全てを受け入れられる時、それは

月曜日からまた大学が始まって、ゼミのない今日も私は大学へ来ていた。


今日は二限の仏教の授業に来ていた。

もちろんいつもの三人も一緒だ。

これは選択科目で自由に選択できた時に、テストが簡単だからという理由で選んだだけで、四人とも大して仏教学に興味はない。


「よく、輪廻転生という言葉を聞きますね。今日はそれの転生についてお話ししましょう。これは仏教では大きな意味を持ちます」


ヤギのようなおじいさん先生は、見た目と違って声はハキハキしていて、お話が上手だ。

出席を取らないこの授業に、こんなに人が多いのは、この先生の力なのだろう。


「転生というのは生まれ変わりを意味しています。みなさんもー、生まれ変わるなら次は男女のどちらがいいなどというお話をするでしょう。それぐらい浸透したお話です」

 

私は先生の話に興味を持っていた。

自分が生まれ変わったから、この話を聞いてみたかった。


「亡くなった人が新しい肉体を借りて、赤ん坊として帰ってくる。これが転生です。そして、その宗派によって様々ですが基本的には人間は人間に生まれ変わるとされています」


ペンをノートに走らせながら、音を拾う。

先生はホワイトボードに大きく、転生という言葉を書いて、矢印で色んなワードとつなげていく。


「そして、カルマという言葉は知っていますか? カルマとは業(ごう)とも言い、前世で行った善悪のことですね。それを引き継いで生まれ変わるという事です。すなわち、前世で悪い事をした人は、現世でお返しをしないといけないわけですね。ですから、前世での未練は現世に引き継がれるという解釈になりますね」


前世での未練。

私の前世での未練は、たくさんある。

きっと若くにして亡くなった人は、みんなそれぞれ未練と言うものがあるだろう。

 

「それから、前世と関わった人の近くで転生するとされている。例えば、前世の敵は今世でも敵であるし、前世での恋人は今世でも恋人であると。随分ロマンチックですけどね」


先生は少し笑って言う。

そうか。

だから私は吉村や千里のそばで生まれ変わり、彼らのそばにいる。


そこから先生の言葉は私の耳には入ってこず、ごうごうと耳鳴りのような音が耳を支配した。

私は自分のノートに前世の未練と書いたまま、手を止めていた。

やはり幸せになる事を見送るだけじゃダメなんじゃないか。


私の前世の未練とは、千里を幸せにしてあげられなかった事じゃないのか。

この手で。

そんな考えが頭を強烈なまでに支配した。




――千里と吉村との飲み会の後。

距離を持ったまま、二週間以上が過ぎ去っていた。

季節は六月に入ろうとしていた。

なぜ行動が出来ないのかと言うと、千里が露骨に私を避けているからだ。

露骨と思うのは自意識過剰かもしれない。

特別無視をされているわけでもなければ、笑顔だって向けてくれる。


ただ、普通のゼミの生徒に降格したのは確実だ。

今まではほんの少しいろんなタイミングや偶然が重なって、普通よりも親しかったと思う。

ゼミの中で二人で飲みに行ったのはきっと私だけだし、先生の結婚ウラ話を知っているのも私だけのはずだ。


でももうそういう関係ではない。

例えば教授室に行ったって、要件を聞くとすぐにうまく追い出される。

一度だけ勇気を出して電話を掛けてみたけれど、千里が出てくれることはなかった。

仕方ないかもしれない。

奥さんと別れる決意をした理由は、奥さんを好きになれないからだ。


千里はもうほかの人に無闇やたらに恋をしようとはしないだろう。

慎重になるだろうし、もう恋愛はいいやと思っているかもしれない。

もちろんいつか機会があればと思っているかもしれないけれど、たかだか十八のゼミの生徒とわざわざ恋愛をしようとは思うはずがない。

押しかけて行って、明穂だという機会ならいくらでもある。

教授室に行けば会えるのだから。


でもそれってなんだかあまりにも品が無いというか、ムードに欠けるというか。 

私って本当にわがままな人間だと思い知る。

結局明穂だという事を武器に千里に迫るのがなんていうかみっともない気がするのだ。


こうして千里を追いかけていて、千里が逃げている以上、明穂だと告げる事は卑怯である気がした。

はぁっとため息を吐く。

その横で元気づけるように私の背中をバンと吉村が叩いた。


そうだった。

ここはいつものコートで、吉村とまた会った私は話を聞いてもらっていた。


「いったー!」

「どんよりすんな。こっちまで暗くなるだろ。ってか言っちまえばいいじゃん」

「えぇーいざ言おうと思うと勇気でなくてさ」

「俺が言ってやろうか?」

「そ、それはだめ」

「前飲みに行ったときに何回か明穂っぽい事掘り込んでやったのに千里スルーだもんな。まぁ普通気付くわけねぇか」


ああ、あの前世から知ってるとかいう発言とかか。

普通、そんなくらいで明穂だと気付くわけがない。

野良猫をタマと呼ぶ、数字の7と9が紛らわしい、陸上をしている、たったそれだけ。


千里が私に見つけた共通点はそこだけだろう。

それで明穂!?と言ってしまうのなら頭のおかしい人だ。

好きだった人に似ていると思うくらいで留めておくのが普通だ。


「早く千里に言えよ。あいつ泣いて喜ぶぜ」

「私は美亜なのに?」

「お前が今更それ言うか? 明穂の魂入ってんだろ。あいつがまさか明穂の外見に惚れてたわけでもねぇんだし。お前が幼馴染だからとか、そんなもの抜きにしてもあいつはお前に惚れてたよ」

 

はっきりと言い切る吉村に、はぁっと息を吐く。

吉村はまだ悩んでいる私に、ぽんと肩を叩く。

 

「お前よ。じゃあ考えてみろ」

「ん?」

「俺が今すぐあのトラックに引かれて死んでしまったとする」


目の前を通り過ぎて行ったダンプカーを指さして吉村が言う。

黙って頷くと続きを喋り出した。


「そして、お前はまぁ悲しむ。その後、十八年が経って、十八歳の少年が三十を超えたお前に、実は吉村なんだと言う」

「……うん」

「葛藤はするだろう。なんたって、見た目も歳も家族も生きて来た場所も違うんだからな」

「うん」

「でも、お前な。だからって少年にお前は吉村じゃないと言えるか? 俺は言えなかったね。むしろお前の中に明穂を見いだそうと必死になった」


吉村ってほんとに。

なんていい奴なんだろう。

 

「俺はどんな姿かたちだろうとお前に会えて良かった。明穂に」

「……吉村」

「まぁよく考えろ。人生長いしな」


にかっと笑って吉村は立ち上がる。

私は緩慢な仕草でそれを目で追った。


「俺、そろそろコーチ戻るわ」

「あ、うん、行ってらっしゃい」


陸上のコートで話していた私たち。

手を振って、「あ」と声を漏らして振り返ってきた。


「なに?」

「お前に朗報。千里、昨日離婚成立したってよ」


にやりと告げられた。

早く言えと文句を言いたくなったけど、私はそれよりも胸にこみ上げる何かの対処でいっぱいだった。

 



――次の日の一限。

それは千里が受け持つ「文学の素晴らしさ」という一般教養の選択授業だった。

大教室で行われるそれは、すし詰め状態で三百人ほどが教室に入る。


文学部という事を考慮しても、生徒の九割が女性だ。あまりに比率がかたよりすぎている。

隣に座る裕ちゃんや京など珍しいくらいで、どれだけ千里がミーハーに騒がれているかを思い知る。


「美亜ちゃぁん」

「ん?」

「俺、香水だめなんだよね。みんな付け過ぎ。死にそう」


確かにこの教室って女の子が多いせいか、いつもぷんぷんしている。特に若い教授の授業というのが大きいだろう。

みんなやる気満々って感じだ。

これで離婚したとバレればものすごい争いになるのだろう。

 

「大丈夫? マスクあるけどいる?」

「うん、欲しい」


新品のマスクを手渡すと、裕ちゃんは私の髪を撫でてありがとうと告げた。

それににこやかにほほ笑んで、千里を見る。

一瞬こっちを見ていた千里が、さっとあからさまなくらい分かりやすく目を逸らす。

ふん。そんなに避けなくてもいいのにさぁ。


「僕の授業は出欠を取りません。レポートの提出で点数を決定します。ですので、授業を積極的に受ける気のない人や、私語をする人は出て行ってもらって結構です。その辺りをわきまえて授業を受けるように」


ゼミの時よりも幾分か厳しい千里。

まぁこれだけの人数をまとめるには、多少の威圧は必要だろう。

 

そうでなくても大抵の学生は大学に遊びに来ている。

今でもお菓子を食べている生徒や携帯をいじっている生徒は大勢いて、なんだかやりきれない気分になる。

若い先生だと余計になめられる事もあり、千里は穏やかな性格なのに時には厳しくなったりもする。

だけど普段怒らない先生が怒ると怖いというのか、千里が苦言を言うとピタリと私語がやんで、綺麗なまでの無音が作られた。


千里が髪をはらう音さえも聞こえてきそうなくらいだ。

そこで千里はようやくにこりと微笑んで、「始めましょう」とピンマイクから声を発した。


「僕はね、専門は英文学なんだけど、ってこれはみんな知ってるかな。今日は日本文学やってみようと思います。専門が英文学なだけで、日本文学も大好きです。その中でも好きな文章を紹介します」

 

ふわりと要所要所で微笑む千里に、みんなが釘付けになっているのが分かる。

先生が教える文章なら何でも受け入れますと目がハートになっている。


「毎回僕が紹介する文章についての見解などが定期試験で出題されると思って下さい」


一拍置いて、話しだす。

相変わらず声はとても聞きやすい。


「それよりもまず。今日あった僕の出来事からお話しますね。隣の家で飼われていたうさぎが亡くなったようで、その家に住んでいた小学生の子が学校を休んでお墓を作ってました」


千里の言葉にみんなが耳を澄ます。


「その子は即席のお墓の前で手を合わせて泣いてた。僕はそれを見て思いました。死を受け入れられるときはいつだろうか、と。お墓を作ったとき? それとも年月が経ったとき? それを思った時に今日紹介する文章が決まりました。はい、じゃあ始めます」


難しくないようで、とても深い言葉に頭の中がそれでいっぱいになる。

考え込む。

千里は一体何度それを自問自答したのだろうか、と。


千里が紹介した文章は、大切な人の死を受け入れることの苦悩を物語っていた。

日本文学独特の悲しい響きのする文章だった。

心の奥深くに雫が零れる。

そして、それが広がっていく気配がする。


そんな文だった。

私はあの時、死を受け入れられただろうか。

それはとてもじゃないけど、できたとは言えなかった。

納得して死んで行くには、若すぎた、と思う。だけど、歳を取れば自然と納得して死んで行けるのだろうか。


そこで壁にぶち当たる。

果たしてそうだろうか。

八十歳や九十歳になれば、死も仕方ないと受け入れられるのだろうか。 

考えてみてもまだ答えは出ないけれど、きっとこれは人間の永久の課題かもしれない。


千里は詩の解説をして、その後日本語表現の奥ゆかしさと、独特の孤独感について語った。 

授業が終わってもしばらくぼーっとしていた私は、マスクをした裕ちゃんに顔を覗きこまれてようやく正気に戻った。


「美亜ちゃん? どした? 飯行こうよ」

「あ、うん」


私が鞄を取りだすと、裕ちゃんが筆箱とノートを手渡してくれた。

ありがとうと言いながら、鞄に詰め込む。


壇上にもう千里はいなかった。

京が電話を掛けに外に出て行って、ひろちゃんはおにぎりをむしゃむしゃと食べていた。

本当に自由な人たち。

笑いながら裕ちゃんに言うと、彼は楽しそうに頷く。


「そういやさ、先生の今日の授業楽しかったな」

「うん。日本文学ね」

「俺、英文学科入ったけど実は日本文学の方が好きなんだよな。英語が得意ってだけで」

「えぇーそうなんだ」

 

二人で話しながら、さっきの千里が紹介した文章が思い出された。


「裕ちゃんはさ、今もし死んだとして、納得できる?」

「えぇー、むりむり」

「じゃあさ、歳を取ったら納得できると思う?」

「いんや。んーー、そだな……誰かが自分の事を死んでもいいってほど好きになってくれたら、納得できる気がする。年齢関係なく」

「裕次郎、お前は相変わらずくさいんだよ!」


おにぎりを食べていたひろちゃんが、キッと睨む。


「……まぁ、でも今回は私も同意見だな」

「ツンデレ寛子。可愛いやつめ!」


ひろちゃんと裕ちゃんの掛け合いに笑いながら、「ありがとう」と言うと、ぽんぽんと頭を撫でられた。

ひろちゃんも優しい目でこっちを見ている。

なにかあったと気付いたのかもしれない。

妙に優しげな視線がこそばゆくて、肩にかけた鞄を握り締めた。


二人の温かい目を見ていたら、どうでもよくなった。

露骨に避ける千里の態度も、明穂と美亜の違いも、千里の事を恋愛として好きかどうかも。


死んでもいいくらい好きだと言おう。

生まれ変わっちゃうほど好きなんだと叫ぼう。


そして、自分で二度目の奇跡を起こそう。

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