ゆうこ2023

もう恋ではないと、

もう恋ではないと、

そう言い聞かせてこの街に

戻ってきたんだ

そうじゃないと

戻れなかった

――――――――――


四年ぶりの地元に戻ってきた。

とても懐かしくて、そして苦くもあるこの街。


でも、きっともうここにあの人は戻ってこない。

ぽつりと思いながら、見なれた街並みを見渡す。


空港からバスで三十分の場所にある私の実家。

四年も経っているのに何一つ変わっていない風景に、思わず笑みが浮かぶ。

私は四年間の大学生活を遠方で過ごした。


そこには、私の尊敬している経済学の権威がいて、私は高校生の時からどうしてもそこに行きたかった。

昔から勉強が大好きだったけど、高校生の時は本当に死ぬほど勉強したって記憶しかない。


必死に勉強して、超難関と言われているその大学に特待生として受かった時には、知恵熱を出して泣きながら喜んだのを覚えている。

それと同時に彼の機嫌の悪そうな顔が出てくるのは心外だけど。


あの時、彼に壊されたオルゴールは今でも壊れたままだ。


そのまま大学生活の四年間。

普通はお正月や長期休みの時には戻るはずの実家に、私は一度だって戻らなかった。

両親が何度か私の下宿先に遊びに来た事はあったけど、私は研究と知識を詰め込むことに明け暮れていた。

それで良かった。そうしたかった。

自分の好きな事に没頭できてとても充実していたし、楽しかった。


かしこい人ばかりが周りにたくさんいて、日々交わされる会話一つ一つがきらきら輝いていた。

自分がひどく人生を謳歌していると素晴らしく楽しかった。


だから、この地元の存在などすっかり心の片隅にも残っていなかったのだ。

だって、ここにはもう彼がいないから。


私にはそれだけで、この街が一気に色を失って、魅力のないものに見えて仕方なかった。

彼を除くこの街には、何もかもがつまらなくて、こんな街なんて二度と帰ってくるかとひどく冷めた思いで故郷を思っていた。


大学のネームバリューとお世話になった教授と、私の少しの努力のおかげで、私は外資系の超一流会社に内定をもらう事ができた。

それが皮肉にも、この地元の近くに本社があるのだからびっくりする。


社会人一年目。

実家に舞い戻った私は、毎日仕事と家を行き来する毎日だった。

残業も多く、仕事も難しく、つまらなく楽しい同期社員との馴れ合いなんてものはない。

ただ、やりがいのある仕事に追われていた。


やはり忙しさは私の味方のようで、彼の存在を忘れられる事ができた。


私が見たくないと思えば思うほど。

彼は雑誌やテレビなどのメディアに活躍した。

胸が焦げて、そのうち死んでしまうんじゃないだろうか。

そんな風に思うほどに、私はいつまで経っても彼の事が好きでたまらなかった。



――会社に入社して一ヵ月が経った。

夜九時に家に帰宅しようとすると、駅から少しの距離にある大きな児童養護施設に大きなバンが停まっていた。

窓ガラスまで全部スモークになっていて、中は一つも見えない車。


絶対彼だと思った。

彼の住んでいた場所の前に停まっている車。

会いたいのか、会いたくないのかは分からなかった。


歩幅はゆっくりになったけど、決して歩みを止める事はない。

だって、会ってもどういう顔をしていいかなんて分からないから。


肩にかけていた鞄をよいしょと背負い直した瞬間に、体がブルッと震えあがった。



「…………ゆうこ」


児童養護施設から出てきた男性。

目の前の彼が道端を歩いている私を見て、呆然とした顔でぽつりと吐いた言葉に、心底嬉しいと思った。

何を取り繕っても嬉しいという感情が出てこないほどに、心が喜んでいた。


彼の口から、私の名前。

そんな当たり前の事から、どれだけ遠ざかっていたか。


テレビで聞く声とは何もかもが違った。

今、このまま彼の胸に飛び込みたいと、現実ではありえない事を考える。


「……ちか、ちゃん」


彼は、黒のキャップを目深にかぶって、お洒落な黒いだて眼鏡をしていた。

すっかり芸能人だね。

でも、いつも雑誌やテレビで見るような綺麗な素敵な笑顔は一つもなかった。


懐かしんでいるわけでもなく、ただ、彼の眼には私に対する憎悪だけが映っているように見えた。

そんなマイナスの激情に思わず目を逸らす。

予想していたものだったのに、本当に目にするとこんなにも辛いものだとは思わなかった。


「久しぶりだね、ちかちゃん」


私が笑顔を作って一歩歩み寄ると、ちかちゃんは一歩後ろに下がった。

色んな感情をぶちまけたそうな彼の顔をじっと見ながら声をかける。


ちかちゃんと呼んだら、昔は顔を赤らめて怒ったのにね。

今は、気に入らないというように眉にしわを刻んだだけだった。


「何が久しぶりだよっ……お前の顔なんて見たくなかった」


ちかちゃんのその言葉に、緩く微笑みを作って、彼を通り過ぎた。

心臓だけが異常なくらいバクバクしていて、つま先から痺れが起こりそうなほど緊張していた。


「ごめんね、ちかちゃん。元気そうで良かったよ」


いっぱいいっぱいでそれしか言えない私は、もう一度鞄をかけ直してその場を離れた。


泣きたいと思った。

今すぐ泣きたいと。

今すぐ帰って、ちかちゃんの載っている雑誌は全て処分しようと思った。


本当は近付きたいくせに、すがれないなら。

プライドが邪魔をして近寄れないなら。

未練がましいものはすべて処分しようと思った。

想像の私は、もっと余裕の笑みを浮かべていたんだ。


スーツでハイヒールを履いている私は、こつこつとヒールの音を鳴らしながら歩く。

都会の中でも閑静な住宅街のこの街。

ヒールの音が嫌なくらい響く。



「…………ゆうこ!」


後ろから聞こえたちかちゃんの言葉にくるりと振り返る。


きっと今の私は無表情。

ただ、彼に呼ばれる名前はきらきらと極上品のように輝いて聞こえる。

それを噛みしめるように、拳をぎゅっと握りしめた。


「なんでここにいるんだよ! お前っ、四年前に何も言わないでいなくなっただろうが! どういうつもりでっ」


ちかちゃんが怒っていることしか分からない。

後はずっと久しぶりに見た彼の顔をじっと眺めた。


さすがはモデルだ。

あまりにも綺麗なその顔は、どう隠したって、オーラがにじみ出ている。

きらきらしていて、帽子や眼鏡なんかじゃ隠せないほどの美貌。

奥二重の瞳はゆるやかにつり目になっていて、瞳の色が黒くてとても綺麗。

鼻筋が顔の真ん中を通っていて、すらっと高い。

薄くて綺麗なピンクの唇。


綺麗にあたった黒髪のパーマがキャップから少し覗いている。

筋肉のついた背の高い背格好。

とんでもない、隠しきれない色気。

全てが完璧だ。

何を取っても、一流だ。

四年前よりもさらに大人でかっこよくなった。


前よりも随分垢ぬけて、到底手の届かないところに飛んでしまったような気がする。

何時間見ていても飽きないだろうなと思わせる彼は、ひたすらに私の目を見て返事を待っている。


その状況がたまらなく愛おしかった。

胸が喜びで打ち震えて、心臓が痙攣するのが分かる。


ただ。

……泣きそうだ。



「ちかちゃん、おいで」


私が余裕を繕って優しくそう告げると、ちかちゃんは目を丸くして、その後一気に機嫌の悪そうな顔をにじませた。


そりゃ、だめだよね。

あまりにも時間がたちすぎた。

数メートル離れた彼の眉間に皺が寄って、ふうっと大きなため息を零す。


機嫌を本気で損ねてしまう。

昔からの習慣でもう分かっていた。


「ごめんね。ちかちゃん帰る」


そう告げると、眉間の皺をほどいて、ただ無表情で私を見た。


「早く帰れよっ」


自分で呼びとめたくせに……と言って文句を言ったりはしない。

全部私が悪いんだから。


「ごめんね、ちかちゃん。久しぶりに会えてうれしかった」


小さく手を振って、またヒールをこつこつと鳴らして歩き出す。


「俺は一生会いたくなんかなかったわ! ぼけ! 死ね!!!」


分かりやすいその言葉に、苦い顔を作りながら、その場を離れた。

後ろでバンっと強烈な破裂音が聞こえたけど、振り返らなかった。


ちかちゃんが持っていた鞄を地面に叩きつけた音だと簡単に分かったから。

だって、ちかちゃんの周囲に八つ当たりできるものは、鞄と地面しかなかったのだ。


変わらないちかちゃんがやっぱり好きだ。

でも、こんなにも彼を怒らせている。

それほどにひどい事をしたんだと、今ようやく後悔として沸き上がってきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る