第7話

「とりあえず、座ったらどうだ」


「……失礼します」


 紅月は椅子に座り直すと、こうなったら洗いざらい本当のことを言ってからここから立ち去ろうと口を開いた。


「昨晩、散歩をしていたのは本当です。私は占いをするのですが、あまり良くない卦が出て何か嫌な予感がして。気がついたら天穹殿の近くに居ました。そこで火球を見たのです」


「火球?」


「ええ、はじめは火球だと思いました。でもそれは巨大な呪であることが分かったのです。私はそれが天穹殿に向かっているのを見て、祓おうとしました」


「そなたそんなことが出来るのか」


 目を見開いた皇帝に、紅月は首を横に振った。


「いいえ。私の実力は母から手ほどきを受けた程度です。……でも、やらなければ、あの呪が天穹殿に降り注いだら大変なことになると思ったのです」


「それでどうした。昨晩はそのようなものの報告はなかった」


「呪を止めることは出来ました。それは私の体を貫いて散りました……。そして私は猫の姿になっていたのです」


「それが昨日の猫だと言うのか?」


 皇帝が信じられないと顔を覆うのを、紅月はじっと見ていた。


 例え信じてくれなくてもいい。むしろ大嘘つきとして罵倒されて追い出されれば、後宮の女たちも納得するのではないかとさえ思っていた。


「では猫から人の姿に戻ったのか?」


「はい。朝日を浴びたら戻りました」


 皇帝は黙ってしまった。頭ごなしに否定をする訳でもなければ、まるっと信じた訳でもなさそうだった。


「猫を探しているのは陛下が『眠りたいから』ですか?」


「……は?」


「陛下はおっしゃいましたよね。政務のことが頭をちらついてなかなか眠ることができないと」


 紅月の言葉に、皇帝はガタッと立ち上がった。


「あの……猫なのか……本当に……なんでそのことを知っているんだ」


「猫だったからじゃないでしょうか」


 言いたいことは言った、と紅月は席から立ち上がった。


「それでは……」


 この部屋を出たら控えている宦官はどんな顔をするのだろうかと思いながら、紅月は歩き出す。


「待て!」


 だが、皇帝がそれを制した。


「なんでしょう」


「と、いうことはそなたは猫になれるのか?」


「……いえ、もう戻りましたので。そんなに猫を欲しているならどこかから貰ってくればよろしいでしょう」


 どうしてそこまで猫にこだわるのか分からないが、皇帝が一声かければ、毛並みから骨格から十分に吟味された最上級の猫が献上されるだろう。紅月は真意がわからず、その瞳を見つめ返した。


「あの猫が良かったのだ。……その……不思議と眠れたものだから」


「それで……」


 紅月は少し気の毒になった。この国の重責を背負って、就寝の際にも安らぎがない。だけどそれを紅月がどうこうしてあげることは出来なさそうだ。


「……すまん。行っていいぞ」


 うつむき加減にそう言う男は、この国では神とも言われているのに弱々しく儚げに見えた。


「陛下」


 紅月は彼の元に戻り、再び席についた。


「やっぱり少しお付き合いします。寝酒を召されれば少しは眠れるのでは?」


 紅月が突き出した杯を、皇帝は黙って受け取った。


「晴れていましたから今宵も月がきっと綺麗です」


 わざと明るい声を出して紅月が窓を開けると、さっと月光が寝室に差し込んだ。


「そうだ。眠れるおまじないをして差し上げます。効くかわかりませんけど……」


 そう言って振り返った時、ドクンと紅月の心臓が音を立てた。


「あ……?」


 この感じには覚えがある。ああ、考えたくない。でも、きっとそうだ。


「へ……陛……」


 言い終わらないうちに紅月の身が縮んでいく。皇帝の顔が見上げるほど遠くなっていく。


「紅月……!」


「――にゃあ」


 まただ、とがっくりと肩を落とした紅月を、皇帝は抱き上げた。


「赤い目……やはりあの猫はそなただったのか」


「にゃあ」


 そうだ、と言ってみても紅月の声は鳴き声しかならない。だが、彼には通じたようだ。


「どうしたものか。朝日を浴びたら戻ったと言ったな。ではそれまでここにいろ」


「にゃあ」


 紅月が帰った様子がないのに居なければ騒ぎになる。そうしてくれ、と紅月は鳴いた。


「では、もう休もう」


 紅月を抱えて皇帝は寝台に横たわる。体を丸くするとすっぽりと彼の腕の中に収まる。ゆっくりと大きな手で撫でられるのが心地良い。気づけば勝手に喉がごろごろと鳴ってしまう。


「ふふ……安心しろ、朝までここを邪魔する者はいない」


(猫の姿の方が優しいじゃないの)


 紅月はそんなことを考えながら、皇帝の腕の中にいたが、やがて彼の寝息が規則的に聞こえてくると、つられるようにして眠ってしまった。


(……ん)


 肌寒さを感じ、紅月は目を覚ました。


 開け放したままの窓から、朝日が差し込んでいる。それを目にした紅月はがばっと身を起こした。


「元に戻ってる!」


 掲げた手には被毛もなく、長い指が五本。間違いなく人間の手だ。首から下も、ちゃんと人間の形をしている。


「う……ん、朝か」


 紅月が叫んだせいで、皇帝が目を覚ました。


「陛下……」


 紅月は無事に変身が解けたと伝えようとして、自分が全裸であることに気づいた。


「わ……わあああ! ちょっと! ちょっとお待ちください」


 慌ててぐるぐると布団を体に巻く。


「……寒いだろう」


 紅月に布団を奪われた皇帝はあくびをしながら起き上がった。


「だって! だって!」


 男性に裸を見られるなんてこと、初めてなのだ。


「私、裸で……ふ……服は……?」


「別に構わぬ。そなたは私の妃ではないか。世の夫が妻の体を見るのは普通のことだと思うが?」


「道理はそうでも頭が追いつきません!」


 紅月はようやく夜着を見つけて、衝立の裏に逃げ込んだ。


「よかったな、無事に戻って」


「は……はい」


 紅月は服を身につけて、ようやく皇帝の元に戻った。


「ただ……この感じだと、月の光を浴びるとまた猫になってしまうようですね」


「ふむ……」


「この変化を解く方法を探さなければなりません。このままでは月夜は人前にでられませんし」


 その為にはあの呪がどのようなものかを探らねばなるまい。紅月は呪いの類いには詳しくなかった。人を呪うだなんて頼まれても嫌だ。


「ならば……後宮書庫への出入りを許そう。あそこならば膨大な資料がある。その中にはそういった事柄も書いてあるだろう」


「本当ですか!」


 紅月は皇帝に飛びつきたいくらいの気持ちをぐっと抑えた。


「ああ、その厄介な変化も、私への呪に立ち向かったゆえだろう。考えてみれば、そなたは命の恩人だ。ただ……」


 そこまで言うと、皇帝は言いよどんだ。紅月は急に心配になって彼の顔を覗き込んだ。


「ただ?」


「ひとつ願いを聞いて貰いたい」


 なんだそんなことかとほっとして、紅月は聞き返した。


「なんでございましょう」


「毎晩、私の元に来て一緒に寝てくれ」


「……は」


 紅月はぽかんとして、まじまじと皇帝を見つめた。こんなことは一度きりだとばかり思っていたのに、一体何を言われたのかと首を傾げる。


「それでは周りからどう思われるか。それに猫になるんですよ?」


「構わん。昨夜も良く眠れた。お前がいると不思議と眠れる。それにまた呪をけしかけられるかもしれないではないか。頼む、紅月。私を守っておくれ」


「そ……それは……もっと腕利きの術士がいるのではないでしょうか」


 紅月の術は母から教えて貰ったとはいえ、母も紅月を道士にしようとした訳ではない。もっときちんと術を学んだ優秀な者がいるはずだ。


「いるだろうが、信用できない」


 皇帝の言葉は重く沈んでいた。


「この後宮で信用できる者などいない」


「陛下……」


 この広大な帝国の頂点にありながら、彼は孤独なのだろうか。紅月はこんなことを考えるのは失礼だと思いながら、気の毒になってしまった。


 皇帝の重責は分からなくても、ひとりぼっちのつらさなら分かる。添い寝くらいなら構わないと紅月は思い直した。


「……わかりました。私が力になるのでしたら……陛下」


 紅月がそう答えると、皇帝は笑みを浮かべた。


「ありがとう。……凌雲だ」


「え?」


「私の名だ。劉凌雲。二人の時はそう呼べ」


 皇帝にも名前がある、そんな当たり前なことに紅月は気がついた。と、同時にその名を呼ぶなど恐れ多いという気持ちが湧く。


「凌雲……様」


 おずおずと呼びかけると、皇帝――凌雲は嬉しそうに笑った。


「それでいい」


「……はあ」


 紅月は、自分はどうやらこの笑顔に弱いのかもしれないとそっと心の中でため息をついた。



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