第四章 猫も家族です

第十八話 病院

「スケキヨ! スケキヨ!」

 その声に応じて、スケキヨはゆっくりと目を開けた。まるで深い眠りから覚めたような顔をしている。


 目の前には泣きじゃくってメイクが崩れた三葉が、スケキヨを心配そうに見つめていた。

「よかった……無事で本当によかった……」

 スケキヨは、彼女の顔を見上げながら、ここがどこなのかを確かめようとキョロキョロと辺りを見渡した。


「これだけ元気に動けるなら大丈夫でしょう。念のため、キャットフードに混ぜる薬を出しておきますね。必ずキャットフードに混ぜて、ねこねこゼリーには入れないでください」

 白衣を着た獣医師が説明する隣で、ナース服の女性が注意事項の資料をまとめている。その様子を見たスケキヨはすぐに、ここがいつも通っている動物病院だと理解した。

『俺は、寝てたのか?! また死んだかと思ったわー』

 病院の診察室は清潔で、明るい蛍光灯の光が白い壁に反射していた。

 診察台の上でスケキヨはまだ少しだるさを感じながらも、少しずつ元気を取り戻していた。かすかに漂う消毒液の匂いは剣道でよくケガをしていたから慣れ親しんではいるがやはり好きではない。


「痙攣も起こしていたから心配したけど、すぐに連れてきてよかったな」

 みんな安堵の表情でスケキヨを見つめている。待合室には、湊音と倫典も心配そうに様子を伺っていた。


「スケキヨ、大丈夫か?」

 と倫典が声をかけた。

「どうやら消化不良だったみたい。それと、急に人が集まってストレスがかかったんじゃないかって」

 三葉が獣医師の話を伝える。


『人が集まってストレス? そんなはずないけどな……』

 スケキヨは首をかしげる。

 実際、皆が集まっていた時間は楽しかったはずだ。

 それでも、思い出すのはあの場での突然の暴露。あの話が、自分に思った以上に影響を与えていたのかもしれない……と振り返るスケキヨ。


 それはさておき、とスケキヨは三葉に抱かれながら彼女の体温と、早くなった心音を感じ取る。彼女の胸に顔を擦り付けると、三葉はさらに強く抱きしめてくれた。

『申し訳ない……』

 と、心の中でそっとつぶやく。


「倫典くん、湊音くん、こんな時間に付き添ってくれて本当にありがとう」

「いえ、三葉さんの大事な家族ですから」

 倫典のその言葉に三葉が微笑む。

「家族……」


「家族」という言葉に、スケキヨの心が揺さぶられた。倫典にしては珍しく気の利いた言葉を言うもんだ、と内心感心する。


「へへ、僕のポイント上がったかな?」

 どうやら倫典は下心ありで言ったようだ、とスケキヨは薄目で彼を見た。

「一歩リードね」

 と三葉が笑う。


『まぁ、確かに車を出してくれたしな……吐いたゲボも手際よく処理してくれたし』

 感謝せざるを得ないスケキヨだったが、それだけで倫典を評価してはいけないと、自分に言い聞かせる。

 ふと三葉の方を見ると、彼女は先ほどよりもずっと穏やかな笑顔を浮かべている。それだけでもホッとする。


「じゃあ、ご飯会のときスケキヨはいない方がいいんじゃない?」

 と湊音が口を開いた。

「あ、そうよね……」

 と三葉も考え込む。


『いや、それだけはダメだ!』

 スケキヨは必死に首を振るが、誰にも伝わらない。

 もし今回の体調不良が、人間が多すぎてのストレスなら、我慢するしかない……いや、絶対に我慢する、と心に決める! とスケキヨは必死だ。


「でもスケキヨも家族だし、倉田さんがどうスケキヨと接するかも重要じゃない?」

 倫典が思わぬフォローをしてくれる。


『お、いいぞ倫典!』

 とスケキヨは心の中で彼を褒め称えたが、他の二人は

「やめたほうがいいかも……」

 と消極的だった。


「……でもお薬ももらったし、もう遅いし、今からお店探すのも大変だし」

「まぁ、そうですね。何かあったら僕が対処しますよ!」

 と、倫典が親指を立てる。

「またポイント稼ぐつもりだろ」

 湊音が冷たく言う。

「いや、その、そういうわけじゃないけどさぁ!」

 と倫典は慌てて弁解する。


 三葉はそんな倫典と湊音のやり取りを見て、思わず笑みを浮かべた。

 少し前まで泣いていた彼女が、今は笑っている――それがスケキヨには何より嬉しかった。確かに倫典は少しお調子者でバカなところもあるが、今のところ彼の方が優勢かもしれない、とスケキヨは思った。


「ありがとう、倫典くん。本当に助かったわ。スケキヨも元気そうで良かった」

 三葉はスケキヨを抱き直し、優しく頭を撫でた。

 スケキヨは心地よさそうに目を細める。少しだけ安堵するが、まだ油断はできない。次のご飯会では、自分がしっかりと見張っておかなくてはならない――特に倫典が余計なことを言わないように。


「それじゃあ、スケキヨの薬ももらったし、帰ろうか。三葉さんも、もう遅いし疲れてるでしょう?」

 湊音が提案すると、三葉は頷いた。


「そうね、ありがとう。今日は本当にお世話になっちゃって……スケキヨも、しばらくは大事を取っておかないとね」


 病院の外に出ると、夜風が少し冷たく感じられたが、三葉のそばでスケキヨは安心したように小さく喉を鳴らしていた。


「ねぇ、倫典くん」

「はい、なんですか?」

 と倫典が嬉しそうに返事をする。



「今日は本当にありがとう。あなたたちがいてくれて心強かったわ」

 三葉がそう言うと、倫典は一瞬照れくさそうにした後、真剣な表情で頷いた。

「僕は、いつでも三葉さんの味方ですから!」


 スケキヨも心の中で苦笑しながら

『まぁ、こいつなりに頑張ってるんだな』

と思った。


 そして、三葉がふと空を見上げると、外も薄暗くなってきた。



 大島は頭の中で考えがぐるぐると回り始めた。


『今回は大事に至らなかったけど……もし重篤な症状でが 死んだら、俺はどうなるんだろう? スケキヨとして存在できなくなったら、俺の意識はどこに行く? そのまま消えてしまうのか、それとも元の姿に戻るのか?』


 スケキヨの身体を借りている今の状況が、永遠に続くとは限らない――そんな不安が心の奥からじわじわと湧き上がってきた。スケキヨという猫の存在に依存している自分が、あまりにも脆いものだと痛感する。

 今は、三葉に抱かれて安心しているスケキヨは彼女の体温を感じているが、どこか心が浮ついていた。


『もし、このまま終わってしまったら……俺は、また何もできずに消えていくのか?』

 思わずスケキヨは三葉の方を見た。彼女の無邪気な笑顔は、今の自分には何か遠い存在のように感じられた。スケキヨとして三葉を守ることができたが、大島としての自分がどうなるのか、その答えはどこにもない。


『俺は……本当に、このままでいいのか?』

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