第2話 箱の鍵を開ける

「それで、君は坂口くんというの」

「ええ。坂道のさかに、憎まれ口のぐち、で坂口。減らず口、の口でもいいですね」

 客のために使われるはずの歴史を感じる椅子には青年が座っている。その木製の椅子とプラスチックの机の組み合わせは奇妙だ。彼の指が坂口、という文字を描く。坂口は常連客であるかのように自然に溶け込んでいた。坂口は変な人間であり、言い方を変えると特徴的。だから、壁や棚なんかの背景とは違って輪郭を持っている。けれども極めて自然に、さもいるのが当然だというくらいのちょうどいい塩梅で輪郭はぼやけ馴染んでいた。翔太にとっては馴染まれては困る。先ほどからじろじろと自分を見つめては考え込むそぶりをする坂口をこの店に溶け込ませたくなかった。どうしても得体の知れない生き物を見る気分になってしまうのだ。失礼だとは思っても、なんだか脳が本能で坂口を拒んでいるように感じる。そんな不可思議な人物が坂口という男である。

「あい、お茶ですよ。あんた、茶菓子はいるんか」

「え、ああ、ありがとう米田さん」

 米田とは翔太が中学生の頃からいる経理担当だ。別名、雑用担当。歳はおばさんとおばあさんの間くらいの六十代に見えるがどうにも納得のいかないところがある。翔太が中学生の頃から見た目が変わっていないのだ。つまるところ年齢不詳なのである。歳を聞いてもうまくはぐらかされてしまう。翔太としては悔しい限りだ。ちょろい自分が情けない。翔太は米田には永遠にかなわないのだ。

「ありがとうはいいけどね、翔太、あんた菓子はいるんかって聞いてるんだよ」

 米田は自身の腰を叩く。そして翔太の背中も叩いた。容赦の二文字はそこにない。衝撃が背中から主張をしてくる。痛い、と抗議するのは無駄なことだと翔太は知っている。彼女は翔太のことをいつも子供のように扱うのだ。それに対して翔太は悪く思うこともなく、だから言って素晴らしいことだと思っているわけでもない。それが当たり前だから印象も何もないのである。

 彼女の翔太に対する振る舞いは、長年変わらない老舗の味みたいな落ち着きすらある。別にそれが特段素晴らしいわけではないのだが、なんだかくつろぎを感じるのでこれでいいやと思っている。そんな落ち着きだ。

「大丈夫、大丈夫だから。俺がなんとかやっとくから米田さんは奥行ってて」

 米田を押し返していると、うねった髪が翔太の視界の端で揺れた。嫌な予感とやらが翔太を襲う。

「もらえるんですか。お菓子」

「ああいいとも。ちょっと待っててねえ、すぐ持ってくるから」

 店の奥へと米田は素早く消えていった。歩く速さは翔太よりも速い。米田はいつも速い。生き急いでいるとか焦っているとかではなく、自分を試していると彼女は言う。どうやらサッカーを嗜んでいた時の自分が急かしてくるらしい。翔太にはもう何が何だかわからない。

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