第3話 箱の鍵を開ける
「君、随分と図太いね」
坂口はスマートな動きで傾いた眼鏡を直すと「ありがとうございます」と頭を下げた。せっかく直した眼鏡がまたずれる。礼はきっかり四十五度。そういうところだぞ。翔太は坂口のおでこを睨んだ。なかなか頭を上げないので翔太の腹立たしさと不信感は彼に伝わらなかった。
「……名前」
「坂口凪です」
「違う。君、なんで俺の名前知ってたんだ?変な奴が立ってると思ったら……。まさかこんなことになるなんて思わなかった。これからは立ちすくんでいる人に声をかけるのはやめておく。ろくなことにならない」
顔を上げて翔太を見つめ賢明な判断ですね、と坂口が無関係かのように言ったところで菓子が文字通り山のように盛られた皿が登場した。四十五度の感謝を米田に見せると彼はマシュマロとラムネを同時に口に放り込む。坂口が菓子を取ったことで薄いピンクの皿が顔を出した。菓子も皿もなんだかファンシーな、年頃の少女みたいなセンスである。
無表情で咀嚼する坂口の顔を見て、翔太は闘牛の気持ちがわかった気がした。あれは赤いものに牛が反応しているのだと思われがちだが、実際は布が目の前で鬱陶しくひらひらしていることに対して反応している。そうバラエティ番組で見たのが翔太の記憶の底にあった。目の前でひらひらと邪魔な布を揺らされたら牛だって怒る。人間も怒るのではないだろうか。坂口青年はひらりひらりとこちらを翻弄する布であった。
数秒の静寂の間に坂口はスマートフォンを取り出していた。汚れどころか指紋一つすらついていない。指紋がないんです、と言われても相手が坂口なら納得してしまいそうだ。
「これを見たんです。仲村錠前店のホームページとブログ」
「……ああ、うん、それね。知ってる」
翔太の目は勝手に泳ぎ出した。言葉を適当に脳内から引っ張り出して会話を繋ぐ。不自然な翔太の言い方に、坂口は「そうですか。僕もです」と言うだけだった。
ホームページもブログも、全部翔太が書いている。ということになっている。だから知っている、なんて表現は変だ。知っている、という言い方をしたのは、翔太はホームページを自分の手で更新していないからである。
では誰があまり観覧数の伸びないページを更新しているのかという謎が生まれる。その謎の答えは米田にある。本来パソコンなんかのコンピュータというものは、多くの場合老人にとって使うのは難しいものであるが、米田がなんとなく触っていただけでできてしまった。できたものはできてしまったのだから仕方がない、と彼女は言う。だからホームページやブログの更新は米田の担当になっており、彼女が自身を雑用担当と自称する所以でもある。
元々は翔太がデジタルなものを担当する予定だった。しかし彼には欠陥があった。国語がどうにもこうにもできないのだ。文章から気持ちは読み取れないし、学生時代、テストで答えは抜き出せなかったし、さらに言えば言葉を繋げ文章にすることもままならない。出来上がるのは、いつも小学生の作文。もしくは報告書。
翔太には物書きの心情どころか日常をインターネット上で呟くサラリーマンの心情も理解できない。例えば、歩くという動作を書きたいとする。翔太は単に歩く、と書くのだが、国語というのはひねくれたものが評価されるものなので美しくないような気がするのだ。
これは翔太の持論だ。だが、本人はあながち間違いではないと思っている。世にいる作家たちが見ている世界での人間は、「爽やかな風が駆け抜ける道を」「新しい靴の鳴らすじゃりじゃりという音を聞きながら」「体が勝手に跳ねるくらい上機嫌で」歩く。単純に歩く、だけでいいじゃないかと考えそれを信じ切って書くとする。すると出来上がるのは「私は今日歩いた」という、つまらなすぎて読んでいるだけで思考が別のことへ飛んでいってしまって、挙げ句の果てにブラウザを閉じてお手洗いに行ってしまう、そんな文章。
それが嫌で仕方がない翔太はなんとなくの思いつきで、あるいは少しの希望を求めて米田にパソコンをいじらせた。それが成功してしまったので米田はパソコン担当になってしまった。
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