第三十二話 彩子先生の過去
これは、大島が亡くなる一年前の出来事だった。大島が三葉と結婚したばかりであった。
ある日、学園長室から校長、教頭、生徒指導主任が揃って出てくるのを見た大島は、その異様な雰囲気に興味を惹かれ、授業を終えた湊音を喫煙所に呼び出した。
「今、教頭たちが学園長の部屋に集まってたが、何か知ってるか?」
と大島が切り出す。
湊音は少し驚いた様子で、
「えっ……新しい先生が来るって聞きましたけど、それも噂レベルで」
と、曖昧に答えた。
「又聞きでもいい。知ってることは全部話せ」
湊音はため息をつき、
「なんで僕が、地位が上のあなたが知らないことを知ってるんですかね……」
と半ば呆れたように返しながら、口に挟んだ次のタバコに火をつけた。
大島は生徒や保護者からの評判は良いものの、職員室の上層部である校長や教頭とはあまり折り合いが良くなかった。
授業と剣道に情熱を注ぐ一方で、職員同士の関わりに興味が薄く、特に上層部の人間とは距離を置いていた。そんな大島にとって、唯一気軽に話せる相手が湊音だった。
「校長や教頭、生徒指導長が同時に学園長室に集まってるのは珍しいだろ?」
と、大島は煙草を指で弾きながら視線を外に向けた。
湊音はしばらく沈黙した後、
「どうやら若い美術教師が赴任するらしいんですが、少し訳ありのようで」
と言葉を選びながら答えた。
「若い女教師? 訳あり?」
と大島は声を上げ、湊音が「シーッ」と慌てて指を立てた。
「県外の高校で働いていたらしいんですが、数人の男性教師との間で問題があったみたいで、その共通点がその教師だとか」
「まじか……穴兄弟の教師同士で揉め事か」
「言い方なんとかしてください……まぁ、そんな感じらしいですけど。どうやら彼女の父親が有名な芸術家らしく、学園長の家族とも親しい間柄だとか。そんな縁もあって、ここに赴任することになったみたいです」
コネが絡む話に眉をひそめる大島に、湊音は
「彼女自身も美術展で何度も賞を取ってるらしいです。美術教師としては腕が良いらしく、評価も高いようです」
と、スマホで彼女の作品を見せた。かなり抽象的であるが色使いの絵や作品が。大島と湊音には細かいことは上手く言えないがある意味素晴らしい作品であると言うのはわかるようだ。
「意外と詳しいんだな」
「まぁ、僕の指導の下に付くらしいんで調べました。名前で検索しまして……ちなみに彼女の作品は県展でも入賞していて、国際的なコンテストにも選ばれたことがあるらしいですよ」
湊音が語る「県展」や「国際美術コンテスト」での受賞歴にふーんと思う大島だった。
喫煙所を出た大島と湊音。そのタイミングを見計らったかのように校長と教頭が二人に近づいてきた。湊音が話していた噂が事実であるかのように、新任の女性教師についての説明が始まった。
「彼女とは業務上、可能な限り二人きりにならないこと。連絡は学校から支給されている記録の残る携帯電話のみを使用し、私的な内容は一切禁止。さらに、電話番号も職場用のもの以外は教えないように」
と念を押す校長。
その説明の間、校長がやたらと大島の方を見てくるため、大島は不機嫌そうに口を開いた。
「何を言ってるんですか。俺には妻がいますし、子供を作るために真剣に計画中ですけどね」
と、校長を鋭く睨みつける。
隣にいた湊音が、
「よしなよ」
とばかりに大島の肩を軽く押さえた。
確かに大島は、過去にやんちゃな時代があり、それが校長たちに目をつけられる一因になっている。
しかし、このような露骨な言い方をされれば反発するのも無理はなかった。
大島に食ってかかられた校長はため息をつきながら、
「ほかの男性教員も同じように気をつけてください」
と、職員室全体に向けて声を張り上げた。
「これでいいだろ」
「最初っからそうしろよ、ったく」
こうして大島と校長の間の溝は、さらに深まったようだった。
二日後、新任の女性教師が職員室に姿を現した。学園長の紹介を受けて朝礼で挨拶をする。
「館彩子と申します。この地域には正直土地勘がなく、皆様にはご迷惑をおかけするかもしれませんが、一生懸命頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします」
普通の声量、普通の挨拶、普通の身なり――ロングの黒髪にパステル調のカーディガン、ベージュのチノパン。
メイクも控えめで、大島たちが聞かされていた男を誘惑し人間関係をかき乱すような噂にまつわる印象は、彼女の姿からは微塵も感じられなかった。
男性教師陣も特に反応はない様子で朝礼はそつなく終わった。
その後、彩子は学園長とともに大島と湊音の担当する二年生グループにやってきた。大島の隣の空席が彼女の席になるらしい。
彩子は一人一人に深々と頭を下げた後、大島をじっと見つめた。その目は大きく澄んでいて、大島は思わずドキッとした。しかし、すぐに
「やっぱり三葉には敵わないな」
と、勝手に妻と比較しながら視線をそらした。
近くのベテラン女性教師・久保が話しかけた。
「彩子先生、この学校の歓迎会は年に一回しかやらないんだけど、ごめんなさいね」
久保の言葉に、彩子はにっこりと微笑みながら答えた。
「いえ、大丈夫です。こうして温かく迎えていただけるだけで十分ですし、私、お酒が苦手なんです。それに、仕事以外の時間は作品作りに充てたいので」
久保は微妙な表情を浮かべ、じっと彩子を観察するように見ていた。その目つきには、どこか疑念の色が含まれているのは明らかだった。
そして案の定、数ヶ月後には職員室の中の様子がおかしい……大島は気づいた。
男性教員が特に数人。
湊音の様子もそわそわモゾモゾ何か違和感を感じ、喫煙所で問いただした。
「……彩子先生の噂マジみたい」
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