第6話

 未の刻が過ぎた頃、燕禹が先ほど濡れた衣を持ってやってきた時より、さらにしおしおになってやってきた。


「お喜びください。紅月様」


 そう言う割には燕禹の額には脂汗が浮かび、今にも倒れそうである。


「どうしました」


 やはり先ほどの言い訳は苦しかったのだろうか。と紅月はハラハラした。何か罰せられるのであろうか。だが、そうであれば燕禹はもっと居丈高に振る舞うだろう。


「陛下の……皇帝陛下のお召しがございました」


「はい⁉」


 思わず紅月の声はひっくり返った。聞き間違えか、とじっと燕禹の顔を見る。


 すると燕禹はそうではないとわなわなしながら紅月にさらに告げた。


「今夜のお相手に紅月様を、と陛下がお望みです」


「何かの間違いでは⁉」


 今までこの後宮の妃が皇帝に呼ばれたことはない。皇帝が即位され、この後宮が出来てからずっと。皇后ですら。追加の妃が後宮入りしても。


「どういった訳で……?」


 未だ事態が飲み込めない紅月は、首を傾げる。すると、燕禹はみるみる顔を赤くして、卓をバンと叩いた。


「あの衣の持ち主を陛下はお召しなのです!」


 やってしまった、と紅月は息を飲んだ。いや、でもこれは喜ぶべきことなのではないだろうか。下級だろうが、妃なのだし。


「それは……断ってはいけないのよね」


「当然でございます! ご体調にはなんら問題ございませんでしょう」


「……はい」


「私は心配なのですよ! 紅月様が何かやらかしたりしたら……こっちにもとばっちりが……」


 燕禹は胃の辺りをぎゅうっと掴んで、呻いた。分かってはいたが、この男はどこまでも自分本位だ。とにかく、紅月が慌てようと気を揉もうと、皇帝の元に行かねばならないのは決定らしい。


「そしたら……私はどうしたらいいの?」


「すぐにでもお支度をせねば! お急ぎください!」


 燕禹の勢いに、紅月はこくこくと頷くしかなかった。




 その後、紅月は怒濤の勢いで天穹殿へと連れてこられ、女官たちに身を清められ、髪を解かれ、夜着へと着替えられた。そしてここで待つように、と寝台の上に放り出された。


 ここに至るまで、宦官も女官も皆血走った目をしていて、紅月はそれが怖かった。皇后を差し置いて何故お前がとか、またはこの一大事において粗相があれば許されるものではないとか、言葉にせずとも明瞭に伝わっているそれに、何も感じていないかのような顔をしなくてはならないのはとてつもない苦痛だ。


 だが、その嵐のような時間が過ぎて、こう室内に一人きりにされると、冷え切った静寂の真ん中で紅月は物思いに沈んでしまう。


 もう二度と来ることはないと思っていた天穹殿の寝台にまた来てしまった。だが、あの時は猫の姿だった。さすがの皇帝と言えど、あの猫が紅月だと見抜いたとは思えない。


 だとすれば、あの衣の一件がきっかけかと思うのだが、こうまでして呼びつけられる理由が分からない。


「待たせた。急ぎの案件があってな」


 紅月はその声にはっと顔を上げた。そこには昨日と同じように、若く美しい皇帝の姿があった。


「陛下……夏紅月と申します」


 紅月は居住まいを正し、顔を伏せた。


「よい。顔を上げろ」


「はい……」


 紅月は恐る恐る皇帝の方を向いた。指先がかすかに震えるのが止まらない。


「こちらに来い。少し酒でも飲もう」


 つかつかと紅月の前を通り過ぎ、皇帝は椅子に座る。


 処刑前の罪人のようにこわばり、怯える紅月に、皇帝は微笑みながら杯を勧めた。


「失礼します」


 紅月は皇帝の前に座り、杯を受け取った。皇帝がじっとこちらを見ている。紅月は手の中の杯を見つめた。まさか毒杯ではないだろうな、と。


「いきなり呼び出されて不可解であろうな」


 その様子を知ってか知らずか、皇帝は微笑む。近づきがたい雰囲気がその微笑みにかき消された。昨晩、優しく紅月の背を撫でていた手つきを思い出す。


「……はい」


 紅月ははっきりと困惑の表情を浮かべて答えた。


「衣を池に置き去りにしたこと……でしょうか。でも……」


「無論、それだけではない」


 皇帝が杯の酒を呷る。ことりと杯を置いて、皇帝はじっと紅月を見る。


「聞きたいことがあったのだ。人気のないところでな。だから呼んだのだ」


「はあ」


「謀るようなことをしなければ無事帰す」


 と、いうことは嘘をついたら自分はどうにかなるのだろうか、と紅月は思った。


「なぜあそこの池に落ちたのだ」


「申し訳ありません。池に落ちたのではないのです」


 紅月の回答に、皇帝の眉間にしわが寄る。


「……落ちたのではない? 猫を探して落ちたのではないのか?」


「え?」


 なぜそんな話に? と紅月はきょとんとした顔で彼の顔を見つめてしまった。


「あの……猫は飼っておりません」


「なんだと?」


 皇帝の顔がますます険しくなる。口をへの字にして明らかに不機嫌そうだ。


「……わかった帰っていいぞ」


「えっ」


「猫はいないのだろう。帰れ」


 紅月は信じられない、と心の中で叫んだ。皇后すら呼ばれないこの寝室に召されたことで、紅月は今後、この後宮の女たちのあらゆる憎悪を受けなくてはならないのに、皇帝の目的は猫探しだと言うのか。


(腹が立ってきた……!)


 昨夜あの呪を祓い、おかげで猫に変化して大変な目にあったというのに。紅月はすっくと席から立ち上がった。


「昨晩はあんなに優しかったのに。引っ掻いてやればよかったです」


「……は?」


 不可解な顔をしたのは今度は皇帝の方だった。


「では正直に昨晩なにがあったのかお話します。別に信じてくれなくても、笑い飛ばしてくださっても構いません」


 紅月がきっぱりとそう言うと、皇帝はまさか言い返されるとは思っていなかったのだろう。目を丸くして紅月を見た。


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