第9話 箱の鍵を開ける
こんな事件未満の出来事があった翌日、坂口は錠前店を訪れなかった。翔太はてっきり彼は毎日来るものだと思っていた。坂口という危険因子がいることで緊張感は一気に高まる。逆に言えば彼がいなければ余裕ができる。暇な時間ができるとどうも人間というものは考え事をしてしまう。思えば、坂口はなぜこの仲村錠前店を志望しているのだろうか。薄いが完璧に思えた志望動機。身近な鍵について知りたい。そして人のためにその技術を活かしたい。鍵でなくともいいが、現代社会でなくてはならない存在になった鍵の技術になぜか惹かれるのだと。これくらいの嘘は誰でもつける。坂口の顔を思い出しつつ、眠れない夜を翔太はなんとか乗り越えた。
夜を乗り越えた先には坂口がいた。開店前。彼は米田に何やらスマートフォンを見せた。藤沢がしていた不思議なスワイプをしている。もしや、全部グルなのか。もう何も信じられない。自分一人で抱え込もう、ただし探偵なんかにはならない。首を突っ込まない。主人公になりたいと妄想することはつまらない人間だから多々あるが、推理小説は嫌いだ。面倒ごとはもっと嫌いだ。謎なんて、記憶の彼方遥かに消し飛ばしてやる。そう翔太が決心した時だった。
「翔太さん、おはようございます」
飛んできたのは、歓迎されない者。いけ好かない登場人物。坂口のご挨拶だった。笑い顔のような顔が末恐ろしい。翔太は春風が薫る外に出る。坂口は少し背伸びして顔色をうかがってきた。身構えていると、翔太にスマートフォンを向けてきた。ゲームアプリがそこにはあった。
「答え合わせの時間ですよ」
怪訝な翔太の顔を見ても坂口の楽しそうな声色は変わらない。この世界というゲームを楽しんでいるみたいだ。プレイヤーというより開発者、ゲームマスターの方が近い気がした。気味が悪い。
「このゲーム、ご存知で?最近流行りのスマホアプリでございます」
それがなんだ、という翔太に坂口は唇を尖らせた。知らないだなんて、ああなんてもったいないことでしょう!翔太は坂口のこういうところが嫌いなのだ。
「藤沢さんもプレイヤーでして。スワイプの仕方でわかったんですが。同じプレイヤー同士仲良くなったんです」
「待て、なぜ藤沢さんの居場所がわかったんだ」
「藤沢さんは徒歩だったのでこの近辺にお住まいかと。昨日は日曜だったでしょう、もしかするとお会いできないかなと思ったらですよ。なんと、たまたまお会いできたんですよ」
人はそれをストーキングと言う。さらに、会ったからといって赤の他人とすぐに仲良くなれる理由がわからない。だが、坂口にはそれを可能にする能力があるように思えた。だから噛みつくのはやめにした。それよりも、答えとやらが気になるのだ。どこか見下ろしたようなところにいる坂口が言う答えとやらには魅力があった。知らなくても生きていけるが、知りたくなる。趣向品みたいな物だ。タバコ、酒、ゲームと同じ。
「翔太さん、鍵の摩耗が変だとおっしゃっていましたよね」
「ああ、まあ変だったな。普通はあんなにも削れない」
例の箱の鍵は翔太が見たことのないような摩耗の仕方をしていた。まるで誰かが削ったみたいな摩耗だった。不自然から目を背けていたが、確かにあれはおかしい。坂口は何度も首を縦に振っている。事実にうなずいている。
「では答え合わせ完了です」
「待て、俺にも教えろ。……その、答えってやつ」
坂口は得意げに「お教えしましょう、仮説ですが」と鼻を鳴らした。勝手に店内に入る。米田が迎え入れたようだ。翔太は坂口の後に続いた。考える。店主である俺が先に行くのがセオリーではないか。
答えなるものを教える対価として雇え、だのなんだの言われるかと思っていた。だがそこまで考えが及ばなかったのかなんなのか、何も言わずに坂口は解答編へと移った。
「胎毛をご存知ですか」
「なんだそれは、もったいぶるな。俺はシンプルが好きなんだ」
坂口はがっかり、といった様子である。彼は無駄が人生においていかに大切であるかを翔太に短く説いたが、翔太は聞く耳を持たなかった。そんな無駄な耳は翔太にない。話は答えへと移った。
「胎毛というのは赤ちゃんに産まれた時から元々生えていた髪の毛のことです。柔らかいんですよ」
「まさかあの毛がその胎毛ってやつなのか?じゃあ赤子を殺したってことか?」
「違いますよ。ちなみにあのかけらはへその緒ですね」
へその緒、と聞いた翔太はどうにも申し訳ない気持ちになった。誰かの大切な物のような気がしてやまない。そして後から背筋を恐怖がつうっとなぞった。へその緒?誰のだ。誰の物なのか。
「桐箱だったでしょう、あの箱」
「そうなのか」
「そうなんですよ」
どうも、坂口の言うには桐箱はカビが生えにくいらしい。だから、へその緒を保管するにはぴったりなのだと言う。見ても翔太はわからないが、坂口にはわかるらしい。なぜなのか聞くと、金持ちなんです、という何とも信憑性に欠ける答えが返ってきた。今にも飛んでいきそうなくらい軽い言葉だったので、嘘だろうと翔太の脳は判断した。
「これからは憶測になりますが」
坂口が眼鏡を直す。いつも彼の眼鏡はずれているがなぜなのだろうか。聞いたら小顔だからとでも言うのだろうか。そんな小さな謎が生まれたが、それはさておき憶測とやらの始まりだ。
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