番外:結婚後の二人 ゆうこSIDE
「ここで大丈夫だよ、ロケがあるんでしょ? 頑張って」
「ああ、うん。でもタクシーまで連れてく。心配だから」
事務所の前は大通りじゃなく、少し歩かないとタクシーは拾えない。
別に昼間だし、変な通りでもないし、大丈夫なのに。
それよりも、ちかちゃんが私と歩いている事で騒がれたらやばいでしょ。
オフの日に、私とお出かけをする時は、ちかちゃんはやっぱり目深にかぶった帽子とだて眼鏡なんかをかけていて変装をしている。
それでもバレる時はあるけど、結婚していると口外しているし、そんなに騒がれる事はない。
でも、さすがに大通りで変装も無しに私と歩いていたら、それはもうすごい事になる気がする。
「ちかちゃん騒がれちゃうよ?」
「ん。別にいい。隠すような事でもないし」
そうだけどさ。
結婚してからさらにちかちゃんは心配性になって、私の過保護になった。
浮気もしないし、こんな昼間から他の男性にひっかけられるとかもないと思うのにさぁ。
「今日はなるべく早く帰るようにするからな」
ちかちゃんは私の手をきっちり握って、優しく告げてくれる。
それを見上げて、嬉しくなって、うんと頷くとちかちゃんがかぁっと顔を赤らめた。
「ああーやば。早く家帰りてぇ……」
そんな風に思ってくれるのはほんとに嬉しい。
よく料理が上手じゃないと旦那は浮気をするとか言うけど、ちかちゃんはそういう次元じゃない気がする。
結婚するとどれだけ私の事を好きなのか、はっきり伝えてくれるようになって、その点では勝手に安心してる。
「待ってるからね。頑張って」
にっこり笑って言うと、ちかちゃんはぽりぽりと頬をかいて照れくさそうに笑った。
端正な顔が綺麗に歪んで、街行く人がきゃーと声をあげはじめた。
ああ、気付かれた。
ちかちゃんは焦る風でもなく、私の髪をさらっと掴んで手でしばらく弄んだ。
それから名残惜しむように、タクシーを呼ぶと、私を押しこんだ。
「家で待っててな。眠くなったら寝ててもいいからな。ゆうこ」
「はぁい。じゃあね、ちかちゃん」
夜八時に寝たりなんてしないよ。
なんて思って苦笑しながらちかちゃんを見た。
タクシーの中で手を振ると、ちかちゃんも同じく手を振ってくれる。
運転手さんに出して下さいと告げると、二人を隔てるように扉が閉められた。
人だかりになりそうになったちかちゃんは、小走りで逃げるように事務所の方へと走って行って、タクシーに乗りながらじっとその姿を眺めた。
タクシーに行き先を告げるけど、あのあまりに大きな高級マンションは名前だけで通じる場合が多い。
今回もマンション名を言うとあっさり頷いてくれて、あとは運転手に任せて座席にもたれた。
ちかちゃんに会えて良かったなぁ。
事務所に行ったのも初めてだったし、みんなに好奇な視線を寄せられたのは恥ずかしかったけど。
まぁユキの結婚相手が気になるのは仕方ないよね。
ほんと私なんかで申し訳ないけど。
事務所の人は仲が良さそうで、ちかちゃんもそこで仲良くやってるみたいだ。
良かった。
働いてるところでちかちゃんを見れたのも初めてだったし、嬉しいな。
本当はロケ現場とかスタジオとかで演技をしているところを見てみたい気持ちもあるけど、それは拒否された。
『それだけは勘弁して。ゆうこがいたら俺まじで集中できないから』
とやや失礼な言葉で拒絶された記憶がある。
まぁ確かに私もオフィスにちかちゃんがいたら気が散るだろうなぁ。
目で追ってしまって、多分仕事ミスするだろな。
想像すると楽しくなって思わずふふっと声に出た。
「お客さん。あのユキの奥さんですか?」
タクシーの運転手にいきなり話しかけられてびくっとなった私にかまわず、また続けてお喋りが飛んでくる。
「いやーやっぱり芸能人は違いますね。男前ってレベルじゃないですな。オーラが。奥さんも綺麗だけど」
ははっと軽快に笑う運転手に顔を赤らめる。
奥さんって響きはなんか新鮮。
そんな風に呼ばれた事ってほとんどないし。
やっぱりこんな五十代くらいのおじさんでもちかちゃんの事知ってるんだなぁ。
すごいな、ちかちゃん。
前は若者だけにしか知られてなかったらしいのに、ドラマに出るようになってから一気に全国区になったね。
それも何だか微笑ましくなって、今日はスーパーに寄って色々買いものをしようと意気込んだ。
ちかちゃんの好きなハンバーグ作ろう。
あと、サラダはマカロニがいいかなぁ。スープはミネストローネを作って。
いくらちかちゃんが私を好きでいてくれてるからって安心したらダメだよね。
ちゃんと頑張らなきゃ。
タクシーで家に帰ってから自転車で買い物に出かけた私は、今日の夜のことだけを考えて幸せな気持ちになった。
料理を無事作り終えて、今日の朝干した洗濯物を取り込もうとベランダに出た。
子供ができたらきっとビニールプールを広げて水浴びをできるほど、ベランダは大きい。
そこに今はおしゃれな簡易テーブルと椅子が二脚置かれている。
洗濯物を取り込んで、空を見上げると、夜空に星がいっぱいで思わず柵にもたれて見上げた。
その後、風に当たりながら下の道路を眺める。
マンションの正面に当たる位置から、下を見下ろすとエントランスが見えて、その奥に道路が広がっている。
暗い中で、車が行き交っているのはすごく綺麗で、高い位置から見下ろすと夜景みたいに見える。
ぼーっと風に当たっていると、エントランスの前にタクシーが一台停まった。
あれ。
タクシー。
ちかちゃんかな。まだかな。
ここは高級マンションだし、エントランスにタクシーが停まるのは当たり前だ。
お金もちばっかり住んでるここでは、リムジンが停まっていることさえたまに見るくらいだ。
十五階から見下ろすと、定かに見えない人でも、タクシーから降りてきた男の人がちかちゃんである事が簡単に分かる。
ちかちゃんだ。
なんで分かるのかは分からない。
顔もちゃんと見えないくらいだけど、動き方とか雰囲気とかそれだけでも伝わってきて、嬉しい気持ちになる。
気付いてくれないかなぁ。
そんな風に思いながら見ていると、タクシーからもう一人降りてきたのが目に入った。
ん?
髪が長いから女の人だ。
スカートを履いていて、多分私よりも少し若い。
そう言えば、今日行った事務所で見た気がする。
事務所の人なのかな。
タクシーが過ぎ去ると、女の人はちかちゃんにちかちゃんの荷物を手渡して真正面で向き合った。
それを受け取ったちかちゃんに、女の人ががばっと抱きついたのが目に入って、目を丸くした。
「……え?」
思わず声さえ漏れた。
ちかちゃんは拒むと思いきや、片手をその人の肩に添えるようにきゅっと一瞬抱きしめる。
その後、ちかちゃんが肩をぽんぽんと叩いて体を離すと、ちかちゃんの手が彼女の頭を一度軽く撫でた。
なにこれ。
目の前で見た光景が信じられなくて、思わず目をぎゅうっと瞑る。
それでも目を開けてもやっぱりあれはちかちゃんだと思う。
その後、女の人はちかちゃんにぺこぺこと頭を下げて、マンションとは違う方向へと歩いて行った。
ちかちゃんは鞄をかついでエントランスの方へと入ってくる。
こっちに近づいてくるのを見た瞬間、思わず部屋の中に入って扉を勢いよく閉めた。
な、なんだったんだろう。
浮気?
いや、浮気って、でもちかちゃんがそれはないだろう。
でも。
考えれば考えるほど今の衝撃的な光景が浮かび上がってきて、喉を締め上げるように苦しくなった。
なにあれ。二人には何かがあるんだろうか。
そう思うと、胸がきりきりと締めつけるように痛くなって、泣きそうになった。
結婚してたら安心だなんて甘え切ってはいないけど。
私が入り込めない外でそんな事されちゃったらどうしようもないじゃん。
考えてしまうと、疑う部分も出てきて。
ロケやスタジオに来るなって言ってたのも、あの人と会わさないためなのかとか余計な考えが浮かんでくる。
そんな風に思ってしまう自分が限りなく嫌で、さっきの人がちかちゃんでなかったと思いたかった。
他人の空似であったらいいのに。
そう願っていたのに、ピンポンと部屋に軽快な音が鳴って、思わず顔をしかめた。
鍵を持ってるくせに、いつもインターフォンを鳴らして、私を扉まで呼び寄せるちかちゃんが今は憎らしかった。
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