第5話

 スピードを落として歩みを止めると、誰もいない建物の陰にそっと隠れて、溢れ出てくる涙を拭った。

 悲しい感情なんて昨日全部吐き出した。今は悔しい。何にも分かってくれていない二人に、ただただ悔しくて仕方がない。押し殺していた嗚咽が少しだけ漏れ始めたその時、目の前が真っ暗になった。

 思わず、驚いて顔を上げる。


「あー、思ったよりひでぇ顔」


 眉を緩めて笑う成海くんがいた。視界が真っ暗になったのは、黒いコートを着ている成海くんに、リュックごとすっぽりと抱き締められていたから。

 離れようとするけど、成海くんは離してくれない。逆に、抱えていたリュックを掴まれると、ポイっと下に置いて、あたしを丸々自分の胸の中に包み込んでくる。ふわっと香ってくるのは、今朝成海くんの部屋でも感じた少し甘い香水の香り。


「いいよ、思い切り泣いて。誰にも見せないから」


 やっていることは強引なのに、包み込む腕の力や言葉は優しくて、あたしは堰を切ったように泣き出した。


 しばらく成海くんの胸の中で大泣きしたあたしは、「落ち着いた?」の言葉にうまく開かなくなってしまった瞼をこじ開けて、微笑む成海くんの顔を確認しながら頷いた。「よしよし」と、子供を宥めるように頭を撫でてくれる大きな手に、あたしはすっかり気を許してしまっていた。だから、つい気になってしまう。


「なんで……あたしが辛い時に側に居てくれるの?」


 昨日も、今日も、頼ったり支えてもらったりする人を失って、どこへも吐き出す場所なんてなかった。

 それなのに、顔も知らなくて話したこともなかった成海くんが、こんなに優しくしてくれるのはなんでなんだろうって、気になってしまう。


「またそれ? だから、俺が忘れさせてやるって言ったじゃん。まぁ、約束? みたいなものだから」

「……約束?」

「そう、俺とまどかちゃんとの約束。いい?」


 そう言ってあたしの顔の前に小指を立てて見せる。


「ゆびきりしとく?」

「……忘れさせてくれる、約束のゆびきり……?」


 ──いいのかな?

 あたし、成海くんがどんな人なのかまだよく分かっていないのに、こんな約束をしてしまっても。早夕里が言っていた言葉も気になる。こんなに格好良くて優しい人が、順平の事を忘れさせてくれるなんて、どうやって?


『あの人女遊びヤバイって』

『遊ばれて捨てられるのがオチだよ?』


 そうだよね、きっと彼氏にフラれて落ち込んでいるところにつけ込んで、遊ばれて終わりなだけなのかもしれない。

 だけど、そしたら、一つだけ気になることがある。

 ただやりたいだけなら、昨日のあたしなんて格好の獲物だったはず。なのに、成海くんはなんにもしていないと言った。

 きっと、遊んで捨てられるだけなら、今朝とっくに捨てられていた気がする。

 それなのに、あたしは平和に朝を迎えて、また辛い時に助けてもらっている。

 ただ単に、あたしが女として魅力がないだけなのかもしれないけれど。

 だって、朝の成海くんはどう見ても子供に手を掛ける親みたいだった。だから、あたしのことを弄ぶ気なんて、サラサラ起こりもしていないのかもしれない。魅力が無さすぎるのか、あたしは。

 だんだんと落ち込んでくる頭に俯いていると、成海くんが心配そうな顔をしてあたしの顔を覗き込んできた。


「大丈夫? まだ悲しい?」


 出していた小指を一度下げて、成海くんがあたしの前にしゃがみ込むから、あたしは首を横に振った。


「ううん。悲しいって、言うより……なんか、悔しかったから……大丈夫」


 消えそうなくらいの声量で呟くと、足元で顔を上げる成海くんが、安心した様に優しく笑ってくれた。


「そ、なら良かった。悔しいって思えたのなら、やっぱりまどかちゃんは強いな」


 スッと立ち上がって、あたしの頭を撫でてくれる。その手は暖かくて大きくて、安心する。昨日繋がれた手にも、同じ様なことを感じた。

 成海くんは、やっぱり優しい人だと思う。悪い噂なんてきっと、ただの噂。


「まどかちゃんさ、この後予定ある?」

「え……」

「カラオケでも行こうよ。悔しさ発散しに!」


 そう言って空を切る様にパンチを繰り広げて笑う成海くんに、あたしは迷うことなく頷いていた。

 このまま一人でいたら、きっとあたし暗くなってしまうだけだ。だったら、成海くんがどんな人だったとしても、今はこの手を、離したくはないと思ってしまう。

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