第4話

 紅月は死に物狂いで走り出した。まじないの類いはしても、紅月は呪を祓ったことなどない。ましてはこのような凶悪な呪を。それでも紅月は呪文を口にした。


「太一が私に万鬼を殺させる。鬼は去り神は至れ。急急」


 呪が眼前に迫る。紅月はひたすら呪文を繰り返す。どうか去れ。どうか去れと。


「あっ……」


 紅月の目の前が真っ赤になった。赤い呪は紅月の体を貫いた。耳を塞ぎたくなるような罵声、怨嗟の声、すすり泣き。それらが紅月の耳の中で大音声の銅鑼の様に鳴り響く。


 紅月は震える手で胸元から護符を取り出す。これは災い避けのもので、常日頃、身につけていた物だ、


「……ふっ!」


 紅月は息を吐いた。すると護符が燃え上がり取り巻いていた悪鬼の気配が薄れる。


『邪魔なやつめ』


 低い声が耳元でした。と、同時にふっと力が抜ける。


「……行った?」


 その場はしんと静まりかえっている。あの巨大な呪を完全に滅してはいないだろうが、少なくとも追い払うことには成功したらしい。


「よかった……」


 紅月はほっとしてしゃがみこんだ。体の力が抜けていく。と、肩からはらりと服が落ちた。


「……なに?」


 その途端、紅月の体に痛みが走る。ぎしぎしと骨がきしむ。紅月が動揺して当たりを見渡すと、なぜか建物が大きくなって見えた。そして、その景色も、布が被さってきて何も見えなくなる。


(なにこれ……)


 だれか助けて、と声を発しようとしたが、人語の代わりに出たのは「にゃあ」という鳴き声だった。


(これはまるで……!)


 紅月は慌てて布から逃げ出した。振り返ると、そこに落ちているのは紅月が来ていた服だった。手を見ると、白い毛の生えた獣の手。


(なにが起こっているの?)


 紅月は天穹殿の前の橋から下を覗き込んだ。静かな水面に、丸い月と、白い猫が映っている。


(猫……私が猫の姿になっている⁉)


 驚き、声を上げるが、それは全てにゃあにゃあという猫の鳴き声になってしまう。


「にゃあーっ! にゃあー!」


 紅月は思いつく限りの呪文を唱えてみるが、猫の喉ではどうにもならない。


「なぁ……」


(これはどうしたことなの。あの呪が関係しているのは確かなのだけど)


 紅月はがっくりと項垂れた。こんなのはひどい。田舎で隠遁するより、後宮に入ることよりひどい。この手ではお父様に手紙を書くこともできない。


「にゃ……にゃ……」


 紅月はぽろぽろと涙を流し、その場に蹲った。


 そうしてしばらくじっとしていたところ、紅月はひょいと首根っこを掴まれ、空中にぷらんとぶら下げられた。


(な……なに⁉)


 紅月が慌てて回りを見渡すと、糸目の面長の宦官が、自分を捕まえていることが分かった。


「にゃーっ!」


 離せ、離せと紅月はじたばた手足を振り回したが、まったく歯が立たなかった。


「こいつかあ、さっきからうるさいのは」


(どうしよう、殺されるかもしれない!)


 紅月はぞっとした。全身の毛は逆立ち、ぷるぷると震えが止まらない。


「そこにおったのか」


 天穹殿の入り口の階段の方からまた別の声がして、紅月はそちらを振り返った。そして、思わず息を飲んだ。何度かチラリと遠目に見ただけだが、間違いない。皇帝だ。


「よしよし、怖がっておるではないか。貸せ」


 皇帝は宦官の手から包み込むように紅月を抱き上げると、首元をくすぐるように撫でた。


「どこかの妃のとこから逃げ出したか。迷子か?」


 その声は低くて柔らかい。紅月はぎゅっと瞑っていた目を開いて、皇帝の顔をまじまじと見上げた。


(綺麗……)


 きりりとした眉に、高い鼻梁。目元は少し垂れ目だが、切れ長で優しげだ。逆に口元は薄く、男らしさを感じる。紅月が今まで見た男性の中で一番美しいのは自分の父親だった。しかし……とまた紅月は皇帝の顔を見つめる。


(父様より美男かも……しれない)


「白毛に赤目か。珍しいな。おい、この猫を寝所につれていくぞ」


「ええっ、本気でございますか? 蚤がおるやもしれませんぞ」


「この毛並みだ。飼い猫だろう」


 皇帝と宦官はそんなことを話ながら歩き出した。


(待って、待って! 勝手に決めないで!)


 紅月は焦って皇帝の手の中から逃れようとしたが、笑って抱え直されただけだった。


「それでは明朝お迎えにあがります」


「ん」


 宦官が寝室を出て行く。紅月は暴れるのをやめてじっとしていた。下手に暴れて追いかけ回されるよりも、皇帝が寝てから逃げ出した方がいいと思い直したのだ。


「ここにおれ」


 紅月はふかふかの布団の上に載せられた。


(さらさらの絹、ふわふわ……気持ちいい……)


「そうか気に入ったか」


「にゃっ⁉」


 紅月はおもわず身を伸ばしてしまった自分に驚いた。体が猫だとふるまいも猫らしくなってしまうものなのだろうか。


 そんなことを考えていると、隣に皇帝が滑り込んでくる。きゅっと抱き締められながら、布団に包まれる。


「さあ寝るとするか。と……言っても私は寝られんのだがな」


「にゃー?」


「目を瞑ると政務の事やら身内の事やらが頭を巡ってなかなか眠れん。やっとウトウトできたと思ったら朝が来る」


 皇帝はそう言ってため息を吐いた。


(気の毒に。それでは体が持たないでしょう)


 紅月は眠れないとぼやく皇帝が気の毒になって、彼の胸元で丸くなった。


「お前の飼い主も探してやらないといけないね」


 その声は優しい。大きな手で背中を撫でられると、紅月の喉がごろごろ鳴った。


(薄情な人とばかり思っていたけど……本当は違うのかもしれない)


 だが、宴の席で凍ったように動かなかった皇后のことを思い出した。だとしたらなぜ、あのような仕打ちをしたのだろうか。


 どうにもこの手の温かさと後宮での振る舞いが一致しないように思える。


「柔らかくて温かいな……お前は……ふぁ」


 皇帝はそう呟くと、すうすうと寝息を立てて眠りはじめた。


(眠れなかったんじゃなかったの?)


 皇帝の寝顔は安らかだ。紅月はしばらくその寝顔を見つめている。そのうちに夜は更けていく。


(ああ、こんなことをしている場合じゃない。ここから出なくっちゃ)


 皇帝の腕の中は温かく、居心地は良かったが、紅月はそーっと彼を熾さないように布団から出ると、見張りに見つからぬよう、天穹殿を出た。月は煌々と輝き、昼間のようだ。そこに色鮮やかに輝いているのは、紅月が着ていた服だった。


(そうだ、これをどうしよう)


 猫の身では持って帰れない。かといってこのままではあまりに目立つ。紅月はしばらく考えて服を咥えると、橋まで引きずっていき、そのまま池の中に落とした。これならそうは見つかるまい。紅月は建物の影に身を隠しながら自分の宮へと戻った。


(とはいえ、戻ったところでどうしよう)


 この猫の体は元に戻るのだろうか。戻るとしたらいつ頃になるのだろうか。不安は募るものの、そこらにいるよりはマシだろう。当然ながら入り口の扉は締まっている。よじ登るのは無理そうだ。紅月は宮をぐるりと回って、空いている窓から中に入り込んだ。


(ここは……)


 誰か使用人の部屋だ。調度がしっかりしている。と、いうことは雪香の部屋だ。紅月がそっと物陰から顔を出すと、雪香は卓に突っ伏していた。


(そうか、私が散歩に出たまま戻らないから……)


 主人がどこかに行ったまま休むことなど出来なかったのだろう。


(この上でまた迷惑をかけることになるけれども……)


 紅月は雪香の伏せている卓の上に飛び乗った。なんとかしてこの猫が紅月だということを分かってもらい、この変化を解くのを手伝ってもらわなければならない。


「にゃあ」


 起きて、と声をかけ、手……もとい前足でちょいちょいと雪香の額を突いた。


「ううん……」


 雪香が起きる気配がある。


(いきなりぶちのめされたらどうしよう)


 紅月は急に不安になって身構えた。


「……猫?」


「……にゃあ」


 目覚めた雪香とぱちりと目が合う。今更になってどうしようとなって、紅月は一歩後ずさりした。が、雪香の動きはそれより速かった。


「猫ちゃん!」


「⁉」


 雪香に抱き締められ、ぎゅうぎゅうと胸に押さえ込まれ、紅月は目を白黒した。


「かわいい子! どうしたの? 迷子でちゅか?」


 普段の陰鬱な様子からは考えられない雪香の様子に、紅月は混乱の極みに陥った。


「はあー……ふわふわ……でもね、今は遊んであげられないの。私のご主人様が散歩に出たまま帰ってこないのよ」


 雪香ははあと息を吐く。その様子は、帰ってこない主人が心配であるというより、猫と遊べないのが甚だ残念だ。という風に見える。


(違うのよ、私は目の前に居るのよ!)


「もう朝になるのに……どうしたらいいのかしら」


 その主人は目の前にいるのだ、と紅月はなんども鳴いた。が、通じる訳もない。


「いい加減、宮門警備に通報しなければ。困りまちたね」


(駄目! それは駄目!)


「なあに? でももう朝になるのよ。いつまでも放っていく訳にはいかないのでちゅよ」


 そう言いながら雪香は窓を開け放った。すでに空が白んでいる。弱々しい朝日が部屋の中に差し込む。


「にゃあ……?」


 その朝日を目にした時、紅月の心臓がどくりと音を立てた。毛が逆立つ。関節がギシギシと音を立てる。


「あ……あ……」


「猫ちゃん⁉ 猫ちゃんどうしたの!」


 紅月が雪香の手から滑り落ち、床に転がった。苦しい。だが、この感じには覚えがある。


「にゃ……せ、雪香……!」


「え? ああ? 紅月様⁉ あれ、あらら⁉ 猫ちゃんは?」


 朝日を浴びた紅月は人の形を取り戻していた。ただし、着ていた服は天穹殿の前に置いてきてしまったので一糸まとわぬ姿である。


「ごめんね……心配かけたわね」


「は……はい……」


「寝間着を持って来てくれる? 少し眠るわ」


「かしこまりました」


 雪香は驚いてはいたものの、もう従順な侍女の顔を取り戻していた。この紅月の変化を目の前にして、金切り声で騒いだりしなかったのはありがたい。


「起きたらちゃんと説明するから」


 なんとかそう伝え、紅月は倒れるようにして眠った。


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