第三十四話 夜に二人きり

「彩子先生……? 何してんだよ、こんな時間に……」


 大島は動揺を隠せず、思わず眉をひそめた。

 彼女は社員寮でなく近くのマンションから通っているのを知っている。父親名義の。


「ちょっとお話がしたくて……ついでにこれ、差し入れです」


 彩子は、手に持っていた小さな袋を差し出した。中には、缶ビールとおつまみらしいものが入っている。


「いや、ここは職員寮だぞ。差し入れとかそういうのは……それに……てかどうやって入ってきたんだ?」


独身寮にはそう簡単には出入りはできない。ここは男性教諭のみの棟であり、入口には看守はいるのだが正直セキュリティは女子寮のみ厳しくて男子寮はそうでもないのが暗黙の了解で女性を連れ込む(彼女とは限らない……)男性教諭も多いのは正直事実である。(女性教諭は大抵連れ込まず相手の方に行くことが多いとか)


「普通に誰でも入れましたし。とりあえず……今日話を聞いてくれたお礼です」


 彩子はそう言って微笑み、買い物袋をさらに差し出した。


 大島は、彼女のその笑顔を見ながら一瞬躊躇したが、廊下でのやり取りを長引かせるのもまずいと思い、

「まあ、少しだけな」

 と言って彼女を部屋に入れることにした。


「ここで話すのもなんだしな」


 彩子は

「失礼します」

 と言いながら部屋に入った。

 質素で実用的な独身寮の一室に、彩子の雰囲気はどこか場違いに見えた。それよりも妻でさえもあげたことがない……この部屋にと大島は思ったが……。


「お礼って言っても、ただ話を聞いただけだろ?」

 大島が椅子を勧めながら言うと、彩子は袋から缶ビールを取り出して笑った。


「そうなんですけど、私、あまりああいう風に真剣に聞いてもらうことってなくて……本当に嬉しかったんです」


 その言葉には大島はどこか腑に落ちないものを感じる。


「でもな、俺は明日試合があるんだ。ビールはちょっと……」


 そう言いかけると、彩子は待ってましたと言わんばかりに、袋の底からノンアルコールの缶を取り出して見せた。


「大島先生ならそう言うと思って、ちゃんと用意しました」


「おいおい、用意周到だな……」


 大島は苦笑いしながら缶を受け取り、椅子に腰掛けた。


 一方、彩子も正面の椅子に腰を下ろし、落ち着いた様子で缶ビールのプルタブを引く。


「ここに来てから、正直、大変だったんです……」


 大島は彼女の言葉を聞き頷いた。


「数人の先生から、と言われて……『噂を聞いたぞ』とか、『そういうのが好きなんだろ』とか……」


 彩子の言葉に、部屋の空気が重くなる。大島は眉間に皺を寄せながら、それでも口を挟まずに彼女の話を続けさせた。


「最初はプチ飲み会、って誘われて行っただけだったんです。でも、何だかんだで飲まされて……気がついたら、そういう関係に」


 彩子は視線を缶に落とし、指でラベルをなぞるように触れている。表情は次第に暗くなっていく。


「どうせ噂通りの女なんだろって。私も悪いのは分かってる。でも……断るのが怖くて」


 大島は今日上がってた教師たちの名前を思い出し、たまたま置いてあった教員ノートに名前を書き殴った。このやろうと思いながらノンアルを飲んでいく。


「湊音先生は違うんです。ただ彼がベロンベロンに酔っ払ってしまっただけで……。むしろ、彼は後で何度も謝ってくれました」


 大島はなんとなくその湊音の姿を想像でき、つい笑ってしまった。


 しかし彩子の声が震える。


「でも湊音先生以外の人たちは……生徒や保護者にお前の過去をばらしてもいいんだぞって……脅されました」


 大島の顔が険しくなる。そのような卑劣な行為が、同僚であるはずの教師の中で行われていたとは思いもしなかった。


 彩子の涙が止まらない。

 大島はティッシュを取り出し、彼女に手渡した。溢れ出る涙。机にこぼれ落ちる。


「どうすればいいんですか……」


 小さく震える声が胸元に伝わる。大島は思わず背筋を伸ばし、冷静を保とうと努めた。


 吐息混じりの声が彼の耳元に届く。その姿は、彼女が意図的に「弱さ」を武器にしているようにも見えた。


 これが彩子のやり方なのかもしれない……

大島の頭の中に、さっきまで彼女が話していた言葉が蘇る。


「悩みがある」と訴え、飲みの席で泣き崩れ、やがて相手を情に訴えて弱らせる。そこから一気に関係を持ち込む――。

 

 彼女の行動には、一見すれば計算や策略のようなものが透けて見える。だが、それ以上に感じられるのは、壊れた心だ。


 なぜ彼女はここまでしてしまうのか?

 大島は頭を抱える。前の学校での人間関係の崩壊、男性教師たちとのトラブル。そして今、この学校でも再び同じ道を歩もうとしている。


 これは単なる誘惑ではない。心のどこかが傷つき、何かを埋め合わせようとする彼女なりの必死の方法なのだろう――。


「……彩子先生」


 大島は彩子の肩に手を置く。だが、彼女の体温がその手に伝わると、無意識に手を離したくなる衝動に駆られた。


 彩子は涙を拭いながら、かすかな笑みを浮かべた。


「大島先生……」

 彩子の甘い声が大島の理性をくすぐるが、グッと堪えた。


「彩子先生、今日は帰りなさい」

 大島は財布にあったありったけの金を渡した。


 そんなにも寒くないのにウインドブレーカーを着させてチャックを締めた。


「タバコ臭いがすまん。もうそんなことをして自分を下げるな」

 彩子はボロボロと泣く。


「……関係を持ったやつらには俺が説教してやる。彩子先生がいくら誘惑したかと言っても欲を抑えない奴らが悪い。湊音先生にも改めて言う。そして……彩子先生、病院行くんだ。精神科に!」


 大島は思い出した。上司から聞いた話では過去に売春をしていた女子生徒が同級生何人かとも関係を持っていて、話を聞いたら家庭環境が悪く、両親が家庭内別居、父親が母親にモラハラ、その母親がネグレクト、ネグレクトの影響で暴力的になった兄からの暴力に悩まされていたことが露呈した。

 それらの影響もあって生徒は精神科に連れて行ったのだが最後は自ら死んでしまったと。


「……今日は帰ります……すいませんでした」

 彩子はウインドウブレイカーを脱ぎ、去っていった。


 大島は彼女が部屋から出て行き、体がグタン、と膝から落ちた。

「危なかったー!!!」

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