第6話 箱の鍵を開ける
祖父は気前のいい、子煩悩ならぬ孫煩悩な人物であった。固そうな頭は見た目通りではなく、遊び心とやらをわかっている人物だった。おかきをやるついでに言うのは、お前は錠前店の店主だ、ということ。幼い翔太の耳にそれは入り込んだ。誕生日を祝うついでに、お前は錠前店の店主だ、と一言。幼い翔太の脳にそれは入り込んだ。こうして今では立派な店主だ。鍵のプロフェッショナル。鍵をいじくるだけのつまらない日々を繰り返す、いわば錠前の奴隷。祖父の思い通りに翔太は育った。敷かれたレールからの脱線事故を起こすことなく走る人生に不満はないが、時折おにぎりに思いを馳せている。錠前よ、なぜ俺の人生に付きまとうのか。
「仕方がないですね」
坂口は駄々っ子を見る目で翔太を見た。不快感が翔太の体を伝う。さっさと帰ってほしい。翔太の願いはただそれだけだった。そもそもなぜ坂口という生き物はこんなにも存在する座標がずれているのであろうか。お前がすべき目つきはそれではないぞ。翔太は坂口の持つ違和感にもてあそばれていた。
「ではまた後日伺いますので」
「待て、なぜそうなるのか俺にはわからん」
「採用は親交を深めてからでも遅くありませんでしょう?僕は逃げも隠れもいたしませんので」
どうしても坂口と翔太は交わる運命にあるのだろうか。この人口増加の最中の地球で、わざわざ坂口と関わらなくてもいいではないか。翔太は確率と時の運について思いを馳せた。坂口よ、なぜ俺の人生に付きまとうのか。
「今度は僕がお菓子を持ってきますよ。米田さん、ご厚意をありがとうございました。それでは、失礼しますね」
坂口という台風はあっという間に去っていった。翔太が口を開く隙もなかった。荒らすだけ荒らして台風は去る。保険は効かない。米田の名を覚えていたあたり、坂口は米田を気に入ったのだろうと翔太は考えた。それか、少しだけ優れているらしい記憶力が成す技か。
呆然とする翔太の耳に米田の鼻歌が入ってきた。機嫌がいい時に歌うラブ・ソング。数年前の曲だ。米田のプレイリストは年を重ねるごとに更新されていく。更新内容は流行とはかけ離れている場合もあるし、時代の最先端を行く場合もある。聞いたこともないような古い曲であったり、それがどこかの地方の民謡である場合だってあった。ああ困った、とても困った。米田は坂口にいいツボを押してもらったらしい。いきいきとしている。なんだかフレッシュだ。それに反比例して翔太はしなしなと枯れて行末を案じていた。
結果、夜になっても眠れなかった翔太は久々に酒を煽った。今日の出来事を酒と一緒に飲み込んで、代わりに大きく息をはいて、そしていつしか眠りこんでいた。気がつけばいつものアラーム音に起こされた。
「だから帰ってくれ」
坂口の言う後日、とは翌日と同義だった。昨日と変わらぬ店内。昨日と変わらぬ坂口。丸い目を余すことなく開いて坂口は翔太を見る。数年単位で会っていなかったかのように見る。昨日会ったばかりだというのに。手にぶら下げている紙袋からはいい匂いがしていた。米田は坂口に気がつくや否やすばやく彼に近づいた。化学反応でも起こしそうなので間に翔太が入る。「おお、また来たのかい」と米田は翔太の背中を叩きながら言う。「先日はどうも」と坂口が口角を上げる。お互いぺこりと頭を下げる。一連の流れは取引先とのやりとりと似ている。
「その怪しいブツは何なんだ一体」
「マフィンです」
翔太は警戒するあまり、一瞬マフィンとマフィアを聞き間違えた。心の中でそんな紛らわしいものを作るなと理不尽な悪態をつく。紙袋をがさがさ言わせると、坂口が袋に包まれたマフィンを取り出す。手作りの風格を醸し出すそれはいい匂いを振り撒いていた。まばたきもせず坂口は翔太をマフィン片手にじっくり見る。獲物を持ってきた猫のようだった。それを褒めるような翔太ではない。
「ご厚意はお返ししないと。そうやって世界に優しさは循環している」
「……お返ししなくていいから帰れ」
大学教授みたいな坂口の言い方に翔太は一瞬惑わされそうになった。ビニール袋の音に気がつけば米田がもう坂口のご厚意をむしゃむしゃ食べているではないか。
「こりゃあうまいなあ。あんたが作ったのかい」
「ええ。時間が売るほど余っていたので」
このほのぼのとした空気に流される翔太ではない。一回頭をリセットしようと綺麗にされた自動ドアを見た。それがいけなかった。
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