心の奥底にほの暗い孤独

‐‐‐‐‐-----―――

恋ってのは、

それはもう、

ため息と涙で出来たものですよ。


シェイクスピア

‐‐‐‐‐-----―――


はぁっとため息を吐きながら、大学の構内を歩いた。


「佐々木さん」


後ろから声がかかって思わず振り返る。

息を切らした千里が走ってきていて、目を見開く。


なんで追い掛けて来たの?

一瞬の間に色んな事を考える。

歩いていた足を止めて、ぴたりと立ち止まると、千里が私の前で立った。


「……先生?」

「あのさ」

「はい、……なんですか?」

「今日さ、起きた時に吉村くんと大して喋る時間もなく家を出たから分からなかったんだけど。今メッセージが来てさ」


携帯の画面を見せられる。 

心臓がドクドクとうるさい。

追い掛けてくるほどの何かがあるのだろうか。

画面を覗きこむと、小さな字で吉村からのメッセージが写しだされていた。


『あいつにも礼言っとけよ。あいつが連絡くれなかったらお前野宿だったんだからな。しばらく禁酒しろ!』


乱暴な言葉で締めくくられたそれはまさに吉村で。

だけど、私は致命的なミスに気付いて冷や汗が背中を伝う。

千里がいぶかしむような視線でこっちを見てくるのが分かった。


「ねぇ、佐々木さん。吉村くんと知り合いだったの?」

「え、あぁー……その」


さっき「偶然通りかかった」と説明して嘘をついたけど、吉村からのメッセージには連絡を私がしたと書いてある。


まずいな。

どう切り抜けよう。 

もうこうなった以上、吉村と知り合いだというのは隠せないだろう。

だけど、嘘をついてまでその事を隠していた理由を聞かれたって、うまく思いつかない。


せめてもう少し時間があれば、理由もひねり出せたかもしれないけど、千里の目は私を見透かすように見る。


「僕さ、分かったんだよね」

「え?」


答えに困っていたところに、明るい答えが返ってきて、思わず顔を上げる。

私が今困った顔をしているのか、千里は和ませるように優しく笑った。


「佐々木さんが吉村くんとの事を隠していた理由」

「……なんですか?」


ドキドキする。

明穂だとバレてしまったのではないかと、考えが頭をぐるぐると巡る。

呼吸がしづらなくなって、何でもないふりを心がけているつもりだけど、私は今どんな顔をしているのだろうか。

頬の筋肉が強張る。


「佐々木さんって吉村くんと付き合ってるんでしょ」

「…………へ?」

「いや、だって知り合いだって事を隠す理由なんてないし、吉村くんって最近彼女いるって聞かないからどうなのかなってずっと気になってて。こんな若い子と付き合ってただなんて隅に置けないなぁ」


え、いやいやいや。

なんか置き去りにして喋られているけど、一体なんで千里はそんなにも嬉しそうなんだ。


「いやー、僕吉村くんにはずっと誰かと幸せになってほしいって思ってたから」


なるほど。

それは分かるけど、ここは否定しないと絶対にややこしい事になる!


「いや、あの、吉村とは、付き合ってないから」

「呼び捨てにするほど仲いいんだ」 


にやにやと笑う千里の顔は初めて見る顔だ。

なんだこいつは。

ていうか、彼女だったなら名字呼び捨てになんてしないだろうし。

え、まず、私吉村の下の名前を覚えてもいないんだけど。

それで付き合ってるとか推測されてもなぁ。


「そうだ。今度三人で飲みに行こうよ。彼とは週に一回は飲みに行ってるからさ。って、もう彼から聞いてるか?」


確かに聞いていたけども!

茶目っ気たっぷりの顔で笑われて、ふつふつと苛立ちが込み上げてくる。

いやいや、待てよ。

さっき明穂だとバレるんじゃないかと心配した私のドキドキを返せ!

千里になんて、一生明穂だと言ってやるか、ばーーーか!

 

「先生。授業始まるから私もう行きますね」


怒りがどうやら隠しきれていない。

それなのに千里はまだにやにやしていて、ほっぺをつねってやりたい気分になった。


「あ、飲みに行くとき、呼ぶからさ、携帯の番号教えてよ」

「え、あ、えっとー」


「これに書いて」と渡された手帳とボールペンを受け取って、携帯番号を書く。

吉村と三人でご飯に行けたら楽しいとは思う。

その時に付き合っているという誤解も解けるだろう。

佐々木美亜としてだとはいえ、三人で久しぶりに会えるのは胸をわくわくさせるものがある。


「はい」


手帳とボールペンを渡すと、千里は一度番号を見て首を傾げる。


「これ、……ごめん、7か9かどっち?」


7の文字を指差されて言われる。

ムッと頬を膨らませて、「7ですっ」と答えると、千里が珍しく声に出して笑った。


「ごめんごめん、怒んないでよ。これ僕が数学の教師だったら△つけてるよ」

「ていうか、どう見ても7ですよっ」

「あはは、いやいや、これは…………あれ?」


千里が首を傾げる。

千里の反応に私も首を傾げる。

じっと手帳を見つめて、考え込むようにして、千里は真剣な表情をしていた。

 

「やっぱり、なんか、ずっと思ってたんだけど」

「……はい?」

「佐々木さんって僕の初恋の人によく似てる」


カッと顔が赤くなる。

千里もその変化に気付いたのか、一瞬気まずそうに目を逸らして、「あー……」と低い声でうめくように言った。

これ、普通に何の関係もない人が聞いたら、完全に口説き文句だ。

綺麗な顔してる人にそんな風に楽しげに言われたら、免疫のない女の子なんてころりと行くだろう。


「先生って罪な人だわ」

「あ、いや、ごめん。そんなつもりじゃなくて、僕は純粋に」

「はいはい。じゃあ、私授業行くんで」

「あ、うん。吉村くんによろしくー」


とっくに始まっていた授業に、遅れていると気付いて、少し小走りになる。

何となく気分は良かった。

千里が離婚をしかけているというのに、私ってやつはとても現金女で、それでも気分は良かった。

早く三人でご飯に行く日は来ないかと、そればかりを楽しみにしていた。

 


―――そして。



「なんでこうなってんだよ!」


吉村の雄叫びが居酒屋にこだまする。

二人は当たり前のように、店員さんに生ビール二つを頼んで、嫌がらせのように吉村が私の分に芋焼酎ロックを頼みやがった。


もちろん私は飲まないので、吉村の二杯目になった。

席の配置としては千里の配慮により、吉村と私が隣同士で、千里は向かいに一人で座っている。


千里はしてやったりという顔をしている。

自分の作戦が成功した事が嬉しいのだろう。

千里の満ち溢れた顔は可愛いと思うけど、正直吉村とカップル扱いされてはたまらない。


案の定、「付き合ってるんでしょ?」とにこにこと告げる千里に、吉村が唖然としたように口を大きく開いた。

そして、冒頭の雄叫びに戻る。 


「え、違うの?」


千里がきょとんとした顔をする。

私はぽりぽりと頬をかいてその質問をスルーする。


吉村に丸投げだ。

吉村は隣でありえないというように顎を突き出して、「はぁ?」と声を出す。


「俺とこいつが付き合ってるわけねぇだろ。どこから勘違いしてんだ。ばか千里」

「えぇー、絶対付き合ってると思ったのに。じゃあ、なんで佐々木さんは吉村くんと知り合いな事を秘密にしてたの?」


千里が本当に不思議そうに聞いてくる。

言葉に詰まった。

そういや時間はたっぷりあったのに、言い訳の一つも考えてなかった。

吉村がじろりとこっちを見る。

その視線に気づいていないふりをして、目の前にあった軟骨から揚げに箸を運んだ。 


「あき、……」


明穂と呼ぼうとしたな。こいつ。

盛大に足を踏んづけてやると、吉村が恨みがましくこっちを見てくる。


「お前なぁ」

「今のは吉村が悪い」

「はいはい、すみませんねぇ」


千里は私たちのやり取りを黙って聞いて、ビールをあおる。


「やっぱり仲いいんじゃん。付き合ってるんでしょ?」

「「だから違うってば!」」


そのやり取りを何回か繰り返しているうちに、それはネタのようになった。

もう千里も理由だとか本当の関係だとかは気にならなくなったらしい。

「前世から知ってんだ」と吉村が茶化したように言うのに、私は冷や冷やしてもう一度盛大に足を踏んづけてやった。

ほろ酔い加減の千里は、「へぇー吉村くんって意外とロマンチストだったんだ」と的の外れた返事をよこしてくれた。


「今日はそんなに酔わないんですね」

「あぁ、この前はごめんね。でも毎回あんな酔っぱらってるわけじゃないんだよ」

「どうだか」


千里が苦笑いするのに対して、吉村が憎まれ口を叩く。

この二人ってこんなに仲良くなれたんだな。ちょっと感動。

しみじみしながら、ドンと真ん中に置かれた刺身盛り合わせに手を伸ばす。

途中で電話の着信音が鳴って、吉村が席を立つ。


「ちょっと仕事の電話だわ」

「はいはーい」


席を立って店を出て行った吉村を見送ると、テーブルは二人きりになった。

この前ほどとはいかなくても、ほろ酔い気味の千里は、機嫌が良さそうにへらへらしている。

相変わらず酔いっぷりはさすがだな。


「先生ってさ、」

「うん」

「毎回お酒の席では酔ってんの?」

「毎回っていうか、妻は飲まないし、仕事関係では意識して酔わないようにしてるし、女性と飲みに行った事なんてないし、飲み友達と言えば吉村くんぐらいで」

「へぇー、あんまり人前で酔わない方がいいですね」

「ふふ、吉村くんにもいつも言われる。お前は酔った勢いで浮気する野郎だって」


確かにそれは一理あるかも。

酔ったら色気がなんだか増えている気がするし、千里って無意識にたらすような発言するし。

基本的にはモテる人だし。

なんで私って、佐々木美亜として生まれ変わってから、こんなにも千里に執着しているんだろうか。


恋愛として好きかどうかグレーだけれど、惹かれていることは確かだ。

それを独占欲だと片づけられれば、そうなるのかもしれないけど。

だから、奥さんと別れた後が怖い。

私の歯止めが利かなくなって、千里を離したくなくなるかもしれない。


「先生、奥さんとどうするの?」

「んー、そうだね。多分別れると思う」

「……そうなの?」

「うん。僕が頑張ればと思っていたけど、妻の事を考えれば苦しめているだけだなって。離婚してあげた方がいい。彼女に我慢をさせながら、今更好きになろうと努力するのは考えればひどい話だろ」


千里が困ったように笑いながら、ビールを飲んで苦い顔をする。

そっか。

確かに好きになろうと頑張るなんて元々おかしな話で、別れにストップをかけたって、そんな状態で恋愛ができるわけがない。


千里はその決断をするまでにどれほど苦しんだのだろうか。

私が最後に告げた「幸せな人生を」という言葉に、いつまで千里は縛られているのだろう。

不憫になった。

自由に生きていいんだよと言ってあげたくなった。


「僕たちには子供がいなかったから、なおさら二人で愛し合わないといけなかったのにね」

「……先生、幸せになるのって難しい?」

「ふふ。何も君がそんな泣きそうな顔をする必要はない」


千里は穏やかそうに告げて、私の髪に手を伸ばした。

するすると手が近づいてくるのを私は拒否する事などできなかった。

じっとしていると、千里の手が私の頭に乗って、ポンポンと撫でた。


「佐々木さんは優しい子だね。吉村くんにはもったいないな」

「だからぁ、付き合ってないってば」

「そうだっけ? あ、泣いた。なんで泣くの」


とうとう抑えきれなくなった涙が瞳に膜を張って、ぼろりと零れ落ちた。

千里が可哀想だった。

幸せになろうと努力して、努力して、それでもいまだに幸せを掴めない千里が。

私は死という大きな出来事を味わって、奇跡が起こって別の生を受けて、大好きな家族と友達に囲まれながら育った。


それは幸せの一言だった。

千里ばかりがこうして立ち止まっている。


「ごめんね、ごめん」

「ん? どうしたの」


何も知らない千里。

千里が離婚をしたら、明穂だと告げるか考えようと思っていた。


だけど、もう言ってやりたい。

明穂だよって。

身体は違うし、千里が応援してくれた時の走りも見せてやれないけれど。


魂は明穂なんだよって。

告げて、幸せにしてやりたくなった。

これが恋愛じゃなかったとしても、それはかまわない。

そう思えるほど、私は千里の孤独を覗き込んでしまった。


「ほらほら、泣きやんで。彼氏の吉村くんに叱られちゃうでしょ」

「吉村は彼氏じゃない」

「うん。じゃあ、もしかして僕のために泣いてくれてるの?」


ハッと顔を上げる。

千里は優しそうに笑って、私の前髪をさらっていった。

おでこを見られてなんだか恥ずかしくなる。


「先生のために泣いてます」

「そっか、ありがとね」


自分なりに。

勇気を出して言った一言だった。

美亜として初めて、意思を込めて恋愛を意識させる一言だったと思う。


だけど、千里はわざとらしいまでに明るい声を出すと、手は少ししてさりげなく離れて行った。

そのあと、ハンカチを渡してくれたけれど、もう触れてくれる事はなかった。

多分私の何かしらの感情に気付いたのだろう。

予防線を張るように、千里は白々しく外を見ていた。


「吉村くん遅いねー」

「……はい」


教授と生徒だ。

私からすれば、千里と明穂。

だけど、千里からすればまぁよくても、友達の知り合い程度だろう。

吉村と付き合ってるのかと思っていたとき、千里はとても喜んでいて、私たち二人をすぐに飲みに誘ってくれた。

私と恋愛関係になろうとなんて、全く思っていないに違いない。


酔っていたって、そこら辺の線引きはちゃんとするらしい。

高まっていた私の感情はぷしゅーっと空気が抜けるようにしぼんでしまった。


明穂だと告げるには勇気やタイミングやらが必要で、会話を切り出しにくくなってしまった今、やはり保留という決断になった。

千里が離婚してから、もう一度告げるか考えようと、臆病な自分が出てきた。

なんで言えないのか。

千里に恨み言を言われたってそれを受け止める覚悟はあるのに、なんで言えないのか。

そう思って、気付く。


「お前は明穂じゃない」とその言葉が怖くてたまらないのだ。


「わりぃわりぃ、遅くなったな」


吉村が戻ってきて、私の隣にどすんと腰を下ろす。

私たち二人の空気に気付いて、ん?と首を傾げる。


「なに、お前ら。なんかあったの?」


この無神経!

気まずい空気を悟って、そこはスルーするのが常識でしょうが!


「あ、お前、泣いたの? どうしたよ」

「別に、何でもない。吉村、ウーロン茶頼んで」

「はいはい」


吉村が元気よく店員さんを呼ぶ。

そのころには、吉村がようやく空気を読み始めたのか、自分の仕事話を切り出してくれたので助かった。

千里と私はそれに乗っかって、白々しいテンションで話を交わした。

 

その日は、しばらくして解散になった。

千里と吉村は私をタクシーに乗せてくれて、二人は電車で帰ると告げた。

吉村の意味ありげな視線と、妙にそっけない千里の態度に気付きながら、私は笑顔でタクシーに乗った。

あんなに露骨に態度変えなくてもいいのにさぁ。

もう次は飲みに呼んではくれないだろうな。

しょんぼりとした気分になって家路についた。

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