◇掌から零れ落ちた幸せ

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男は見せかけの愛で

女を欺くことができる。

ただし、他の女を

心から愛していない限りは。


ラ・ブリュイエール

‐‐‐‐‐-----―――



三十三歳の誕生日。

そして、三年目の結婚記念日。

十代の子と比べると、自分もだいぶ年齢を重ねた感じがいなめない。


今更めでたくも何ともないけれど、貴和子が「ゾロ目でめでたいね」なんて言うものだから、ちょっと高級なレストランで食事をした。

そこでケーキプレートを出してもらい、貴和子からネクタイのプレゼントをもらった。


「この色が千里に似合うと思ったの。すっごく長い時間迷ったのよ?」


そう言って、淡いピンク色のネクタイをくれた。

春生まれの僕にぴったりと言って、身体に当ててみてやっぱり似合うと喜んでくれた。


僕のために長い時間を掛けて、ネクタイ一本選んでくれたのかと思うと、可愛いなと思う。

大事にしたいと思う。

だけど、いつも思うばかりだ。


そこから一歩踏み込むと言う事ができない。

いつだって比較してばかりで、彼女自身を僕は見た事がない。

「ありがとう。嬉しい」と言う僕に、貴和子が少し不満そうにするのはなぜなのか。

お互い気付いている。


僕の心の中に、明穂がいるんだって。

いつまで経っても、消えないんだって。


貴和子の方がずっと僕を大事に思ってくれている。

明穂は自由奔放で、友達もたくさんいて、僕は明穂を取り囲む大勢のうちの一人だった。


あれは、中学一年の誕生日だった。


――毎日、同じ道を歩いて、明穂と中学へ向かう。

だけど、明穂の友達はありえないくらいに多いのだ。


「明穂ー、おっはよう! 今日さ、マラソンだってよ?」

「お、みっちゃんおはよー。あはは。優勝してやりましょう!」

「よっ。さすが陸上部期待の星」


明穂の友達みっちゃんが登校しながら、声を掛けてくる。

みっちゃんはしばらくすると僕たちの近くにいた女友達へと走って行った。

僕とは挨拶程度なくせに、明穂とは笑顔を交えて会話を交わす。

 

「千里。さっきのみっちゃんもさぁ、千里の事かっこいいって言ってたよ」

「ふうん」

「あれ? 興味ない?」

「うん」

「はっきり言うなぁ」


明穂が苦笑する。

興味なんてない。明穂以外に何の興味もない。だけど、そのみっちゃんって子だって、僕の事を気になっているとか言う割に、いつも話すのは明穂にだけだ。

明穂は僕を人気だと言うけれど、本当の人気者はいつだって明穂の方だ。

そう言うと、明穂は照れてるんだよって言うけど、本当にそうかな。

僕は、違うと思う。

 

「明穂ー、と、千里くん。おはよー」

「お、桃ちゃん、おはよ~。今日帰りにクレープ食べに行く話どうなった?」

「うん、行くって。ついでにさ、吉村たちも一緒に行くって話出てるけど」

「えぇー、吉村もかよぉ」

「あはは。いいじゃん。一回家帰って集合ねー」


桃ちゃんとやらは明穂にだけ手を振って、歩いて行く。

明穂と二人だけの登下校は、例外なく誰かに邪魔をされる。


そんな事ももうとっくに慣れた。



「明穂。今日さ、」

「ん?」


話を切り出して、隣をるんるんと歩いている明穂が、こっちを向く。


「おーい、水野明穂ぉ!」

「げ、吉村だ。千里!ごめんね、逃げるわ」

「え、」

 

明穂はびゅんと風を切るように走りだすと、後ろから同じくらい速い吉村くんが通りぬけて行った。

一瞬の事だった。

二人はもう視界の遥か遠くまで走ってしまっている。

陸上部エース同士の二人の走りは爽快で、走っているというよりは跳んでいるようなイメージだ。


遠くの方で吉村くんに捕まえられた明穂が、げらげらと笑っているのが目に入った。

僕には明穂に追いつく足がない。

手を伸ばしてみる。

明穂の視界に僕は映らない。


今日が僕の誕生日だと明穂は知っているのだろうか。

忘れてしまっているのだろうか。

だから平気で友達たちとクレープなんて食べに行っちゃうのだろうか。


しょんぼりと一人で通学路を歩く。

学校まで残り十分。

僕に話しかけて来た子なんて一人もいなかった。

 


――文芸部の活動場所の図書館から見える運動場。

陸上部は今日休みらしく、明穂は見当たらなかった。


吉村くんたちとクレープを食べに行ったのだろう。

いつも陸上部が終わる頃に、靴箱で待っている僕。

今日は待っていたって明穂は来ない。


一人で長い通学路を歩いて帰った。

家に帰ると、看護師の母親は夜勤でいないし、父親は海外へ単身赴任でいない。

弟の万里は隣の明穂の家に行っているのか、電気は真っ暗だった。


水野の家に行こうかと迷っていると、夜の六時に万里が僕を呼びに来る。


「ご飯だよ、兄ちゃん」

「うん。今行く」

 

多分、水野の家の人たちは僕の誕生日を祝ってくれる。

近くのケーキ屋で買ったホールケーキで。

明穂は覚えている時はなにかくれるけど、だいたい忘れていて、「プレゼントを用意してなかったぁ」と絶叫するのがオチだ。別に構わない。ただ、一緒にいてほしかった。


ピンポンも鳴らさずに家に上がり込むと、明穂はまだいないようだった。

それから明穂を置いて先に晩御飯を頂く。

そのうち明穂が帰ってきて、今日は晩御飯いらないと告げた。


ケーキを後で食べるからと言われて、いつものように明穂の部屋に一緒に入る。


「あぁー、今日千里の誕生日だったぁ! 昨日までは覚えてたのにな。プレゼント買ってこようって思ってたのにぃ」

「別にいいよ」

「なにか欲しいものある? あ、でもお金ないからあんまりお金かかるものはダメだよ」

「うん。……じゃあ、あれちょうだい」


窓際に置かれたサボテン。

明穂は首を傾げて、「こんなのでいいの?」って言う。

すぐに頷くと、水不足で枯れかけているサボテンを明穂が手渡してくれた。

 

「それさぁ、水やるのついつい忘れて枯らしちゃうところだったから、ちょうど良かったよ」


明穂が笑う。

僕はちくちくのサボテンを撫でたい気持ちになったけど、必死に我慢した。


ケーキを食べた後、植木鉢を抱えて家に戻る。

水をやって、枕元に置いた。


匂ってみたけど、無臭で。

触ってみたけど、痛くて。

花も生えていない、枯れかけのとげとげサボテン。

明穂の面影はあまりなかったけれど、僕は満足だった。

眠る時間も惜しんで、飽きもせずに一時間も眺めていた。

 



――当時の誕生日を思い出して、苦笑する。

報われない毎日だった。

追いかけて、追いかけて、追いかけて。

そして、結局手に入ることはなかった。


「千里。どうしたの? ぼんやりして」

「ああ、大丈夫。ごめんね」

「…………」


この後、貴和子から離婚をしようと告げられた。

そして、僕はその事よりも、明穂に誕生日を忘れられた時の方がもっとショックだった事を思い出した。


渡しそびれた黄色の花束が、がさりと音を立てる。

二十年そばにいた愛しのサボテン。

今では僕の寝室で、すっかり花を咲かせていた。

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