ゆうこ2023

この日きっと世界中に

あなたと私しか

いなかった

―――――――――――


「……俺にしとけばいいのに」

「……え?」

「へ?……………あ…………えっと、ああー………………俺に、……俺に、しとけよ」


その言葉を理解しきるには、きっと一日じゃ足りないと思う。

それくらい私には全くの理解不能、予想外、摩訶不思議で、一体どんなノリで、どんな顔で、どんなテンションで彼がそう告げたのか、全く持って分からなかった。


ただ、彼の心臓の音だけがうるさい。

そして、私の心臓の音も異常にうるさかった。


いや、このうるさい音は私の音だけなのかもしれない。

何もかも分からなくなるほど、私は困惑していた。

ちかちゃんの胸の中で精一杯言葉を噛み砕いて理解しようとしたけど。


でも、簡単すぎるその言葉に、噛み砕くも何もなくて。

考えても、考えても、答えは出なかったのに。

ちかちゃんの次の言葉であっという間に答えは出た。

それは私が長い間、沈黙を守っていたからだろう。

ちかちゃんは痺れを切らしたのか、冗談を真に受けんなと呆れたのか。

どっちにしても、私が見出した少しの可能性も粉々に打ち砕いてくれた。


「帰るか。俺も明日仕事早いし。送ってく。それとも飯でも行くか?」


至って、冷静な、無愛想な冷たいトーン。

私の体を軽く押して、助手席に戻してから、車のギアをドライブに入れて車を発進させた。


しばらくそれにも返事ができなくて、ただ手の震えを抑えようと必死で両手を握り合わせる。

一瞬にして切り替わった車の中の空気。


しっとり甘かったはずの車内は、今はもうただの元同級生のそれにすっかり戻っていた。

さっきの言葉を問い詰める事もできないようなあっけらかんとした雰囲気に、喋りたい言葉が出ない。

どうしても勇気が出ない。


そうだ、これを平気で聞けていたら、こんなに長い間片想いなんてしてない。

チラッと彼を盗み見すると、何事もなかったようにハンドルを片手で持って前だけを見て運転していた。


その横顔を見て、キュンとする。

なんて彼は素敵でかっこいいんだろう。

私だけが翻弄されているという事が、さらに彼をかっこよく見せる。

こんな人が勉強しかできない私に向かって、あのセリフを真剣に言ったとは到底思えない。


ドラマの練習?

ムード作りの練習?

女の子を口説くための予行演習?

ただのからかい?

色んな事が頭をよぎったけど、決して私を口説いたんだとは思わなかった。


だって、そんな可能性はゼロだって、知ってるから。

もう高校の時から何度だって打ち砕かれてるから。

今更何も期待したりなんてしない。

いつだって、彼は私にだけ冷たいのだ。


それだけがこの長年の付き合いで分かった事。

これで何をどうしたら期待できるというのだ。


そうだ。

見てないけど。

むかつくだろうから見てないけど。

ドラマで主演をしてるってワイドショーで言ってた。愛子さんも言ってた。

ちかちゃんは私にそんな話全くしないけど。

モデルからタレントになって俳優にまでなったちかちゃん。


演技ができるんだ。

何でもなくても、甘い言葉を口に出して信じ込ませるくらい、もうお手の物なのかもしれない。


そう思うと、悔しい。

彼は私なんかとは別次元に、さらに遥か遠くにいった。

嘘をつくのが、演技をするのが上手な俳優と恋愛ができる人はきっと、大人な女性だ。

私には手が負えない。

でも、私だって。

そう簡単にあきらめてやらない。


今日だって、こてんぱんに、また忘れられなくさせられてしまった。

きっともう一生忘れることなんてできない。


だから、最後に頑張って、勇気を出して、ちかちゃんにぶつかってみる。

自分の凝り固まったプライドは捨てることにする。


チラリと横を見ると赤信号で止まっている彼は、私を見ないでただ外の風景を眺めていた。


「ねぇ、ちかちゃん」

「……んー?」


素っ気なくこっちを見た彼に、にこっと嘘臭く笑った顔を用意する。

私の笑顔に、ちかちゃんはピクっと眉を動かして、怪訝な顔をする。


「さっきの言葉って、……どういう意味?」


ミステリアスな印象を与える彼が、おしゃれな黒髪の下で表情を固めた。

端正な顔をピシッと固めて、それから私と同じようにヘラッと笑って、嘘臭い微笑みを用意してくる。

なんでこんな気持ちのこもっていない笑顔を向けられなきゃいけない。

気分を悪くしたけど、最初に向けたのは私だった。


高校の時のまっすぐな二人はもういない。

こうやって、人を翻弄する事を学んで、誤魔化す事を覚えて、本音を隠す事を覚えた。

あのオレンジの教室も、今は真っ黒だ。


「……別に? ただ、お前が言ってほしそうだったから。そう言えば喜ぶんじゃないかと思っただけ」


真剣な顔で言ってきたわけじゃない。

冗談だ。

からかってるんだ。だから、落ち着け。真に受けるな。

そう思うけど、さっきの軽々しいへらへらした笑顔でもなかった。

嘲笑うような、馬鹿にしたような笑顔。


眉を歪めてから、どうしてこんなにもひどい表情をされなきゃいけない、どうしてこんなにも胸をえぐるような言葉を言われなきゃいけないんだと、責める気持ちがこみ上げてくる。

その理由はあまりにも簡単だ。


彼が私を大事にしてないから。私を好きじゃないから。

彼の中であまりにもどうでもいい存在だからだ。

じゃあ、もうこの意味の分からない中途半端な関係を終わりにしてもいいと思った。

もうこれで終わってもいいと思ったんだ。


赤信号になって、また外の風景を見つめる彼に、自分の重たい鞄を投げつけた。


「………いって…」


痛そうに当たった肩をさすって、こっちに視線を移してくる。

その時の私はどんな顔をしていたのだろう。

うっとうしそうな表情をしたちかちゃんが目を丸くして、私を見た。


「……ちかちゃんのばか。大っ嫌い! 人の気持ち馬鹿にしないで……。もうやめる! ずっと好きだったけど、もう好きなのやめる! 大っきらい!」


心の中に留めていた感情が溢れだして、泣きながらその言葉を怒鳴りこむ。

ちかちゃんは動きをピシッと石のように止めて私を見てた。

呼吸もしてないように見えるちかちゃんを見て、投げ飛ばした自分の鞄をひったくる。

それにも何の反応もしないちかちゃん。


よっぽど私が怒鳴った事が予想外だったのか。

それとも、今まで私に好かれている事に気付いてなかったのか。

でも、もうそんな事はどうでもいい。

少しでも驚けばいい。

少しでも悩めばいい。

どっちにしても、綺麗だった私たちの関係は再会した時から少しずつずれていった。


それは大人になって、欲を覚えたからかもしれない。

もう放課後の少しの時間を楽しむくらいじゃ満足できなくなってた私。

もう友達にも戻れない。


ばいばい、ちかちゃん。

鍵を開けて、ドアを開けて車から飛び出そうとした私の腕を掴んできた。

その顔はいまだ放心状態のようで、でも本能的にただ掴んできたんだと思う。


「………離して!!」


腕を引っ張ると力が入っていなかったのか、案外あっさりとちかちゃんの手が離れた。

赤信号で止まっている車から降りて大きなドアをバンっと閉めた。


「……ゆうこっ!!」


閉める直前に大きな声が聞こえたけど、そのまま青になって走りだした車の列にちかちゃんは従うしかなかった。

私は車の流れが去って、歩道に戻る。

気付いて辺りを見渡すと、家からそう遠くもない距離まで戻ってきていた。


……歩いて帰ろうかな。

そんな気分だ。

今はタクシーの運転手さんと喋るのも嫌だったし、電車に乗って人に近寄られるのも嫌だった。

ただ、一人になりたかった。


終わった関係はあまりにも大きくて、私の胸を締め付けるには十分で。


「……苦しい……。苦しいな。うぅっ……」


苦しくて、苦しくて。

それでも。

こんな想いをするなら好きになりたくなかったとは思わない。

出会いたくなかったとは思えない。

だって、彼を好きだった私の時間は思い返して見ても光り輝いていて、そのキラキラが私の青春だった。

彼だけが唯一、私の青春を彩るものだった。

報われなくても、いまだキラキラしてる事に気付いて、ホッと息を吐く。


良かった。

良かった良かった。良かった。

一人になっても、私の中のちかちゃんは、それでも光り輝いている。

良かったじゃないか。

もう十分だ。

それでも、今の状況になっても、ちかちゃんがどうしても欲しいと思う気持ちは、少しずつ無くしていけばいい。


少しすっきりした気持ちを抱えつつ、一人家路をゆっくりと歩く。


「…………ちかちゃんのばーか」


言いながら、まぶたの裏に彼の綺麗に笑った笑顔がよみあがってきて、涙がまたぼろぼろと流れる。

情緒不安定。

その五文字で片付けるには、あまりにも悲しい私の想い。


「………ふっ…………ふぅー…………」


落ちつけようとしても涙はさらに溢れて来て。

彼の住んでいた児童養護施設の前にたどりついた時には、歩けないくらいになっていた。

私の家まではあと数分なのに。

その場で膝から崩れ落ちて、コンクリートにへたりこんだ。


今日くらいは仕方ない。

七年分の想いが砕けた日に、こうなっても仕方ないと思うしかない。

あと五分したら泣きやんで、立ち上がって、家に帰ろう。

そして、笑って、ただいまと言おう。

ひっそりとしている大きな施設を見上げていると、後ろから走ってくる足音が聞こえる。


後ろを振り返ると、今脳裏に描いていた人がこっちに向かってきていて、思わず立ち上がって走りだす。

会いたくないっ。

会いたくないっ。

今会って、何を言われるかが怖い。


「ゆうこっ! 止まれって!」


後ろから少し息を切らしているちかちゃんが閑静な住宅街で声を張り上げてくる。

近所迷惑だよ。

ただ逃げ続ける私のヒールの音も大概迷惑だろう。


「追いかけてこないでよ!」


そう声をかけても、ちかちゃんは走るのをやめない。

運動神経に自信のある私でも、ヒールだし、女だし、ちかちゃんに勝てるわけもなく。

家が視界に入った瞬間に、腕をがしっと掴まれる。

後ろから乱した呼吸の音が聞こえる。


「はぁ……はぁ……はぁ…………っ」

「はぁ……はぁ………」


二人の荒い息遣いだけが聞こえて、思わず逃げたくなる。

手を振り払おうとぶんぶんしても、もう彼の手が私を逃がしてくれる事はなかった。


「お前、ふざけんなよ。まじで」

「なにがよ」

「……逃げてんじゃねぇよ」


車はどこに置いてきたんだろうとか、一体どこから走ってきたんだろうとか、そんな事を想像すると笑えてくる。

ちかちゃんは私をじっと射るように見つめてくる。

ふふっと笑いを零すと、眉間に皺が寄っていつものように怒ってくる。


「……何笑ってんだよ」

「笑ってない」


会話はもう一方通行だ。

だって、これ以上話す事なんてもう何もない。

すっと背中を向けるけど、手はいつまで経っても離してくれない。


「離して。帰るから」


冷たくそう言うと、さらに私の腕を掴む力が強まって、はぁっとため息を吐く。

自分の左側だけが熱い。

全身が心臓になったようにうるさい。


「…………なぁ」

「なによ」


しーんとした街で私とちかちゃんの声が響く。

それと裏腹に私の鼓動ばかりがドクドクとうるさい。

ちかちゃんも少しはドキドキしてる?


「お前、俺のこと………すきなの?」


核心をついた言葉にドクンと一つ大きな音を心臓が立てて、思わず目をぎゅっと瞑る。


心臓が痛い。苦しい。

胸に迫るような波が何度も押し寄せては、涙腺を痛みつける。


そうだよ。

ずっと好きだったんだよ。


「……………好きだよ。ずっと。高校の時からずっと好きだった」


ぽつりと告げると、ハッとちかちゃんの息を飲む音が聞こえる。

やっぱり知らなかったんだね、私の気持ち。

そう思う私に驚くような音が、後ろから響いてくる。


私の手を握っている後ろ。

顔が見れずに、ちかちゃんに背を向けながら喋った私の後ろで。


「…………はっ…………………~~~~~っ……」


不規則な息遣いが聞こえて後ろを思わず振り返ると、綺麗な顔を歪めてぼろぼろと涙を流しているちかちゃんが目に入った。

びっくりして、息を止めてじっと見つめる。


なんで泣いてるの?

そんなに泣いてどうしたの。


その後、ちかちゃんは崩れ込むように膝をガクンと折って、私の腕を握ったままうずくまってしまった。


「やべぇ…………なにこれ……………涙とまんねっ………」


その様子に、意味も分からず私まで涙がこみ上げてくる。

なんで泣いてるの?

ちかちゃんと同じ位置までしゃがみこむと、ちかちゃんが泣きながら私を見てふっと笑った。

その笑顔はさっきの質の悪い笑顔なんかじゃなくて。

それはまさにさわやかな朝に咲いた花が綻ぶような。


嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑う、幸せな笑顔だった。


「ごめん、ゆうこ」

「え?」

「俺も。……俺も好きだった。ずっと………ずっと。お前だけが好きだった」


その言葉に、ハッと息を飲む。

顔にかぁっと赤が差した瞬間に、ちかちゃんに腕を引っ張られて、抱き込まれた。

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