記憶の隅で君が走る1

無性に走りたくなって、最近入った陸上サークルへと向かった。

陸上部と同じ学校の場所は使えずに、近くのトラックを借りているそうだ。

そこに行くと、ちらほらと練習している人たちがいる。

それがうちの陸上サークルの人なのか、よその人なのかは分からない。


ここは同じ大学のいくつかある陸上サークルが共同で使っている。

足を踏み入れて、持って来ていたジャージに着替えて、トラックをとりあえずゆっくり走る。

いきなり短距離を全力で走ると痛めることも多いから、ウォーミングアップはどんな時も欠かさない。

美亜の身体は運動神経が良くないし。

それに、私が亡くなった原因でもあるかもしれないから。


あのハードル走でこけた時に走った衝撃は、死の原因に確実に影響している気がする。

詳しくは分からないけど、症状的にも私の死亡原因はくも膜下出血だったのじゃないかと思う。

とても恐ろしい病気に、生きられたとしても後遺症が残ることが多い。


植物状態のまま、目を覚まさない事も多い。

そう思うと、私はあの時あっさりと死んで、家族に迷惑をかけなくて良かったのかもしれない。

そう思う事にした。


トラックを走っていると、二十代後半かなと思える男の人が、大学生たちのコーチをしていた。

短い黒髪ではつらつとした雰囲気は、スポーツマンらしい。

少し焼けた肌が男らしく見せていて、千里よりも高い身長と、しっかりした体躯は運動をしていた人独特の雰囲気をかもしていた。 


どうも見覚えがあるような気がして、その人を凝視する。

立ち止まって見ていると、その人が私の視線に気づいて、こちらを見た。

慌てて逸らしたけど、彼は不思議そうに私を見ていた。


誰だっけ。どこで会ったっけ。

陸上の大会?

どこだ、どこだ。

絶対知っている気がするのに。


一人でウォーミングアップを終えて、それでもすっきりしない頭を抱えたまま、スタートラインについた。

その後ろでは、あのコーチが指導しているらしく、声が聞こえてくる。 


「お前、ハードルの踏切も歩数もいまだに決められてないようでどうする」

「すみません。なんかその時で変わっちゃうんですよね」

「自分で感覚を掴め。ハードルの距離はどれも一緒なんだから、走ってるうちに掴めてくるから。まぁ、これは何度も何度もするしかないな」


いつか、どこかで、聞いたことのある声。 

どこで知ってるんだっけ。

疑問は解決しないまま、百mを走り終えて、もう一度戻ってくると、まだ指導しているらしく、熱血っぽい彼の声が聞こえてくる。


「そろそろ一回休憩しません? 吉村さーん」

「あぁ? お前ら、まだ何本も走ってねぇだろが。あと五本してからだ。ほら、行ってこい」

「ちぇー」




「よしむら……?」


ぽつりと吐いた言葉は、彼に届いてしまったようで、私に視線をやった。

ああ、そうだ。吉村じゃないか。

クラスメートでもあり、中学の陸上部で一緒だった吉村だ。


「なんだ? 俺の事、知ってんのか?」

「あ、いや……」


挙動不審の私は、首にかけたタオルで顔を拭く。

ぶっきらぼうな喋り方は変わらない。少し声は低くなったかな。

吉村だと自覚すると、感極まってきて、慌てて瞬きを繰り返した。


それにしても、なんでこうもみんな東京にいるんだ。

しかもこんな身近に。


「テレビで見てたのか? 俺の事」

「え、あ、テレビ? 出てたの?」

「しらねぇのかよ」


そういって、がはがは笑う彼をじっと見つめる。

笑い方は変わらないな。

胸がじーんと熱い。


「一回だけオリンピック出たんだよ。まぁ予選落ちだったけどな」

「えぇ! うそぉ! すごい、吉村!」

「おいおい、お前いくつだよ。そこの大学生だろ? 呼び捨てタメ口ってすごい女だな」

 

呆れたように笑われて、慌てて頭を下げた。


そうだった。

吉村に会って感激したせいで、すっかり抜け落ちていたけど、おかしいじゃないか。


「ごめんなさい。今はコーチしてるんですか?」

「そうそう、隣高のコーチがメインなんだけど、今日はこの大学の陸上サークルでコーチしてんだ。色んなとこでしてんだよ」


そっか。そっかそっかそっか。

すごく嬉しい。

こんなにいい日はないってくらいに嬉しい。


「お前のフォームも見てやろうか? 一回走ってみろよ。種目は?」

「あ、短距離です」

「じゃあ、とりあえず百。走ってみて」

「速くないんでいいですー」

「いいから。速さは求めてねぇよ」

 

なんだか気恥ずかしい。

全然速くないから見られたくないけど、彼の眼は善意に満ちていて、断れそうにはない雰囲気だ。


おずおずとスタートラインにつく。

チラリと彼を見上げると、こくりと頷かれて、仕方なしにゴールを見つめた。


ゴールを見据える。

すぅっと息を吸い込んで、彼がよーいどんと合図をかけるのに合わせて走り出した。

見られていると思うと、いつもより少し早く走れた。私はいつだってそうだった。

誰かに見られていたり、たくさんの人が応援してくれていたりすると、いつもより早く走れるのだった。


久しぶりの吉村。

ねぇ、吉村。

あの時ほど速くはないけど、今でもこうして陸上を愛しているよ。

一緒に走りたかったけれど、こうして再会できて本当に嬉しいよ。



――あの日、吉村は優勝したの?



ゴール地点を踏んで、スタートラインまでゆっくり走って戻る。

吉村はさっきまで快活そうにしていたのに、それはなりを潜めて、しんと静まり返っている。不思議に思って声を掛ける。


「吉村、さん?」


覗きこむようにすると、ハッと気付いたようだった。


「あ、いや、走り方、綺麗だなと思って。誰かに教えてもらった?」

「誰かって?」

「いや、ごめん。ちょっと似てる走り方してた奴がいたもんで」


吉村さんはそういうと、首に掛けていたスポーツタオルで目元を乱暴に拭った。

目を見開いて彼を見ていると、困ったように笑った。あの吉村らしくない、誤魔化したような、場を繕うような笑い。

タオルを拭った後も、涙が目元に浮かんでいる。

心臓がドクンと跳ねた。

嬉しかった。

明穂が亡くなってから十八年経った今でも、吉村も、千里も、こうして明穂を覚えてくれている。


自分の人生は前に進んでも、明穂を心のどこかに置いてくれている。それが何より幸せだった。


「その人、どんな人でした?」

「そいつか? うーん、陸上が大好きで、でもまじでうるさくて、馬鹿みたいに明るくて、太陽みたいな奴だったな」

「……そっか」 

「女だけど、あんたみたいに女らしくなんてなくて、でも」

「でも?」

「でも、好きだったんだよな、俺。初恋ってやつ。叶うことはなかったけどな」


こすったせいでほんのり赤くなった目元をくしゃっと歪ませて笑った。

初めて聞く事実に、じわじわと涙が込み上げてきて、死んでしまった事をやっぱり後悔した。


迷惑掛けずに早くに死んで良かったなんて。そんなのは、残された者への冒涜だ。

遠い日の吉村は、こんな風に切ない笑い方なんて知らなかった。

いつ覚えた?

私のせいで覚えたというなら、それはひどく悲しいことだ。


「吉村」 

「だからあんたね、俺のこと、何歳だと思って……」

「三十三歳でしょ? フォーム見てくれてありがと」

 

十八年ぶりに笑いかけて、すっぱりと後ろを向いた。

トラックの脇に置いていたドリンクを手に持って、外へと歩き出す。


「………水野、……明穂? ……なわけ、」


後ろからいぶかしむような彼の声が聞こえて、ハッとして振り返った。

二人で時間を止めて、刹那、見つめ合った。

時が止まる。空から落ちてきた水滴がポツリと頬で弾けた瞬間、視線は外れた。


「コーチぃ! 俺ら走らせといて、自分はナンパかよー。おいおいー」


吉村の肩に生徒の手が乗る。

その瞬間、弾かれたように私は走り出した。


「おい!」


後ろからかかる、焦ったような吉村の声を振り切るように走り抜けた。今捕まったらおしまいだ。

運動をしていた人たちがぎょっとしたように私を見ていく。

 

涙が。

止まらない。

明穂って、十八年ぶりに呼ばれた。

明穂って呼ばれた。

さっき、吉村って呼べば、昔みたいに顔をくしゃくしゃにして笑いかければ、明穂の片りんに気付くかなと期待をした。


自分の中の明穂が、私を見つけてって叫ぶのが手に取るように分かった。

嬉しかった。

バレたら困るとか、もう明穂じゃないのにとか、そんな事よりも何よりも、ただ嬉しかったんだ。


美亜として生を受けて、十八年間初めて呼ばれた明穂の名前は、秘めていた感情の何もかもを掘り起こした。

何かが変わる気がした。

それは良い方向に? 悪い方向に?

まだ分からない。 


泣きながら道路脇をがむしゃらに走っていると、プップッと控えめな車のクラクションを聞いて振り返った。

そこには外車に乗った千里がいた。

なんてタイミングの悪い。ぺこりと頭を下げて、また走り出す。今は会いたくない。


明穂になってしまった今、会ったりなんてしたら何を言うか分からない。だけど、いくら陸上部だったとはいえ、向こうは車だ。

敵うはずもなく回り込むようにして、車を停められて、私は大人しく立ち止まった。


ずっと走り続けていて、そろそろ限界だったのだ。

はぁはぁと荒い息を落ち着かせながら、千里を見る。

彼は車道脇に車を停めて、運転席を降りてきた。

 

「佐々木さん。どうして泣いてるの? なにかあった?」


彼は中腰になって私の顔を覗き込む。

泣き顔なんて見られたくなくて、乱暴に目元を拭って、後ろを向いた。


「あ、ごめん。見ないから車に乗って。近くまで送ってくから」

「い、いいです」

「いいから。ほら、雨も降ってきたし。ね」


言われた通り、ぽつぽつと雨が肩に落ちてきて、渋々助手席に回った。

チラリと視界に入った後部座席には、さっきの黄色い花束があって、今から家に帰るところなのかもしれないと思うと、申し訳ない気持ちになった。


「先生、やっぱ降ります」


扉を開けようとすると、千里の腕が伸びて私の腕を掴んだ。


「降りますってば!」

「佐々木さん。雨すごいから乗っててよ」


外を見ると、いつの間にかすごい雨に変わっていて、どうやら夕立ちなのかもしれない。涙なんて見られたくない。

今の私の脳内は、明穂一色になっているのに。

もうこれ以上、私を乱さないでほしいのに。


「先生、今から奥さんと会うんでしょ。私……」

「気にしなくていいから。今から家帰るの?」


有無を言わさない言葉に、嫌味のようにあからさまな溜息を吐いたって、彼は気にする様子がない。

教え子が雨の中泣いていたら放っておけない気持ちは何となく分かるけれど。


「……はい」

「どの辺?」

「世田谷の方です」

「了解」


千里は左ハンドルの車を運転すると、スムーズに走り出した。

汗のかいた体は動きを止めたことで少しずつおさまっていく。

フロントガラスを叩きつける雨を、バンパーが弾いて行く。


吉村に、千里に、立て続けに会って。

昔の事を思い出すなと言う方が無理があるよ、これじゃあ。


この縁の巡り合わせにはどういう意味があるんだろう。

明穂の時にきちんとできなかった仲を正そうとしているのだろうか。


でも二人は新たな人生を歩き出している。

それを明穂が引き留めていいのだろうか。

特に千里は結婚もしているというのに。


「なんで泣いていたかは教えてくれない?」

「…………ごめんなさい」

「そっか」


千里はまだ黙って運転を始めた。

そうやって、繊細で気遣いのできるところは何も変わらないな。

 

「ジャージって事は陸上の練習でもしてたの?」


少し時間が経ったから、タイミングを見計らったように千里が話しだした。


「あ、はい。ちょっとだけ」

「そっか。何か嫌な事でもあった?」

「……そうじゃなくて」

「ん?」

「嬉しい事がありました」


そう言うと、千里はほんの少し目を見開いて楽しそうに笑った。

目尻の笑い皺が妙に切ない気分にさせる。


「そうだったのか、それは良かった」


今、触れる距離にあるのに、私はそれに触れる事は許されない。

きっとその権利は一生回ってこないのだろう。

一瞬、明穂だと暴露すれば、なにかが変わるのじゃないかという、よこしまな感情がよぎった。

それはきっととても汚いもので、簡単にしていい事ではない。

 明穂だと明かしてしまう事は簡単だ。

きっと得るものもあるだろう。


だけど、今まで頑なに言わなかったのには理由がある。

家族や千里にだけは特に言いたくない。

彼らは私が亡くなって、とても悲しんでくれただろう。

私のいなくなった穴を埋めようとして必死に生きてきただろう。

そううぬぼれられるくらいには愛されていた自覚がある。

そうして今ようやく掴んでいる幸せを壊す権利には、もう私にはないと思うんだ。


お父さんは変わらず理容店を営んでいるし、千里は大学の教授になって結婚もしている。

私がいなくなっても生きて行っている彼らに入る隙間はもう残されていないだろう。


それにきっと。

明穂だと彼らに告げてしまうと、明穂としてきっと生きたくなる。

 

「先生は、会えるはずのない人に、会いたいって思いますか?」

「会えるはずのない人か」


千里は少し考えるように首を傾げて、赤信号でゆっくり停止した。


「会いたいね、ものすごく」

「……そうですか」

「会っちゃったら、自分の今生きている世界が壊れそうで怖いけどね」


(うん……そうだね)

私をチラリとも見ないで笑う。

さっき言ったように、顔を見ないという事を律儀に守ってくれているらしい。


ほらね。

本当にその通りだよ、千里。

私が必死で築いてきた佐々木美亜はもう身体でしか無くなってしまいそうなんだ。


明穂が。

明穂の時に残した未練が溢れだして、どうしようもなくなりそうなんだ。


怖いよ、千里。

だからね、きっと、きっと言わないから安心してよ。

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