第五章 black coffee.
第25話
あたしの部屋の前に人影があることに気が付いて、こちらを振り向いた瞬間。順平の笑顔に、走り出したい衝動をぎゅっと握り締めた手に抑えた。少しだけ急いで、目の前に立つ。
「……順平…」
「おかえり、まどか」
変わらない笑顔。一気に、今日が今までと同じだと錯覚してしまう。
「た、ただいま。今、開けるね」
急いで家の鍵をバックから取り出して開けようとしたあたしの手を、順平は止めた。
「ごめん。中には入らない。入る権利なんて俺にはもうないし」
「え、」
「ほんと、ごめん。絵里子とは、話した?」
頭を下げた順平は絵里子の名前を出す。
絵里子とは、あれから会うこともなかったし、連絡もとっていない。だから、あたしは首を横に振った。
「そっか……ほんと、ごめん。俺からはそれしか言えない」
どうしてそんなに苦しそうに頭を下げるの? 後悔、しているの?
「……ちゃんと言ってなかったな……」
「え?」
「まどか、俺と別れてほしい」
目の前が、真っ暗になるって、こう言うことだ。
持っていたバックが、力が入らなくなった手からすり抜けて落ちる。同時に、手にしていた家の鍵がカシャンっとやけに大きな音を立てて、ゆっくりと地面に弾んだ。
わざわざ、それを言うだけにここへ来たの?
あたしの聞きたい言葉は、それじゃなかった。
少しだけ、ほんの少しだけ、期待していた。
もしかしたら、全部間違いで、また順平はあたしの所へ戻って来てくれると。
そんな期待を少しでもしてしまっていたから、それが一気に打ち砕かれて、あたしの涙腺は崩壊していた。
「やだっ……なんで? 何がいけなかったの? あたしはこんなに順平が好きなのに。順平は、いつからあたしのこと好きじゃなくなったの? 最初から、全部、嘘だったの?」
溢れてくる涙と言葉が止まらなくて、順平を失いたくなくて、あたしはずっと我慢していた順平に触れることを止めることができなかった。
抱きしめた順平のコートから、馴染みのある香水の香りがした。
泣きながら震える手で順平を抱き締めても、順平はあたしを抱き締め返してはくれない。
香ってくるのは、絵里子がいつも付けすぎじゃないかと思うくらいに歩いた数メートル先まで香りを残すあの香水の匂い。バイト終わりに絵里子と会ってから、ここにきたのかもしれない。
涙は出るけど、順平から離れたくないけど、その香りのせいで、嫌でも順平から離れなければと思わせられる。
ますます溢れ出す涙に、もう順平の顔なんて見えなかった。
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