第十四話 忘れてた、というか

 あれこれ考えているうちに、いつの間にかスケキヨは眠りについていた。三葉と同じ布団の中にいる。


 艶やかなシルクのパジャマを纏った三葉の姿がそこにあった。スケキヨは思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。今は猫の姿だ。

 以前のように抱き合うことも、キスをすることも叶わない。横たわる彼女を横に寄り添うしか。


 何度もこんな思いを断ち切ろうとしても、三葉を目の前にするとどうしても感情が込み上げてくる。そのたびにセンチメンタルになってはいけないと思いつつ、スケキヨは小さな前足で顔を軽く叩いた。

「こんなこと考えるなんて、情けない……」と心の中で自分に言い聞かせながらも、三葉の寝顔を見るとやはり愛しさが止まらない。


 なかなか寝付けずにいたスケキヨは、ふと湊音の結婚の話から職場のことを思い出した。剣道部のことや同僚、そして自分が受け持っていた生徒たちのことが頭に浮かんでくる。


 猫に転生してからというもの、剣道の日々とは縁遠くなり、ただのんびりと過ごしている生活に慣れてしまい、仕事や学校のことはすっかり忘れていた。

 三葉は別の高校に勤務しているので、職場のことについて情報が入ってくるわけでもない。


『俺が死んだ後、剣道部はどうなってるんだろうな……生徒たち、ちゃんとやれてるんだろうか』

 さらに続けて、

『まだ受験生の学年主任じゃなかったのは幸いだったか……』

 と安堵の息をついた。


 大島は当時二年生の学年主任補佐で、学年主任は湊音が務めていた。そのことを思い出し、大島は湊音に対する信頼感を感じながらも、猫になった今、自分にできることはもう何もないのだと思い知らされまた苦しむ。


『あああああ、なんで大事なことを忘れてるんだ……忘れていたというかなんというか……』


 スケキヨは頭を掻きむしる。スケキヨの体はさほど大きくないが、人間の体でこのような動きをしたら

「大の大人が何をしているんだ」

 と言われそうな姿だ。


『でも俺は何もできないんだ、仕方ない……いや、しょうがないだろう? 誰がどう穴を埋めてくれてるんだ? 湊音は大丈夫なのか?』

 と、スケキヨは声を荒げながら一人悶々と考える。


『あー、ずっと働き詰めだったからつい解放感で現実逃避してたー!!!』

 と思わず叫んだ。もちろんニャーだが。


 仕事が嫌だったわけではない。しかし猫になってからというもの、あまりにも気を緩めすぎていたのだと感じた。


 そんな時、スケキヨの体がふと動きを止めた。


『まあ……何とかなってるんだろうな。何もこの家に話が入ってこないってことは、それはそれで良いことなのかもしれない……』

 と思ったが、少し寂しさが滲んでいた。


『何も相談されないってのも、それはそれで悲しいというかなんというか』

 と、情緒不安定な気持ちを自覚しながらも、疲れがたまっていたのか、いつの間にか眠りに落ちていた。





 そして、気がつけば朝を迎えていた。



 スケキヨは、三葉の後ろ姿をぼんやり見つめながら、彼女が朝からばっちりメイクをしているのを感じた。

『……男が来るからメイクをするのか……まぁ確かに俺といる時もしっかりメイクしてたけどなぁ。メイクしなくても美人だよ、三葉』

 と、まだ眠気が残る中、心の中で呟いた。


 三葉はメイクと着替えを終えると、スケキヨをロボット掃除機に乗せて掃除を始めた。そして最後に仏壇を拭き、手を合わせた。

「和樹さん……」

 と呼ぶだけで、その後の言葉は口にしない。スケキヨは、

『その思いを口にしてくれないとわからないぞ……』

 と心の中でぼやいた。


 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。

「あら、もうこんな時間……」

 と三葉が言うと、スケキヨもワクワクしてきた。そして三葉の後を追い玄関へ向かった。


 やがて部屋には湊音が入ってきた。

「おじゃまします」

 と言う彼は相変わらずテンションが低いが、見た目が以前よりも整っているように見えた。

『やはり結婚するとこうなるのか?』

 とスケキヨは思いつつ、じろじろと見ていたところ、湊音がふと気づいた。


「あ、これが電話で言ってたスケキヨ?」

「ええ、そうよ」

「パンダみたい……」

「そうだけど、スケキヨなの」

 やはり見た目に突っ込まれるのか……と思っていたところ、奥から足音が聞こえた。どうやら来たのは湊音だけではないらしい。


「あー、可愛い猫ちゃん!!! お邪魔します! いいマンションですねー」

 思わぬ声にびっくりしたスケキヨはビクッとなった。


「倫典、びっくりするから声のトーン落として」

 と湊音が注意したが、声の主、大森倫典とものりは相変わらずニコニコと明るい。


「そんなに広くないわよ……さぁさぁ座って」

 と三葉が促すと、

「はいー」

 と言いながら、倫典はスケキヨをヒョイっと持ち上げた。

『おおおっ、急に持ち上げるな!!』

 スケキヨは驚きながらも抵抗することはできず、そのまま撫でられる。誰もこの猫が大島の転生した姿だとは思っていない。


「倫典くん、平気なの?」

 と三葉が聞くと、

「うん。にしても可愛いなぁ、スケキヨ……スケキヨかぁー」

 と言って、じっとスケキヨを見つめる。

『そ、そんなに間近で見つめるなー!!』

 とスケキヨは顔を背けた。


「こら、倫典。猫ちゃんもいいけどまずは……」

 と湊音が言うと、

「はいはい。また遊ぼうね、スケキヨ」

 と倫典は名残惜しそうに床にスケキヨを下ろした。


 その後、二人は仏壇の前に座り、手を合わせた。


「大島先生、お久しぶりです。今日はご報告があって来ましたよ」

 と湊音が話しかける。スケキヨは思わず

『そこには俺はいない……』

 とぼやいた。


「大島先生、お邪魔します」

 と倫典も仏壇に手を合わせた。


 教え子であった湊音と倫典を目の前にして、スケキヨは胸がじんと熱くなるのを感じた。


『ああ、そいや倫典……がいたか。忘れてた』

 とふと思った。

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