運命は交差する
一泊旅行を終えて、私たちゼミ生の仲は少し仲が良くなった。
今日もこうして、四人で集まって昼食をとっている。
「裕ちゃん、次の課題だけど」
「はいはいはい。なんでしょ、美亜ちゃん」
「うん。この英文ってどう訳すのが正しい?」
「ああー、これは多分、初恋は男の一生を左右する、だと思う」
「左右する、かぁ。確かにそれならしっくりくるかも!」
チャラ男、裕ちゃんは、英語が堪能でとても頭がいい。
それを知った日には、少し驚いたものだけど、この大学に入っている人はみんなそれなりに頭がいいはずだ。
“初恋は男の一生を左右する”かぁ。
どうだろうな。
確かにある意味では、千里の初恋は一生を左右するほどの威力があったのかもしれないな。
「美亜ちゃんの初恋っていつ?」
「……初恋」
思い返してみても正直見当たらなかった。
佐々木美亜として生きてきて、なんだか恋愛どころではなかったんだ。
女子高育ちなのも原因の一つだろうけど、小学生の時も、中学生の時も、恋愛に意識がいくことはなかった。
人生を後悔しないように向上することばかり考えていた。
陸上と英語と本、それを周りに散りばめて、精いっぱい生きてきた。
「初恋、まだかな」
「え、え、ええええええ! うそん!」
裕ちゃんが大げさに驚く。
「裕次郎、うっさい!」
「みんなの迷惑だよ」
ひろちゃんと京に叱られて、少しボリュームを下げた裕ちゃんが私にもう一度話しかけてくる。
顔を近づけてきて、今度は急にひそひそ話のような感じになる。
「じゃあ、付き合ったこともないの?」
「うん。ないね」
「うわあー、でも美亜ちゃんモテるでしょ。告られても全部振ってんのかぁ。うわー、そそるー」
裕ちゃんの思考回路はいまいち分からない。
くすくす笑っていると、ひろちゃんが会話に入ってきて、裕ちゃんと同じようなリアクションで驚いて見せた。
確かに大学生になって、初恋はまだ、付き合ったこともないなんておかしいのかもしれない。
しゅんとしていると、慌てた二人がフォローをしてくれる。
「大丈夫、美亜ちゃん! 俺はいつでも待機してるから!」
「裕次郎、黙れ。美亜、男なんていっぱいいるからね、てか私が紹介してあげるからね。あ、そうだ。美亜のタイプは? どんな人?」
私のタイプか。
「んー、健康な人、かな」
「健康な人? そんなの、裕次郎でもあてはまっちゃうじゃん!」
ひろちゃんが裕ちゃんを指さして絶叫する。
よっぽどひろちゃんは裕ちゃんが気に入らないらしい。
裕ちゃんはいきなり筋トレをし出して、食堂にいる人たちから注目を集めている。
くすくす笑っていると、隣の京がなにか考えるように首を傾げた。
「それって、そういえば先生も言ってたかなと思って。城山せんせ」「あぁー、言ってたね。私が質問攻めした時だ」
「そういう事言う人って、身近で誰か亡くなったりしたのかな」
京がハッと我に返って、私に向かって「気にしないで、ごめん」と告げた。
その通りだよ。
先にいく悲しみを。
先にいかれる悲しみを。
知っている私たちは、それにおびえて生きている。
それは、どんな出来事よりも悲しいことなんだ。
「ひろちゃんの好きなタイプは?」
話題を変えようと話を切り出す。
「えぇー、私? そうだなぁ、かっこよくて、背が高くて、スマートで、紳士的で、上品でぇー……」
「寛子。言っておくがな、そんな男いねぇから!!」
「ねぇ、それって俺じゃない?」
裕ちゃんの突っ込みと、京のおとぼけが入って、私たちは一緒に笑った。
恋愛を意識した途端、誰かを好きになりたいと思った。
裕ちゃんや、京みたいな人を好きになるんだろうか。
何となく、想像がつかなかった。
とっさに頭に思い浮かんだのは、千里だった。
それを振り払うように英語の課題に集中した。
課題の提出に、教授棟に向かっていた。
教授は一人一室が与えられていて、古めかしい建物の廊下の奥に千里の部屋があった。
コンコンとノックすると、返事がかかる。
「どうぞー」
「失礼します」
中に入ると、千里がソファに腰掛けて書類をチェックしていた。
部屋は多分六畳くらいのスペースだろう。
そこに大きなデスクと、たくさんの書類。壁の両脇は全て本棚で、溢れるほどの本。
テーブルとソファの場所だけは物が少なく、唯一落ち着ける場所と言えた。
「ああ、佐々木さん。課題かな?」
「はい、四人分持ってきました」
「あれ。自分で持って来てって言ったのになぁ」
千里は楽しそうに笑いながら、私の手からプリントを取る。
千里が何も言わないから私は帰ることもできずに、立ち尽くしていた。
失礼しますって言って出て行っていい?
言葉をいつ出そうかタイミングを計りながら、部屋を見渡す。
乱雑とした部屋は、千里らしくはない。ただ汚いというよりは、物が多すぎるという印象で、きっと部屋が狭すぎるのが原因なのだろう。
「佐々木さん、ゼミはどう?」
「あ、はい。楽しいです。読みたい本もまだまだいっぱいあります」
「そっか。それなら良かった」
千里はソファでコーヒーを飲んでいたらしい。
じっと見下ろすと、「佐々木さんもどう? 暇してたんだ」と言うものだから、断りにくくて、向かい側のソファに腰を下ろした。
一泊旅行以来、千里への接触は避けていた。
あれからもう三週間ほど。
ゼミの授業は何度かあったけど、どれも直接的に千里と話すことはなかった。久しぶりの対面は、妙に私をドキドキさせた。
千里が私の分のコーヒーを入れてくれている間、二人の間に会話はなく、私はいたたまれなくなって、部屋をぐるりと見渡した。
物が乱雑に積まれたデスクの上に、黄色い花でまとめられた、花束が見える。
「お花、誰かにあげるんですか?」
「ああ、それは妻に。今日、結婚記念日なんでね」
「おめでとうございます。仲がいいんですね」
「ふふ、どうだろうね」
あいまいな返事は、もう喋りたくないという事なのかと思い、口を噤んだ。
千里はそれを察したのか、私に笑いかけてコーヒーを渡してくれる。
黄色い花束をじっと見た。
何となく気に入らない。
黄色は私の一番好きな色だったからかもしれない。
「ありがとうございます」
「砂糖とミルクは?」
「あ、砂糖だけ」
二人して腰を落ち着けると、同時にコーヒーを口にした。
千里のそばは相変わらずマイナスイオンが出ているような、穏やかな空気に満ちている。
私はその隣でわいわいとうるさく騒ぐのが好きだったけど、そんな私も少しは大人になってしまった。
「佐々木さんのご両親は仲がいい?」
「あ、はい。すごくいいですよ。まぁ、お母さんの方が強いですけど」
「女性が強い方がうまくいくらしいからね」
「先生のとこは? どんな感じですか?」
千里は、綺麗な灰色の瞳を一瞬細くした。
コーヒーが思いのほか熱かったのだろう。
子供の頃から、猫舌だった事を思い出して、声に出して笑ってしまいそうになった。
「僕のとこは子供がいないし、妻も働いているから家庭って雰囲気じゃないね。お互い帰る家が一緒なだけ」
「へぇー、現代的ですね」
感心したように私がそう話すと、千里が返答に困ったように俯いた。
会話に困って部屋を見渡す。
立てかけられた写真には、千里と見知らぬ女性が写っていた。
もう突っ込まない方がいいかとも思ったけれど、どうしても千里がどんな人を愛したのか、知りたくなった。
「あの写真、奥さんですか?」
「ああ、そうだよ」
肌はこんがりと焼けていて、活発そうな女性だった。
健康そのものというような、ピッタリとしたTシャツと半パンにスニーカーで、それでもいやらしさを感じない。
スポーツでもしているのかもしれない。
引き締まった体は女性の憧れとするだろうボディだろう。
「スポーツされているんですか?」
「ああ、テニスのコーチなんだ」
「先生、健康的な人が好きって言ってましたもんね」
「ふふ、そうだね。そこだけは譲れないかな」
穏やかそうな顔で微笑むだけの千里と、大きく両方の手でピースサインをする女性。そこで思ったのは、強烈なまでの既視感だった。
そうだ。
あれは明穂だ。
明穂によく似ている。
顔も体型も似ていないけど、そうじゃなくて、雰囲気とかそんなものすべてが似ているんだ。
今日お昼休みにやった課題。
“男の初恋は一生を左右する”という英文を思い出した。
切ない気持ちが溢れてきて、うまく形容のできない感情でいっぱいになった。
もし千里が奥さんを選んだ理由に、明穂が関係しているなら、とても悲しい。
「でも女心は難しいね。本としか向き合ってこなかった僕にはさっぱりだよ」
「そうなんですか?」
「花を贈っても、おいしいディナーに連れて行っても、最近では妻が喜んでもくれなくなったよ」
「分からないですけど、そういうもので女性が喜ぶわけじゃないと思いますよ?」
千里は大人になっても相変わらずだ。
ちゃんとしていそうなふりをして、優しさ以外は何もない人だった。
大きなパフォーマンスもできないし、しっかりしているかと思いきや抜けているところもあるし、社交性だってあんまりなかった。
友達だって少なかったし、何度も転んでは泣いていたことを思い出した。子供時代は随分私の方が色々と優れていたと思う。
「佐々木さんにこんな話しても困るね。本の話でもしようか。それか陸上の話でもいいね」
「気持ちをちゃんと伝えてみればどうですか?」
「うん……。そうだね」
千里は困ったように微笑んで、「ありがとう」と口にした。
「あ、そういや、三枝さんが資料貸してほしいって言ってたな。会う事ってある?」
「あぁ、はい。毎日会ってますよ。明日も会うので渡しておきましょうか?」
「じゃあ、お願いできるかな?」
はーいと返事をすると、千里は立ち上がって棚を探し始めた。
机に積み上がっている書類の束が斜めになっていて、千里が棚の戸を閉めた瞬間、バラバラと零れ落ちた。
書類が雪崩のように机の下に落ちていき、私と千里は慌ててそれを取りにかかる。
「あぁーごめんね」
「一回整理した方がいいですね」
「そうなんだよね。でも物が多すぎてなかなか片付かなくてね」
苦笑しながら一緒に書類を拾い集めて、ふと地面に転がっている写真立てを発見した。
多分さっきの衝撃で机から一緒に落ちたのだろう。
奥さんと写っている写真は別の場所に飾られているから、あれとは別のものだ。裏返っているそれは何を写しているのか何も分からない。
しゃがみ込みながら何気なく拾おうとした瞬間、千里の手が強引に写真立てを奪って行った。
その瞬間、千里の手が私の手を弾いてしまう。
あっけにとられて、宙に浮いた手を見つめた。
生まれ変わって初めて、千里に触れた瞬間だった。
しかし、その手はとても乱暴だった。
明穂だった時、千里は何があったってほっぺをつねる事すらしない人だった。乱暴とは無縁の、人を叩く事なんて間違ってもできない人だと思っていた。
そのせいで、頬の筋肉が強張り、呼吸さえも止めてしまう。
呆然としていると、隣から千里の慌てた声が聞こえる。
「ご、ごめん。佐々木さん。大丈夫だった?」
「あ、いえ。平気……ですけど」
「すまなかった」
千里は困ったように髪をかいて、その写真立てを大事そうに机の上に伏せておいた。
あれ、立てないんだ。
ふとした疑問がよぎったけれど、明らかに堅くなった千里の態度にもうそれ以上突っ込む事ははばかられた。
資料を受け取って、もう一度ソファに腰かけたけど、話がはずむわけもなく。
私はコーヒーを飲み干して立ち上がると、少し言葉を交わしてからそのまま教授室を後にした。
あまり千里と話したくはなかった。あの写真は一体何が写っているんだろう。疑問に思ったけど考えない事にした。
今の千里の領域に踏み込んでいく気はないんだ。
一泊旅行の夜に、そう決めたんだ。
今更私が明穂だと告げて、千里を困らせる気なんて毛頭ない。
だけど、ああやって花束とか、仲のよさそうな写真を見ていると、破壊衝動みたいなものが内側からぼこぼこと噴き出てくる。
扱いきれない激情は、一体どうして沸き起こるんだろう。
千里を恋愛の意味で好きになったことなどなかったのに。
今頃になって、こんな気持ちが噴き出してくるのだろう。
これが“女”というものなのか。
これが“独占欲”というものなのか。
そうだとしたら、なんて恐ろしいものだろうか。
自分が怖い。
千里には会いたくない。
まだ大丈夫。引き返せる。恋愛ではない。幼なじみが遠くに行ってしまって寂しくなっているだけなんだ。
ただそれだけなんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます