ゆうこ2023

叶いそうもないあなたから

逃げたいと思ってたの

ずっと

でもきっと

ずっとあなたを消せなかったのも

私の方だね

―――――――――――――――


次の日、会社に行くと驚くべきことが起きた。


「ねぇねぇ! 今ユキが受付にいるってすっごく話題になってるよ!」


デスクが隣の一つ上の先輩が、色めきだった声で私に珍しく声をかけてきた。



は?

ユキ?

ユキってあのユキ?

嫌な汗がたらりと流れる。


いやいや。

私の知ってる男は、麻生雪近(あそうゆきちか)だ。

決して、ユキなどいうカタカナ表記のふざけた男ではない。

彼は誰よりもまじめで、誰よりも純粋で、ひたむきなのだ。


そんな事を思いながら、ぼーっと現実逃避をしていると、課長のデスクに電話が鳴る。

そのすぐ後に、肩をぽんぽんと課長に叩かれてようやく我に返る。


「……はい。なんでしょうか」

「うん。なんか受付が君を呼んでるそうだから行ってきてくれるかな? 来客だそうだ」


その言葉に頭が真っ白になる。

隣の愛子さんが「きゃーユキと知り合いなのぉぉぉ!?」と一流会社ならぬ恥ずかしい叫びを披露したため、大注目を浴びる事になった。


いたたまれない雰囲気の中、部屋を早足で抜け出して、エレベーターに乗り込む。

どういうことなのか全く理解ができない。


ちかちゃんが何の用事?

昨日、「ぼけ! 死ね!」と叫んだ本人が、何の用事なのだろう。

本当に摩訶不思議だ。


エレベーターで一階まで降りて行くと、受付嬢二人に囲まれるようにして立っているちかちゃんを見つける。

ちかちゃんが愛想よく笑ってお喋りをしているのを見てびっくりする。


それと同時に胸を手で押さえたいほどの痛みが襲ってきて、鼻がつーんと痛くなる。

ちかちゃんの手をひねりあげて、受付嬢の頬を往復ビンタする映像を頭の中で上映する。

そんな恐ろしい妄想を繰り広げていたけど、それにぶんぶんと首を振る。


そうだ。

私が知っているのは、十八の時の彼じゃない。

もうあれから四年以上も経ったんだ。



「ち…………ユキ!」


近付いてそう声をかけると、目の前の男はやっぱり眉間に皺をよせて私を見た。

……なによ。

そんなに嫌がるなら会いに来なければいいのに。


そう思いながら、ちかちゃんをじっと見ると、力強い瞳でこっちを見て、手をぐっと引いてきた。

そのまま歩きだすちかちゃんに黙って着いて行く。


会社を出て、会社前の花壇の端に腰かけると、私をまじまじと見てくる。


「あのさ、ちかちゃん。私今仕事中なの。何の用事? もし用事がないって言うなら怒るから」


口調をきつくして告げると、ちかちゃんは分かりやすく顔を歪めてチッと舌打ちをする。

人気モデルがそんな事しないで。

ちかちゃんは俳優でも歌手でもないから、いつも写真とトーク番組やバラエティのみ。

極上の笑顔や極上のキメ顔しか披露しない。


だから、きっとちかちゃんのこんな人間らしい顔を見れるのは、そうそういないだろうと変な優越感に浸ってしまう。


チラッと横を見ると、イラついたように膝の上で小刻みに指を揺らしている。

ほんとにもう。

みんなはどうやってこの人を扱ってるんだろう。

仕事ではちゃんとしてるのかな。


「なんで」

「え? なに?」


低い声で恐ろしく機嫌の悪いトーンが聞こえてくる。

意味が分からず聞き返すと、さらに機嫌を悪くするちかちゃんに、内心はぁっとため息を吐く。


「なんでユキって呼ぶんだよ」


ああ。

そんなこと?

それの何が気に入らないんだろう。


ユキって名前は。

あなたの大事な芸名じゃないんだろうか。


「だってユキじゃない」

「ゆうこが呼ぶ理由が分かんねぇ」

「だっていっつもちかちゃんって言ったら怒るし」

「あれは怒ってるんじゃない」

「じゃあ何よ」

「……………」


無言で押し黙るちかちゃんに、はぁっとため息を吐く。

私のその様子にちかちゃんが分かりやすく貧乏ゆすりを始めた。

その足にそっと制止するように触れると、ちかちゃんは大人しくじっと足を落ち着かせた。


「だって、私はテレビでも雑誌でもあなたがユキって呼ばれてるのを見たし。世間ではそう呼ばれてるんだから、人もいる手前そう呼ばないとダメだと思ったの」


そう告げると、ちかちゃんは目を丸くして私の顔を覗き込んだ。

なに?


「見たのか!?」

「え? なにを?」

「雑誌とかテレビ!」


今度は聞き返しても怒らなかった。

ただ、必死に私に何かを求めていた。


「見たって言うか………うん、見たけど。わざわざ見ようと思わなくても目に入るくらい出てるもん。コンビニに行けば目に入るよ、ちかちゃん」


本当はわざわざ雑誌を買ったり、テレビを録画したりしていたんだけど。

それは黙っておく事にしよう。


「…………どう、だった」

「へ?」


なに?

どうだったとは、テレビとか雑誌の感想ってこと?

そんなの今更私に聞いてどうするんだろう。

日本のトップモデルなのに。


「すごくかっこよかったよ。ていうかそんな事言わなくたって、もう色んな人に言われてるでしょ」


ずっと思っていた事を口にすると、ちかちゃんは私から目を逸らしていて、愛想の悪い言葉をぽつりと零した。


「…………ふうん。そう」


真意をうかがおうと思って、ちかちゃんの顔を覗き込む。

そうしても、分かりやすく顔を逸らされてしまう。

なんだかうまく掴めない。


「で。結局なんで会社にまで来たの? 私一年目だしそんな簡単に会社抜けられないんだから。いきなり来られたら困るよ」

「俺が来たら迷惑なのかよ」


いきなり怒りだすちかちゃんに苦笑いを浮かべて首を振る。


「そうじゃないけど。ただ理由は?」


そうだ。

久しぶりに会ったから見失ってたけど、私はいつもちかちゃんを猫のように無条件で可愛がってたんだ。

牙をむかれても、怒鳴られても、機嫌を損ねられても、理不尽な事を言われても。


それが私たちの関係。

ただ、どうしようもないほどにちかちゃんを好きだったから。


この世に存在しているだけで嬉しいと思うほどに好きだったから。

何をされても寛大で居心地のいい女に徹したんだ。


「ゆうこの顔を見ようと思っただけ。でもむかつくお前」

「どうして?」

「全然思い通りになんねぇ」


ちかちゃんらしいその言葉に、くすくす笑うと、ちかちゃんの太ももの上に置いていた手を掴まれた。


「ん?」


ただ、私の右手を握ったり触ったりしているちかちゃんの顔をじっと見る。


「相変わらずびびるほど白いな。折れそう……」


その呟きに、胸が押しつぶされるかと思った。

息がしにくい。

はぁっと大きく深呼吸のように息を吸い込むと、胸の動悸が少しだけ治まる。


もうすでに涙腺が崩壊しそうだ。

嬉しい。

ちかちゃんとまたこうして話ができる関係になれる事が嬉しくてたまらない。

四年前まではずっとこうだったの。


こうやってたまに、本当にたまに、すごく大事に扱ってくれたの。


「ちかちゃん今日は仕事は?」

「ああ。昼から」

「そっか。なんで私の会社分かったの?」

「お前のおばさんに聞いた」

「ああ。家まで来たんだね」

「うん」

「じゃあ、私会社戻るね。そろそろ怒られる」

「むかつく」


その言葉に苦笑しながら、私はちかちゃんから離れて会社に戻った。

愛子さんが何度も問い詰めてきて、その上、他の社員まで聞き耳を立てている状況にぞっとする。


まだ入社一ヵ月だぞ。

私、話題の女とかになるの勘弁したいんだけど。

でも、きっとまたちかちゃんは会社に来るだろうし、私はどうしてもそれを拒めないんだろうと確信していた。

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