第二章 吾輩は猫である
第三話 一年後
その猫――スケキヨは、今日も飼い主の三葉の足元で丸くなっていた。
彼女が川本夫妻からこの猫を引き取ってから、もう半年が経つ。
スケキヨはこの世に生まれて一年目でもある。猫の顔は、目の周りが黒く、どこかパンダのようにも見える。
しかし、三葉が引き取った時、川中さんの夫が
「こりゃスケキヨだな」
と勝手にそう呼んだのがきっかけで、その名が定着してしまった。
(ちなみに川本の奥さん、房江は「パンダ」かあるいはパンダに似ているから「シャンシャン」とか「リンリン」がよかったらしいが……)
三葉は少し戸惑いながらも、結局そのまま「スケキヨ」と呼ぶことにした。
「スケキヨ、何だかあなた、似てるのよね……くつろぐ姿がさ。それに、いつもあの人がいた場所でくつろいでるし」
三葉は、そう言いながらスケキヨを撫でた。その「あの人」とは、もちろん亡くなった夫、大島和樹のことだ。
その猫に転生した大島は、彼女の言葉を聞くたびに心の中でため息をつく。(もちろん転生したことは三葉も周りも誰も知らない。)
この「スケキヨ」という名前もどうにかならなかったのか、と。
彼はパンダのような顔を自覚しているが、なぜ「スケキヨ」と呼ばれなければならないのか。しかし、猫の姿になった今、名前に文句をつけることもできない。
『諦めるしかない……ああ。今更ネコスケとかオカカとか猫特有の名前をつけられても困る。』
転生して一年が経ったが、彼は未だにこの不条理な状況を完全には受け入れられずにいた。それでも、こうして三葉のそばにいられることは、ありがたいとも感じている。
もしあの時、自分が助けた母猫が死んでいたら、今ここに自分も存在していなかったかもしれない。
『命を救ったから恩返しとしてこの猫に転生したのだろうか』
と自分に言い聞かせていた。
『まさか、スケキヨなんて名前で呼ばれるとはな……』
大島は苦笑しながらも、三葉の温かい手の感触に少しだけ癒されていた。
妻に自分の正体を伝える手段はないが、彼女が自分を撫でるたび、心の奥で再び繋がっているのだと感じる瞬間がある。名前こそ「スケキヨ」だが、今のこの平穏な日常は、彼にとって大切なものになりつつあった。
しかし、ふと視線を仏壇に向けると、彼の心はまた別の不安が襲う。
このマンションに置かれた小さな仏壇。まさか自分が亡くなり、こんなものが置かれるなんて、想像もしていなかった。
仏壇に置かれている自分の遺影の写真がなんとも情けなく、他にいい写真はなかったのかと思いながらも……。
『ああ、まだこのマンションを買ったばかりなのに……頭金は少し出したが、ローンは20年も残ってる。三葉、ひとりで返せるのか?』
大島は、スケキヨの姿でじっと仏壇を見つめながら、彼女の生活を心配していた。
三葉はまだ高校の養護教員として働いているため、なんとかやりくりできているだろうが、大島が亡くなった後の保険金がどうにも頼りなく感じる。
自分がいれば、もっと違う形で支えることができたのに……そう思わずにはいられない。
『きもちいいいい……』
大島は、三葉の手に撫でられながら、彼女との再びのつながりに感謝していたものの、その胸の奥には複雑な思いが混ざっていた。 この半年、彼はずっと彼女のそばにいた。だが、その時間は決して平穏ではなかった。
大島が亡くなった直後、三葉はひどく落ち込んでいた。彼女は毎日のように泣き続け、ほとんど家に籠もりきりだった。
あの明るくて、しっかりとした三葉が、まるで別人のようだった。その様子を見て、大島は心が引き裂かれるような思いをしていた。
彼女が少しずつ日常に戻ってきたのは、スケキヨを引き取ったくらいのことだった。仕事に復帰し、高校の養護教員としての職務に戻ることで、三葉は少しずつ自分を取り戻していった。
『やっと、落ち着いてきたか……』
大島は心の中でそう呟いた。三葉が前を向いてくれていることに、彼はほっとした。だが、それと同時に、2人の間にあったもう一つの大きな問題が再び彼の心に浮かび上がった。
そう、2人の間には子供がいなかった。
結婚してからすぐ、2人は不妊治療を始めた。三葉も大島も、すでに高齢出産の年齢に差し掛かっていた。
交際中には避妊しなかったにもかかわらず、妊娠の兆候は一度もなかった。そのため、周囲の勧めもあり、2人はすぐに不妊治療を開始した。しかし、治療は思うようには進まず、妊娠は叶わなかった。
『治療費も、かなりかかったもんなぁ……』
大島は、猫の体で頭を抱えるように丸くなりながら、ため息をついた。不妊治療は三葉にとって心身ともに大きな負担であり、そのうえ経済的にも厳しいものだった。
しかも、彼らが住んでいる新しいマンションのローンもまだ残っている。彼の保険金があったとはいえ、それも長くは持たない。
『俺がいなくなった今、三葉はあのローンを一人で返していかないといけない……しかも、不妊治療でかかった費用も全部彼女が背負うことになった。まったく、俺は何もできないまま……』
大島は、自分が猫の姿でしかいられないことに対する無力感を改めて痛感した。もし、まだ人間だったら、彼女の支えになれたはずだ。子供ができなくても、2人でそれを乗り越え、一緒に生きていけたかもしれない。
だが、そんな未来はもう存在しない。彼が事故で命を落とし、すべてが変わってしまったのだ。
『畜生……ひき逃げ犯め! 奴が捕まったらたっぷり請求してやる!!』
彼が考え込んでいる間も、三葉はスケキヨを優しく撫でていた。その手は、まるで彼女自身が癒されることを求めるように、静かで丁寧だった。
「ねぇ、スケキヨ……」
三葉がそう口にした時、彼はふと現実に引き戻された。彼女が悲しそうに微笑みながら、自分を見つめているのがわかった。そしてその後三葉は仏間の大島の遺影を見た。
「私たち、もしあの時……赤ちゃんができていたら、どんな生活をしていたんだろうね。あなたと一緒に、家族を作れるって信じてたのに」
その言葉を聞いた瞬間、大島の胸は締め付けられるような痛みに襲われた。三葉もまた、彼と同じことを考えていたのだ。彼女の声には、失った未来への深い悲しみが滲んでいた。
『……ごめんな、三葉』
大島は、心の中で謝りながら、彼女のそばで静かに丸くなった。彼女を慰める言葉も、力も、今の自分にはない。ただ、そばにいることでしか、彼女を支えることができないのだ。
『でも、まだ終わりじゃない。俺はここにいるんだ』
そう心の中で誓いながら、彼は三葉の膝に頭を寄せた。猫の体でも、自分ができる限りのことをしよう。彼女が少しでも笑顔を取り戻せるように――それが今の彼の唯一の願いだった。
『にしても三葉の身体が気持ちよくてたまらんなぁ……』
ある意味下心剥き出しにせずに近くに寄れるのは猫に転生してよかったと思いつつもどのようにすればいいのか全く検討のつかない大島であった。
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