第3話
窓からは柔らかい午後の光が差し込んでいる。その明るさも、紅月の気分も晴らすことは無かった。寝台の上でごろりと横になって天井を見つめる。
そこに小さく掠れた声がする。
「お茶を淹れましょうか」
そちらに目をやると、三十路過ぎの瓜実顔の顔色の悪い女が立っている。侍女の雪香だ。
「……いらない」
「さようでございますか」
紅月が答えると、彼女はしずしずと下がっていく。彼女は寡黙でいつも暗い顔をしている。決して紅月を笑わせたり喜ばせたりということはなく、ただ黙々と身の回りのことをするのみであった。
さて、後宮に入り晴れて皇帝の妃のひとりとなった紅月ではあったが、所詮は地方官吏の娘、大して権力もコネもないとあって、その位は下から数えた方が早かった。なので与えられた宮も小さなものだったし、下働きは別に居るとしても、侍女もひとりだけ。お手当もさしたるものではないので紅に簪に衣装に、とはいかなかった。
とにかく、暮らしには困らないけれど退屈だった。散歩にでも出ればいいのかもしれないけれど、どこかの妃に鉢合わせると面倒だ。
「陛下なんてちらっと見ただけだし……」
故郷を後にした紅月は、燕禹に連れられて都に向かい、そこでお妃教育を受けた。だけどもそれを活かす場は訪れそうになかった。
「紅月様、お客様です」
「お客?」
紅月が首を傾げながら顔を出すと、そこに居たのは燕禹であった。
「お元気でいらっしゃるようで」
「……何の用です」
後宮に入ってから燕禹がここに顔を出したのは久々であった。
「三日後の宴の準備は進んでますか?」
「……あー、まあ一応」
「しっかりしてくださいよ。そろそろ私も楽隠居を決めたいのです」
燕禹は声を潜めた。
「追加の宮女募集は陛下が後宮の妃のどなたにも手をつけないからです。ここは好機なのですよ」
「それは分かってます」
紅月はうんざりして答えた。初めて宴に侍ったときはやってやるぞという気持ちはあったのだけれど、紅月の席はうんと後ろで、皇帝と言葉を交わすどころか目を合わせることすらなかった。
「よろしいですか、しっかりしてくださいよ」
燕禹がそう言い残して去った後、紅月はふてくされた顔で卓の上で頬杖をついた。
色とりどりの衣が、花びらのように宮殿の大広間へと集う。中央の席には皇帝と皇后の席があり、それらを取り囲むように妃嬪たちが席につく。……だが、一向に皇帝は現れなかった。それでも宴は続行され、酒菜が運ばれてくる。
「うん、おいしい」
皇帝に会うことすら叶わないのなら、食べることくらいしかすることない。紅月はいつもより豪華で味の良い食事をたいらげることに集中していた。
(うちの宮の食事はまずすぎる。心付けでも渡せばましになるのかしら)
紅月がのんきにそんなことを考えている横で、他の妃たちのひそひそ声が聞こえてくる。
「今日は皇后陛下のお誕生日の宴なのに」
「皇帝陛下がお加減が悪いのかしら?」
「うふふ、陛下は皇后様を遠ざけてらっしゃるのよ……だからねぇ……?」
ちらりと紅月の方に視線が向けられる。追加の妃が加えられたのも、皇帝が後宮を避けているからだ。ただ、紅月はその役目は果たせていないが。
中央に目を向けると、空っぽの席の隣に、赤に金糸の刺繍の艶やかな衣を着たまだ少女と言っていい歳の皇后が座っている。彼女は膳の物に何一つ手をつけることすらなく、じっと前を見ている。
(あんなさらし者みたいになって、私ならば耐えられそうにない)
隣の妃たちはその姿を見て嗤っているが、紅月はそんな気になれなかった。あわよくば、で後宮入りした自分とは比べものにならない重圧を背負って、彼女はそこにいるのだ。
(ああ、何かむかむかする)
それはご馳走を食べ過ぎたせいでもあるし、宴の席を不在にした皇帝のせいでもある。
「運気は上昇し成功する。ただし困難に立ち向かうこと……」
紅月は後宮入りを決めた占いの結果を反芻した。この後宮で生きることと、田舎でささやかに隠れ住むのと、どちらがいいのか。結果、選択したのは後宮だった。ただ、今は立ち向かうべき困難の尻尾にすら触れられないでいる。
「……占うか」
紅月は箪笥から筮竹を取りだした。卓の上に筮筒と掛肋器、算木を置くと、やはり身が引き締まるような気がする。
「紅月様、お召し替えを先に」
「すぐに済むわ。雪香、あなたも占ってあげましょうか?」
「結構です」
「そう……」
あまりにもはっきりと拒絶されて、紅月は首をすくめた。
「ま、いいわ」
気を取り直して筮竹を手にする。自分はこれからどうするべきか。額に筮竹を当て、心から呼びかける。するとざわっとした悪寒が、紅月の背中を駆け抜けて行った。
(なに……これ)
紅月は慎重に筮竹をさばく。そうして出た卦は次のようなものだった。
「波乱の運勢。周囲に飲み込まれるな。冷静に……」
危機が迫ってくると結果には出た。紅月の胸がざわつく。
「いつ? すぐですか?」
紅月はさらに卜杯を投げた。三度投げた結果を見て、紅月は立ち上がった。
「雪香、散歩に出てくるわ。供はいらない」
「今からですか?」
普段無表情な雪香の顔色がさすがに変わる。
「夜中ですよ」
「大丈夫。後宮の中だし。何のために衛士がいるのよ」
ちょっとひとりになりたいだけだから、と言って紅月は宮を出た。
季節は秋。涼しくなって散歩には最適の気候だ。だが、紅月は何かに追い立てられるように歩いていた。
(あんなにはっきりと卦に出たのは、お母様が亡くなった時以来……)
紅月は元々、勘の強い子供であった。急に何か嫌な気持ちになったり、時には人でない物の声や姿を見ることもあった。そんな紅月に占いやまじないを教えて、ただ怖がるだけでなく、対処する術を教えてくれたのは母だった。
その紅月の霊感が、何か悪いことが起こると告げている。気がつけば、紅月は皇帝の居住する天穹殿の近くまで来ていた。これ以上うろうろすれば見張りが出てくるかもしれない。
その時、紅月ははっとして空を見上げた。
「あれは……火球?」
空に、この満月の空でもはっきりと分かるくらいの光が、夜空を切り裂いて駆けている。
「違う!」
あれは星の瞬きとか、そういった類いではない。禍々しく赤い巨大な光が天穹殿に向かっている。肌がびりびりするほどの悪意。怒り、悲しみ、恨み……それらが渦巻いて火を噴いている。
――あれは
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