。そして生き残ったものが呪力を持つと言われている」


「詳しいんですね……」


 雪香が信じられないものを見るような顔をしてこっちを見ている。


「やったことはないって!」


 紅月は慌てて否定をする。まじないをするからといって、一緒にして欲しくない。


「蠱毒は虫だけを使うとは限りませんよ」


「えっ」


 白瑛の言葉に紅月と雪香は振り向いた。


「確かこの辺にまとめたものがあったはずです……これですね」


 書棚を探り、白瑛が木簡を取りだして、紅月の前に差し出す。


「蛇や鶏、ヒル、どじょう……それから猫」


「猫……やっぱり猫を使った呪があるのね」


 猫を使った蠱毒は猫鬼と呼ばれると記してあった。


「これが襲ってきたって訳?」


 本来ならば皇帝に取り憑くところが、紅月の中途半端な術で妨害され、どこかに去った。紅月が猫に変身するのはその呪の一部が体に残っているからではないだろうか。紅月はそう考えた。


「蠱毒にあたった状態を蠱病という。その状態を治すことを解蠱という、とありますね。これを試してみたらいいのではないでしょうか」


「そうね、白瑛。ありがとう。書き写してやってみるわ」


 紅月は白瑛が持って来てくれた紙と筆に、解蠱の方法を書き写した。


「世話になりましたね」


「いえ、仕事ですから。こちらでもう少し猫鬼について詳しく調べておきます」


「よろしく頼むわ」


 こうして紅月は後宮書庫を後にした。


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