第三十五話 大島という男

 スケキヨは目の前の修羅場に呆然としながら、ふと過去の出来事を思い出していた。


 あの時、彼の理性が挫けなかったのは、彼が教師としての使命感を持っていたからだ。

 さらに三葉という存在が心の支えになっていたことも大きい。ここで手を出したら教師生命どころか彼女からの信頼もなくなり、夫婦の関係も破綻するというまともな考えが大島にはあったのだ。


 そして……目の前にいる彩子に対しても

「彼女をなんとかしなければいけない」

 その思いが、彩子に手を出させなかったのかもしれない。


 だが、そこからの経緯を知る者は、大島と彩子の二人だけだった。


 だからこそ、事実は簡単に歪められ、噂話となって広がってしまう。


 現在の修羅場の中で、彩子が口を開いた。


「……大島先生だけは、私の誘惑に乗らなかった」


 その一言で場が静まり返る。重い沈黙の中、彩子がさらに語り始めた。


「先生はずっと私の話を聞いてくれた。そして……私の異変に気づいて、病院に行くように言われたんです」


 彩子の声は震えていた。


「子供の頃から、私はずっと父から……暴力を受けていました。母も同じでした。母もまた、暴力と暴言を父から受けて、そのストレスを私に向けていたんです……私にはあの家にいて逃げ場はなかった」


 場の空気が一層重くなる中、彩子は自分の腕をギュッと掴みながら続けた。


「作品を作っている間だけが、無心になれる唯一の時間でした。作品を作って賞を取れば親は喜ぶ。さすがあの芸術家の娘と。でも……気に入らないとすぐ……」


 涙を堪えながら語る彩子に、周囲は何も言えなかった。

 彼女の言葉の裏にある長年の苦しみを、誰も軽々しく口にすることはできなかったからだ。


 彩子は深く息を吸い、絞り出すように言った。


「でも……大島先生のおかげで気づけたんです。実家からは出ましたが……あの人たちはもう変わらない。変えれない。病院に通って、私はうつ病やいろんな精神病、そしてセックス依存症ってわかって治療も初めて……少しずつですけど、自分を取り戻せてきました」


 スケキヨは彩子がそう語ってくれたことにほっとした。


「大島先生は私を救ってくれた。……高校生でないのに、大の大人がこんなんでアレですけど……あ、今度両親は離婚しますし……かと言って私はどちらの元に行くわけでもありません……これから私、自分の力で生きていきます」


 彩子が涙を流しながらそう言った瞬間、場にいた誰もが胸を締め付けられるような感覚に襲われた。


「大島先生は生徒指導員もやっていた時期も長い。心理学や家庭環境にまつわる心理学の分野も長けています……さすがです、大島先生!」

 湊音がそういうと周りが拍手をする。


 大島の行動が彼女をどれだけ救ったのか、そしてその背後に隠された彩子の苦悩を、誰もが初めて理解した瞬間だった。



「でも事故の時にかわいいねーちゃん……ああ、あれは彩子先生だったか」

「……はい……」

 彩子と大島が事故の夜に一緒にいた理由が話題に上がると、彩子はうつむきながら説明を始めた。


「実は……精神科への通院の経過を、大島先生に定期的に報告していたんです。それで、その日も相談というか……」


 その言葉に、三葉は少し首をかしげた。

「定期的に? それって、どういうこと?」


 スケキヨはギクッとして冷や汗を流した。確かにそれは事実で、お酒は飲まなかったが彩子を部屋に呼んで夜遅くまで一緒にいたことが度々あった。

 もちろん何もしなかった。が、それを証明することができない。

 またこの場の空気が淀んできたことにスケキヨはどうすることもできない。


「……」


 三葉はその言葉に微妙な表情を浮かべる。

「流石に定期的に……夜……ねぇ」

 倫典も湊音も男性陣もフォローできない。


 彩子は

「私も、大島先生には……男性として見てたわけじゃなくて、どちらかと言えば、お兄さんのような存在でした。心から頼れる人って、そういう感じだったんです。それに私ばかり話してたら昔妹さんの話ばかり聞いてたのを覚えてて私のこと、妹みたいで懐かしいやってたまに泣いてたこともありました……」


 三葉は何か言いたそうだが……。

「そう……妹のよう……」

「本当に何もしてません。体を触ることもされていませんし、もちろん私も触っていません……」


 スケキヨはホントだにゃー! だと言わんばかりにニャーっと鳴いた。

「スケキヨ、スケキヨどうした!」


 だが伝わらないもどかしさ。


「……本当……男の人よりも兄としか見られなくなって……だったらもう夜に会わなくても良かったのに。あの日も私の帰りを人のいる駅まで送って見送って……したらば帰りに……」

 彩子はまた泣き出した。



「ああ、その帰りか」

 房江が彩子の肩を叩き、スケキヨを指差した。

「……その帰りに、そのスケキヨがお腹にいた母猫を大島先生が助けてくれた。じゃなかったら助からなかったしスケキヨもいなかったのよ」

「えっ……」

 すると川本さんがこう言った。

「ほんとなぁ、優しい人だなぁ。優しさゆえに誤解されやすい……三葉さん、色々とあれかと思うがわさは何もしとらんと思うよ」

 三葉はその言葉にまだ信じられなかった。


「そうね、そういうやましいことしてたらうちらから逃げるかもだし、あんなに重い排水溝の蓋上げられるほどのパワー残らんわなーほほほ」

 房江はそうフォローした。あんなに最初は怒ってはいたが。


「そうですよ、三葉さん……大島さんの事信じましょうよ」

倫典も加わり、湊音もうなづいた。

「ニャー!」

 スケキヨも声を上げたが……三葉は首を横に振った。


「ごめんなさい、今日はこれで失礼します。こちらはいつも通り処分でお願いします。いつもボランティア……ありがとうございます。倫典くん、車出して」

 三葉は深々と頭を下げて倫典は足早にさっていく彼女を追って行った。

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