鍵を

奥谷ゆずこ

第1話 箱の鍵を開ける

 青年が立っている。佇む、というべきか突っ立つ、というべきか。不思議な様子だった。その目が見つめているのは仲村錠前店と書かれた安っぽい看板なのか、はたまたその上にあるアパートなのか。とにかく自動ドアという概念を知らないかのようにじいっと立っている。絶妙な位置にいるのでドアが開くことはない。それも計算済みですよ、みたいな顔をして青年はただ斜め上を見つめている。店主にとっては気味が悪くて仕方がない。お化けやら幽霊やらの類だろうかと疑った。幽霊の正体見たり、眼鏡の青年。

 青年が動きを見せたと思えば、眼鏡を直しただけだった。動いたことに驚いた店主はそのことが気になってしまい棚に足をぶつけた。店内での不運な出来事に青年は気がつかなかった。レトロな白い乗用車がタイヤをからから言わせながら走り去っても風が吹こうとも迷惑そうな目つきでおじさんが迂回しようとも動かない。

 何があっても青年が動くことはなかった。ただひたすらに斜め上を凝視するだけなのだ。どこか呆けているような、見とれているような、そんな様子。青年に何がどう見えているのか店主にはわからない。

 五分。十分。二十分。三十分たっても青年は店の前に立っていた。しびれを切らした店主が近づいて声をかける。錠前店の店主という肩書きに似合わないまだ若々しい声に青年はすぐに反応した。ぱかりと彼の口が開かれる。青年の背が小さいのもあって、店主には白い歯が奥まで見えた。こうやって口を開いてぱくりと人間を飲み込んでしまう怪物がどこかにいそうだ。

「仲村翔太さん」

 はっきりと青年はそう言った。名前を噛みしめるように何度か彼は頷く。店主の翔太は後悔した。全てを置いて逃げ出したくなった。翔太はびびりだが、それにしてもこの男は恐ろしいと感じた。なぜ、名前を知っている?背中にぞぞぞと冷たいものが伝う。青年の何もかもが奇怪に見えた。棒でも背中に入れているのかと疑いたくなるくらいにピンとした背筋も、うねった髪も全部幽霊みたいな怖さがあった。もういっそのこと落ち武者みたいなこの世ならざる者のような出で立ちをしていてほしかった。清潔感のある現代的な青いシャツ。普通の青年に見える。けれど、割り切れない恐ろしさが彼にはある。自分が介入できない怖さ。目を逸らしたいが逸らしては祟られそうだ。薄く開けた口からなんとか翔太が絞り出した言葉は「通報するぞ」だった。掠れた声だった。人間は未知と対峙した時、思うように動けないものなのだなとぼんやり考える。現実からの思考的逃避行。それはすぐに終わった。

「雇ってください」

 青年が革製の高そうな鞄から紙を取り出す。時期に合った春らしい空色。意志の強そうなうねり髪がいとも簡単に風に流されている。呪いの紙かコックリさんの紙か、と身構えたがどうやら履歴書のようだった。坂口凪。髪と一緒でクセの強い文字が並んでいる。履歴書を突きつけられている状況はまるで仲村錠前店に捜索令状が出されたみたいだ。翔太はどうか誰も見ていませんようにと祈った。青年は真面目な顔をしている。祈りが通じたかはわからない。そもそも何に祈っているかもわからない。

「こんなところでは履歴書が風にさらわれてしまいますから。とりあえず中に入ったらどうでしょうか」

 よく通る声。青年が自動ドアに近づく。ドアはシステム通りに開いた。自動ドアという概念は持っているらしかった。翔太が入らないのを不思議そうに丸い目が見ている。履歴書を綺麗に四つ折りにしながら、目線は店内と翔太を行ったり来たり。「君が言うのはおかしいだろ」と言う翔太のため息は春の風にかき消された。

 建ち並ぶアパートも、春の陽気もいつもと変わらないのに、青年の来訪によって翔太にはなんだか景色が全ておかしく見えるようになった。コントラストや彩度を誰かがいじってしまったのだろうか。退屈を好む翔太は、静かに訪れようとしている小さな非日常に深く息を吐いた。

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