第10話 箱の鍵を開けた

「藤沢さんの奥さんは再婚なんですよね。藤沢さんと同い年」

「俺と同じくらいか」

「前の旦那さんとの間にお子さんがいらっしゃってもなんの疑問もない年齢です」

「まあ、そうだな」

 もしかすると。そうつぶやくともったいぶって坂口が無駄に眼鏡に手をかける。かちゃ、と眼鏡が鳴く。流行りのドラマをオマージュしているのかなんなのか、とにかく彼はかっこつけていた。けれども腹は立たなかった。その立ち振る舞いは小説に出てくる探偵のようで、なぜかいつものように引っかからないのだ。するりとその姿が体の中を落ちていく。

「何か不幸があって、それは藤沢さんも知らなくて。その不幸を受け入れきれない奥さんは何を思ったか鍵を削って。開けられない鍵を作ろうとしたのではないでしょうか」

 翔太から言葉が消えた。深く聞き入っていた。開けられない鍵、という言葉は今日初めて聞くものだった。鍵で食っている翔太だが、その発想はなかった。商品化したら売れるかもしれないな、とか馬鹿なことを考えたりしてみた。いやいや、と頭を振る。謎は目の前にあるのだ。不幸?何があったというのか。受け入れきれない?それほど大きなものなのか。

「閉じ込めて忘れようとした。でも、捨てるには勇気がない」

「だから箱に入れたって言うのか」

 坂口がうなずく。捨てられない物をしまって見えなくして、この世からなくした気になって。そうやって何事もなかったかのように日々を過ごすというのか。それは幸せなことなのだろうか。脳の回転速度が速くなる感覚を翔太は味わった。藤沢とは何の縁もない。彼を気にかける余裕は翔太にはないはずだ。だが、気になってしまうのだ。止められないのだ。

「それ、藤沢さんに言ったのか」

「藤沢さん、今度お子さんが生まれるみたいですよ」

 だからって。翔太の喉から言葉が飛び出る。面倒ごとは嫌い。そのはずなのに。いろいろな感情が混ざって行き場をなくしている翔太に、坂口はあはは、と転がるような声を出した。口角が上がる。どうやらこの顔は笑い顔のようだ。笑いものにされたように感じて翔太は怒りを見せた。さらに坂口は笑う。

「翔太さん、これはですね。テストの解答と一緒なんですよ」

「簡潔に言え」

「合っているかは、採点してもらわないとわからない。さっき言った答え合わせというのは、自己採点のことなんです。つまり、僕が言ったことは単なる憶測でしかなくて、今翔太さんと自分なりの答えを持ち寄ってすり合わせているところなんです。だから、だからこそというのでしょうか、本当の答え合わせはできません」

 ゆっくりと言葉を紡ぐと、坂口がどうしたのか吹き出した。世界のすべてを馬鹿にしたかのようだった。なぜかふつふつと感情が湧き上がってきた翔太はその感情に任せて坂口に言ってやった。「それでも、もし君の言うことが真実だったらどうするんだ」すると坂口は笑うのをやめ、不思議そうな顔で言った。

「合っているかもわからないことを言って恥をかいたら坂口家の格が下がります」

 そしてまた笑い顔になった。百面相。この時代に格も何もないだろうに。その言葉は飲み込んだ。翔太はただ、坂口のにたりとした笑い方に喉元をくすぐられている気分に腹が立っていた。

「模範解答は闇の中なんですよ」

 享楽に坂口は笑っていた。楽しいショーでも見るかのように。トランプの一抜けが、残った仲間の熾烈な戦いを引いたところで見ているように。翔太が口をぽかんと開けて間抜け顔を晒していると、坂口が顔を近づけてきた。

「面白かったでしょう、僕の答え」

「面白くはない」

「嘘。こういう物を無駄に消費しては満ちた気になる。人間はそういう生き物なんですよね」

 坂口の笑みを受けて、翔太はへそを曲げてみた。面白かったかと聞かれ、心が揺れた。楽しくはない。面白いわけでもない。けれど、何か揺れ動いた物があったのは確かだ。それが気に入らない。坂口に心を翻弄されている。黒い目に翔太が映っている。目が細くなる。何が面白いのかと翔太は不機嫌になった。


「翔太さん」

「なんだよ」

「僕を雇う気になりましたか」

 坂口が手を広げた。上等そうなシャツ。それがかわいそうに、しわになっている。動いたことによって座っている椅子が鳴る。ぐぎい。坂口の好きな歴史の音だ。翔太は椅子を睨んでやった。坂口を睨んでもどうしようもないし、彼は気にも留めないだろう。

「世界を広げましょうよ。僕はあなたの知らない世界を知っている。あなたは僕の知らない世界を知っている。いい関係が築けると思いますよ」

「世界を広げるとどうなるんだ」

 坂口はあは、と笑った。楽しさに細くなって三日月の形をした目が笑っていることを示している。少しの不気味さを持つこの顔は、見つめていると坂口の手の上にいるような錯覚に陥る。

「どうにもなりませんよ」

 翔太は坂口に引っ張られるように笑った。どうにもならない。到底雇ってもらいたいと思っている人間の答えとは思えない。せっかくのアピールタイムを棒に振っている。そのしょうもない答えが翔太の心を動かした。どうにもならないのなら、雇っても雇わなくても同じだ。一時の気の迷いに体は疼いている。少し時間が流れる。その隙に、坂口は足を組み、翔太はため息をついた。

「世界を広げてやってもいい」

 坂口とは見当違いの方向を向いて翔太は言った。狭い店内に縛られている翔太を連れ出すことは彼にはできないだろう。この不可思議な坂口という生き物はそもそもそれが目的ではない。翔太にはそんな気がした。ただ彼は世界を楽しんでいる。

 坂口は無害な生き物だ。それを警戒するのは馬鹿らしいと思った。きっと坂口は翔太に退屈に似て非なるくだらない享楽に溢れた日々を提供するだろう。果してそれがいいことなのか、翔太は首をひねることしかできない。だから一時の迷いにベットしてみることにした。翔太の持っている退屈な日々という大事な物を捨てて、新たな日々を掴んでみるのもまた一興だ。それにどうせ坂口はどんな手を使っても店に関わろうとするだろう。人を諦めさせるのが坂口の本質なのだろうか。翔太はとうとう折れた。折れてしまった。根元からぽっきり。こうなると、もはや諦めるしかない。

「きっと後悔しますよ」

 坂口がそう言うので、翔太は笑い飛ばしてやった。もう翔太に怖いものはなかった。天下の坂口様だって怖くはない。

「ところで、ここで起きた事件ってのは何だったんだ。怖かったんだぞ」

「ああ、七十年前と十年前です」

「なんだそりゃ」

 翔太の力がへろへろと抜けていった。あの恐怖に震えた夜は何だったんだ。結局坂口という不気味な男に翻弄されている。むきになろうと一度は思ったが、なんだかやる気がすっ飛んでしまった。

「こういう話には恐怖というスパイスが必要なんですよ」

 そんなスパイスはいらない、という言葉が翔太の心の底から湧き上がった。これが料理なら翔太は箸を置いてクレームをつけていたところだ。無駄が嫌いな翔太は坂口を睨みつけた。無駄なスパイスを入れるな。坂口は半開きの口で笑っていた。

 鍵を開けたら、不完全なミステリーに出会い、そして錠前店が少しやかましくなった。坂口が七十年前の事件を物々しい雰囲気で語り始めたので翔太は耳を塞いだ。この無駄にうるさい声がいつか役に立つのだろうかと翔太は早速後悔しようとしたがやめた。坂口の言う通りになるのは癪なのだ。こうなったら意地でも後悔はしない。そう翔太が心に決めたのを悟ったのか、坂口が微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鍵を 奥谷ゆずこ @Okuyayuzuko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画