番外:すれ違い ゆうこSIDE②

あの日から三日が過ぎた。

今日は水曜日で、ちかちゃんはまだ仕事から帰って来ない。

晩ご飯のビーフシチューをことことと煮込みながら、ぼーっと考え事をする。


相変わらず二人の間の溝は深いし、ちかちゃんが何を考えているかもさっぱり分からない。

はぁっとため息をついていると、ピンポンとインターフォンが鳴って、受話器の元へと急いだ。


宅急便だろうか。でもそれなら、コンシェルジュの人が受け取ってくれるはずなんだけどな。

あんまり来訪者が少ないから意外に思いながら、カメラを覗くと、そこには彰くんが立っていた。

えー、なんで来たんだろ。


ちかちゃんに会いに? でも今は私しかいないしなぁ。

出ようかどうしようか迷っていると、もう一度ピンポンと押されてしまい、仕方なく出た。

 

「はい」

『あ、矢野さん。あのさ、この前の事謝りに来て。ほんとごめんね』

「あぁーうん。別に」


許せるわけじゃないけど、だからと言ってこの歳になって、謝ってくる人に向かって許せないとは言えない。


『今ユキいる?』

「ううん、いないよ」

『じゃあ、お詫びのお菓子持ってきたからさ、矢野さん受け取ってくんない?』


部屋に上げるのは嫌だ。

かといって、お菓子まで持ってきてくれた人をインターフォン越しに追い返すのもどうかと思うし。

仕方なしに、一階まで下りていくと、エントランスに彰くんはいた。


コンシェルジュがゲストルームに案内してくれて、駐車場横のテーブルセットに案内される。

すぐ隣が駐車場だから、ここにいればちかちゃんが帰ってきてもすれ違う事はないだろう。


「これ。女の子は好きかなと思って」


差し出された紙袋は、三十分は並ぶと言われている有名店のラスク。


「ありがとう」


にっこりと笑って受け取る。

彰くんもちかちゃんの友達だし、悪い人じゃないんだろうけど、やっぱり私は苦手だ。


「この前はごめん。あー、あのさ、俺、恵子の事が好きでさ、」

「うん」

「久しぶりに二人で会ってたところに二人が合流することになって、恵子とユキ仲いいじゃん。それで何となく面白くなかったっていうかさ。まぁ完全に八つ当たりだよね。ごめん」

「うん、最悪の気分だったけど、気持ちは分からなくもないしもういいよ」


もう一度ごめんねと謝った彰くんに、首を振ると、彼がにこっと笑う。


「ユキと仲良くやってる?」

「うーん。まぁ、普通かな」

「あれー、新婚にしては微妙な発言じゃない?」

「ちょっとやっぱり彰くんのそのキャラ無理かも」


彼は素の状態でも常にからかい口調らしい。

眉をきゅっと寄せると、彼が「ごめんごめん」と笑いながら謝ってくる。

恵子さんが篠宮くんの事好きだったのなら、多分彰くんみたいなタイプは恋愛対象に入らない気がしたけど、それは黙っておこう。


「二人ってさ、微妙に距離あるよね」

「え、ほんと? やっぱりそうなのかな?」

 

彰くんの言葉が今の悩みにピッタリすぎて思わず身体を乗り出すと、彼が苦笑する。


「うん。なんていうか、お互いもうちょっと気持ちぶつけあった方がいいんじゃない? かっこつけすぎじゃないかな」

「……そっか」


かっこつけすぎ。

その言葉の意味はよく理解できた。私はプライドが高いし、ちかちゃんも多分そうなんだろう。


ところ構わず、好きだとか愛してるとか口にできるタイプでもないし、お互い相手の気持ちに鈍感なところがあるから、黙ってても気持ちが通じるタイプでもない。

難しいな。

どうしたら改善できるのか全く分からない。


「ベンツの四駆ってユキの車?」

「あ、うん。そうだよ。帰ってきた?」


その質問には答えずに、彰くんは私の目の前に立った。


「え、なに?」


彼が私の目の前に立って、それからいきなり私の髪を撫で始めた。


「ちょ、いきなりなに? どいてくれない?」

「矢野さんって相変わらず綺麗だよね。ユキが惚れるのも分かるよ」

「はぁ?」


こんなマンションの住人にすぐ見られそうな場所で近い距離を詰めるのはやめてほしい。

コンシェルジュだって近くにいるし、一体何を考えているのか。


ちかちゃんが帰ってきたのならなおさら。

私の髪を撫でている彼がうっとうしくて、立ち上がろうとしたその瞬間、いきなり彼の身体が離れた。


驚いて見上げる。

そこには眉を寄せてあからさまに怒った顔をしたちかちゃんが、彰くんの胸倉を掴んでいた。


「お前、いい加減にしろよ。この前から何考えてんだ。あ?」

「あれ、ユキ。おかえり」


ひらひらと彰くんは何でもないかのように手を振る。

被っていたハットの下から覗くちかちゃんの視線が彰くんをまっすぐ射抜いた。

その後、ちらりと私に視線をやってすぐに逸らされる。

無言が空間をする。


「なにしてんの?」


ぽつり。

ちかちゃんの声がやけに耳に響いた。

息が詰まる。呼吸もできないようなピリピリとした空間。

彰くんが口角を少しあげるのが視界の端で分かった。


「ユキ怒ってんの? そりゃ怒るか。大好きな奥さんに手出されてるんだもんね」

「まじでなめてんじゃねぇって!」


あ、と声を出す暇もなく。

ちかちゃんは彰くんの頬を思いっきり殴ってしまった。

彰くんはそれでも地面に倒れることなく、よろけながらも頬を押さえて立ち上がる。


「帰れよ。お前の顔なんて二度と見たくねぇ」

「えーそんなに怒らなくてもよくない?」


彰くんのめげない言葉が、しんとした空間にやけに場違いに響く。

私は息をする事も忘れて、ちかちゃんの尋常じゃなく怒っている様を見ていた。


「彰、俺に心底嫌われたくなかったら帰れ」

「……ふふ。悪かったよ、ユキ。矢野さんも。じゃあねー」


どうやら引き際は一応間違えなかったらしく。

彰くんはそのままひらひらと手を振って去っていく。

私たちは声を掛ける事もできずに、ぼーっと彼が帰るのを見送っていた。


彼がエントランスから出ていき、静かなマンションは無音になる。

ゲストルームには彼が残して行ったラスクの紙袋がぽつんとある。

それを見ながら、視線を感じるちかちゃんをゆっくりと見た。

嫌われたくない。彰くんと何かあったのかなんて疑われたくない。


「ゆうこ、お前さ、何やってんの?」

「…………」


言葉が出ない。声が出ない。

ちかちゃんの責める視線が痛くて、痛くて、たまらない。

その先に待つ、嫌われるという感情が怖い。


「何二人で会ってんの。お前、この前彰の事引っぱたくほど嫌いだったんじゃねぇのかよ。……なに、お菓子もらえるからってほいほい下りて来たわけ」


ラスクの紙袋に目をやって、ちかちゃんはハッと嘲るように笑った。

私は無言のまま、下に俯いて黙り込む。

どうしていいか分からない。


彰くんとは和解したはずで、もしかするとあれは彼がしたパフォーマンスだったのかもしれないと少し思う。

多分本気で手を出そうとしたわけじゃない。

ちかちゃんを怒らせるため? それか、また別の理由?

分からないけれど、今はそれを考えている場合ではない。


ちかちゃんが私の元に歩いてきて、思わず身体がビクッと震える。

すぐ近くに立って、ただ髪をくしゃりと撫でると、「ごめん」と謝ってきた。


「ちかちゃん?」

「ごめん、お前のせいじゃないのは分かってんだ。でも、なんか俺混乱してて、わけわかんねぇよ……」


ぎゅっと背中を抱きしめられて、私は黙ってちかちゃんの肩に頬を預けた。

ちかちゃんは相変わらず優しい。


「大丈夫か? 怖くなかったか?」

「うん。彰くんは今日謝りに来てくれて、それで」

「うん、あいつとはもう二度と会わなくていいから。俺も会わないようにするし。とりあえず部屋上がるか」


ちかちゃんは芸能人だ。

ここの住人に見られて、写真なんて撮られたらたまったものじゃない。

二人でエレベーターに乗り込んで、部屋に上がり込む。

ちかちゃんはハットをソファに投げて、私の手を引いてソファに座った。


「なぁ、ゆうこ。彰の事じゃねぇけどな、お前、俺と結婚して後悔してる?」

「……え? なんでそんな事言うの?」


隣に座るちかちゃんを見る。

困ったように笑ったちかちゃんは、私の長い髪をゆっくり撫でた。


「あぁー、このままもやもやしてるのも嫌だし言うけどさ」

「ん?」

「電話。聞いちゃったんだよ」

「電話っていつの?」

「結婚して次の日、かな? お前、友達と電話してて、俺の愚痴みたいなの言ってた」

「ちかちゃんの愚痴を? 私がぁ?」


何のことかまるで分からない。

首を傾げていると、ちかちゃんが困ったように笑う。


「言ってたよ、お前。あんまりベタベタされるとうっとうしいみたいな事」

「……あぁ! それは上司の事だよ。セクハラ上司で女の子ばっかりにいちいち教えてくるの。もう分かってる事を一から十まで。この前もちかちゃんにその上司の話したじゃん」

「え、え、俺の事じゃなくて?」


ちかちゃんはソファから身を乗り出して、びっくりしたように目を見開いた。

それに苦笑しながら首を振る。

「違うにきまってるでしょ」と言うと、「なんだよ~」と叫びながらうなだれた。


そんな事をずっと長い間気にしながら生活してきたのだろうか。

もしかして、それからだっけ。抱かれなくなったのも。


「ねぇ」

「なに」

「あのー、さ、夜そういう事しないのもそれが理由だったりするの?」

「…………そうですけどなにか?」


開き直ったようにふてぶてしく言うちかちゃんに笑う。

ふははと声に出して笑っていると、ちかちゃんがふてくされた顔で私の肩に軽く拳を当ててくる。

 

「笑いすぎだから」

「ごめん、だってそんなことで私悩んでたのかと思って。ちかちゃんも」

「だなぁ。まぁ俺ら基本的にすれ違ってばっかだからな。でも結婚したんだし、そういうの変えていかないと」

「すれ違ったままこじれるのなんて嫌だもんね」

「はい。と言う事で、この前のカラオケでゆうこは一体彰になんて言われたんですか。答えましょう!」


ちかちゃんが口調とは違って、真剣な顔でこっちを見る。

伝えなきゃいけないのかもしれない。

恥ずかしくなんてないじゃないか。

ちかちゃんも私の事が好きなんだから。


一人でぐるぐるまわっちゃうくらいには好きでいてくれているんだから。

きっとどんな気持ちだって受け止めてくれるんだろう。

片思いだと思っていた高校時代とはもう違う。

私たちは両想いで、お互いが好きで仕方ないんだ。

 

「……ちかちゃん、恵子さんとキスした事あるの?」


じっとちかちゃんを見つめる。

目が、泳いで、逸れて、そして、誤魔化すように笑った。


「……したんだ」

「い、いや、してないから! まじで」

「じゃあ、嘘なの?」

「うそ、……うそっていうか、うーん、」

「したんだね。別にいいんだよ、高校の時は別に私と付き合ってたわけじゃないし、ちかちゃんが誰とキスしようが、」

「いや、大勢でポッキーゲームをしててさ、それで恵子と俺が悪ふざけがすぎて、そのままぶちゅっとなっただけで、周りに仲間もいっぱいいたしさ」

「ふうん」

「あ、怒った? ごめんって。俺、まじであの時は調子乗ってたっていうか、」

「……いいな」

「いいな?」


ちかちゃんがきょとんと私を見てくる。

うらやましい、ただその感情で胸がいっぱいになった。


「私とちかちゃんは放課後結構一緒にいたのにそんな事しなかったね」

「あー、だってそれはお前……、俺とお前が? そんなのできるわけねぇじゃん」

「うん」

「そんな事、矢野祐子とできるわけねぇよ」


うんと頷く。

なんとなく顔がかぁっと熱くなる。

ちかちゃんの好きの気持ちがいっぱい伝わってきて心がじわじわと温かくなる。


「恵子さんとは今も何もないんだよね?」

「はぁ? あるわけない。恵子と俺とかまじないわ。……まぁ、でも、不安にさせてごめんな」

「ううん。勝手に色々考えちゃっただけだから」

「……ふうん。ヤキモチ妬いたの?」


ちかちゃんがソファをずいずいと滑って、私の身体を抱きしめた。

至近距離で見つめ合って、おでこをコツンとぶつけられる。


「妬いたのって聞いてんだけど」

「妬いたよ」



はっきり言うと、目の前の美麗な顔が一瞬でかぁっと赤くなっていった。

ふふっと笑っていると、噛みつくようにキスされた。


「んっ……」


唇をなぞられて思わず身体が震えた。

何となく官能の匂いのするそれに、ちらりと瞼を開く。


「……するの?」

「……する」

「まだご飯食べてないよ?」

「いいじゃん」

「……お風呂も入ってないよ?」

「新婚だもん。するよ」


ふふっと笑いながら、二人でソファにもつれあった。

髪をくしゃくしゃにかき乱されながら、ちかちゃんが頬に手を添えてくる。


「思った事、何でも言って、いっぱい話しあおうな」

「うん、そうする」

「とりあえず俺が今言いたい事は、ゆうこを久しぶりに抱くと言う事で心臓が破裂しそうです。はい、あなたの言いたい事は?」

「……世界で一番、大好き」


カッと一瞬のうちに赤く染まるちかちゃんの頬と、私の頬。

二人で見つめ合って、ニッと笑った。


「好きでたまらん!」

「たまらん?」

「たまらん!」

「ちかちゃん誰なのよ。ふふふ」

「ゆうこの旦那ですがなにか」


ハハハッと笑い合いながら、キスを交わした。

なかなか素直になれない私たちの、甘酸っぱい新婚生活のはじまり。


おわり

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