番外:結婚後の二人 ゆきちかSIDE②

ああ。

ああ。

泣かないでよ。

俺はどうしようもなくいたたまれない気持ちになって、ゆうこの髪をさらさらと撫でる。


「でも、私そんなの受け入れられないから、もしそうなら離婚しようと思ったんだけど。でもやっぱり会社でゆっくり考えてみて、離婚して離れるのなんてどうしても無理で。考えたら死にそうになって」

「……うん」

「あの、浮気……嫌だけど、でも家に帰ってきてくれるなら文句言わないから。……私頑張るし、努力もするし。……ちかちゃんの事大好きだから、お願いだから、捨てないで」


今度こそ心臓が潰れると思った。

ひゅっと喉が音を立てる。

ぐんぐんと、目の前の愛しすぎる生き物をひねりつぶしたいとおかしな感情が込み上がってくる。


だめだ。

好きすぎておかしくなりそうだ。

ああ、涙があふれ出てくる。

必死に瞬きをして落ち着かせながら、滲んだ視界でゆうこを眺めた。


ゆうこは俺よりも悲痛な顔で見上げてきて、たったそれだけで俺の心臓は握りつぶされたように痛くなった。


「お願い……お願いだからそばにおいて」


とうとう声にあげてわんわんと泣きだして、ゆうこを抱きしめながら、俺はやっぱり涙が出た。

可愛い。

愛しい。


「ちかちゃんと離れるなんて嫌っ」

「ちょ、ゆうこ! もうその辺で。その辺でやめて」

「え?」


ゆうこが泣きながら見上げてくる。

ああ。可愛すぎる。


「それ以上言われたら俺なんかもうやばいから。やめて」


そう言って頬を両手で隠すと、ゆうこがいつものようにくすくすと笑った。

このゆうこの上から笑うようなのが好き。

あ、俺ってMかな。


「私のこと捨てたって離婚しないからね」

「ああーだからっ。ゆうこっ! おまえわざとか! わざと俺の心臓揺さぶってきてんだろ」


ゆうこは今度は泣きながら大声で笑い出して、俺は顔を赤くしてゆうこに怒った。


「おい~。まじ頼むわ。ゆうこ」

「ちかちゃん面白いね」

「ほらお前。わざとじゃねぇか!」


俺が怒ってゆうこの肩を叩くふりをすると、嬉しそうに身をよじった。

妻の事を心から愛おしいと思える人は一体どれだけいるんだろう。

話を聞く限りではそんなに多くないだろう。


出会ったころと同じままでずっと想い続ける事が出来る人は少ないかもしれない。

それでも、俺は、自信を持って最初の頃より好きになっていると確信できる。

俺は一生ゆうこを愛しいと思い続けるに違いないと思った。


「ゆうこ。俺浮気なんてしてねぇよ。なんで誤解したのか言ってみ」

「だって、今日帰ってくるときエントランスで女の人と抱き合ってた。タクシーから降りてぎゅってしてたもん」


そう言ったゆうこに少し考えて、ああっとひらめく。


「あれは事務所のアシスタント。肩にカナブンが止まっててそれを伝えたら、驚いて飛びついてきたから、肩の虫を捕ってやっただけだよ。あんまりそれにお礼を言うから頭をぽんと叩いて、もういいからって言って別れたけど」

「え。そうだったんだ」

「なんだよ、そんな事で? そう思ったならすぐに聞けよ。溜めこむからそんな事になるんだよ」

「ごめんなさい……。あ、でも、じゃぁさっきの電話は? 家でした電話はなんだったの? ゆうこにはバレないようにするからって、私浮気の事かと思って」


そういうことか……。

ため息を吐いて納得する。


「違ぇよ。あれはお前の母親。明日お前誕生日だろ? なんかケーキ焼いたらしくて、後プレゼントも買ったみたいだから、バレないように取りに来いって言ってたから」

「えぇ!? 私のお母さん!?」

「そうだよ。内緒って言われてたんだから、お前知らないふりしとけよ。馬鹿だな、お前は」


呆れて溜息を吐くと、ゆうこはしゅんとうなだれて、俺の背中へと手を回してきた。


「俺が浮気するわけねぇだろ。どれだけお前の事好きなのかまだ分かんねぇの?」

「だってぇ……なんか今日人にいっぱい囲まれてるちかちゃん見たら、こんな人と私が結婚してるんだって不安になったんだもん」


よく言うよ。まじで。

人気だったのはどっちの方だよ。


「俺は高校の友達に会うたびに、本当にお前が俺の事好きなのか不安になってるわ」

「え?」


ゆうこがきょとんした顔で俺を見つめてくる。

それに苦笑を返すと、もっと不思議そうな顔で見つめられた。


「あいつらみんな悔しいのか、矢野さんがお前の事好きになるはずがないって真っ向から否定するんだもんよ」

「なんでだろね。ちかちゃん芸能人なのにね」

「お前はあの高校では、芸能人の俺よりよっぽど上の位置にいるよ」

「えぇーそんな事ないよ」


ゆうこはけらけらと笑いだして、たったそれだけの事で俺の心はほんわりと灯がともる。

可愛い、俺のゆうこ。

悲しんだりしないで。

俺の隣でずっと幸せだと思って生きてくれよ。

精一杯幸せになるように大事にするから。


まぁこうやって思ってる事を俺が照れくさくて口にしないのが問題なんだろうな。

ゆうこが不安に思う原因になるんだよな。


「ゆうこが好きだから。絶対に捨てないし、お前のそば離れないから、あんまり不吉な事言うなよ」

「不吉な事って?」

「り、離婚とか。俺まじで死ぬかと思ったんだから」

「ふふ。ごめんなさい。ごめんね、ちかちゃん。大好きだよ」


そう吐息のように呟いて、耳を食むように舐めてきたゆうこに、ピクンと身体が揺れる。

こ、こいつ。


「お前、まじいい加減にしろよ! 何してんだよ、お前の会社の前だろうが」

「だって、ちかちゃんいい匂いするんだもん」


話にならないゆうこの手を引っ張って、車の中に押し込むと、顎をつかんで強引に唇を重ねた。


「んっ………んんっ…ちかちゃん」


ゆうこに名前を呼ばれるだけで、体の一部がずくんと疼く。

心臓は泣きそうに悲鳴をあげながら、愛しい身体を抱きしめた。

ゆうこの体からは俺と同じ香りがして、それにまた泣きそうになった。


「家帰って、お前の誕生日祝お。もうすぐ十二時になるから」

「あ、だから、今日早く帰ってくるって言ってくれたの」

「……そうだけど? お前まさか自分の誕生日忘れてたんじゃないだろうな」

「ふふふ。いやぁー、忘れてはないんだけど、その」

「忘れてたんだな。はぁー……まぁいいけど、もう離婚するとか言うなよ」

「もう言わないよぉ。ごめんってば。浮気したら離婚だけどね」

「うあー……だから言うなって。浮気は絶対にしません。誓います」


真剣にお願いすると、ゆうこは幸せそうに笑って、俺はそれを見つめるだけで幸せな気持ちになった。

ゆうこはいつまで経っても綺麗だ。

この世の宝石を集めたかのようにきらきらの真っ黒な瞳で、俺を幸せそうに眺めた。


「ちかちゃん。明日は仕事早く帰ってきてね」

「ん? 明日は仕事休んだけど」

「え、好き!」


そう言うと、ゆうこは目を丸くして俺に飛びついて来た。

ああ、可愛い。

こんなに喜んでくれるなら毎日オフ取るのに。

それじゃあ喜んでくれないのか、たまにだからいいのかな。


「嬉しいーじゃあどっかお出かけしようね?」

「おお、いいぞ。帰ってどこ行くか考えるか」

「嬉しいなぁ。とりあえずねぇ、帰ったら一緒にお風呂入ろ」


ゆうこのその提案に、えぇーと批判の声をあげる。

ゆうこはくすくすと笑いだして、俺の背中に腕を回しながら頬を擦り寄せてくる。


「なによ、嫌なの? 喜ぶと思ったのにぃ」

「だってお前風呂でするの嫌いじゃん」

「そうだよ? だから、お風呂ではしないの。一緒に入るだけ」

「ほら拷問だろうが。喜べねぇよ」


俺が情けない声でそう言うと、ゆうこがけらけらと笑って俺の背中を軽く叩いた。

あ、こいつ。

完全におちょくってんな。


「一緒に入ろうよ。私誕生日だし言う事聞いてよね。体洗ってあげるから」

「こら、ゆうこっ。お前おちょくんのその辺にしとけよ。体洗われて手出さない男がいたら見てみたいわ」

「今日私いっぱい泣いたのになぁ……。いっぱい辛い思いしたのになぁ」


恨みがましく言われて、心の中の俺があっさりと白旗をあげる。

それが演技だろうがなんだろうが、降参だ。

俺はゆうこには逆らえない。


「分かったよ。……一緒に入る」

「手も出さない?」

「風呂では手を出しません」

「よろしい!」


ゆうこが笑うからそれでよかった。

俺の胸の中で笑って肩を震わすものだから、俺の体まで振動が起こった。

その振動が幸せだと思った。


「お前、偉そうにしやがって、このっ」

「あははっ、ごめんね。ちかちゃん私そろそろ子供欲しいです」



…………………。

服を掴み合ってふざけている時に、いきなりさらっと、「家でアイス食べたいです」みたいにあっさりと告げられた。

俺は体の全部がボンっと爆発するような音が鳴った気がして、額に一瞬で汗が出た。


「お前っ。雰囲気とかそういうの考えろよ!」

「えぇー今そういう雰囲気だったもん」

「ちげぇよ、ばーか!」

「ふふふ。私誕生日だからいい返事くれるでしょ?」


ゆうこが俺の胸の中で静かにぽつりと言葉を放った。

愛しすぎて、愛しすぎて。

ぎゅうっときつく抱きしめると、ゆうこの肩がやっぱり小さくて泣きそうになった。


「誕生日じゃなくても、いい返事しか出てこねぇよ」


そう告げると、ゆうこは体を離して、俺に泣くようにくしゃっと笑って見せた。

長い髪を綺麗に撫でてやると、ゆっくり目を閉じた。

まつ毛が頬に触れた瞬間、ゆうこの瞳から一筋の涙が零れ落ちて、俺はそれを逃がさないように親指で拭った。


「ゆうこの子供は絶対可愛い」


想像するだけで涙腺が緩んで、何度も瞬きをする。

ゆうこが俺のそんな様子を見て、綺麗に笑う。


「私たちの子供は涙もろそうだね」


夜の愛車で、二人で流した涙には幸せがきっと混じってた。



―――そう言えば今日小山さんがタクシーの中で俺に言ってた。


『ユキさんって奥さんの事すごい愛してるんですね。うらやましいです。でも、奥さんは眩しそうにユキさんの事見てました。すっごく幸せそうでした』


その言葉で舞い上がった俺の事は、今日かき回してくれたゆうこには一生黙っておくことにしよう。



結婚後の二人

おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る