轢き逃げされたら猫に転生。やり残し多すぎて詰んでる件

プロローグ 夜中に猫を助けただけなのに

第一話 猫を助けたヒーローの結末

　とある進学校の高校近くの坂道。あたかも寒くもないちょうど良い気温。

　夜になると車通りが少なく、人の気配もまばらになる。街灯が点々と照らす中、若い男女が歩いていた。

　1人はノースリーブのワンピースを着た女性。もう1人は、くたびれたジャージにサンダルを履いた、筋肉質で大柄な男だ。

「大島センセ、泊まりたかったなぁ～」

「ダメダメ、独身寮だからさ」

「何言ってるの、冗談。じょーだん。先生って間に受けやすいよね」

「ん？　正直モノってことだ」

　女性は甘えるように腕を絡ませるが、大島センセと呼ばれた男は苦笑しながらも、優しく腕を解いて距離をとった。

　2人は駅に向かって坂道を下っていく。夜も10時を過ぎ、駅に入っていく人は少なく、出てくる人が増えていた。

「じゃあ、また明日」

「うん、またね」

　また明日もある、だからそこまで名残惜しそうではない。女性が改札を通るのを見届けた大島は、鼻歌を口ずさみながら坂道を引き返す。

　坂道は普通の人なら疲れそうなものだが、筋トレ好きの彼にはなんてことはない。

「夜は過ごしやすくなったなぁ」

　と、上機嫌で歩いていると、ふと坂の途中の路地に人だかりが見えた。部屋着姿の数人が、スマホのライトで暗がりを照らしている。

「どうしたんだ……」

　大島は駆け足で近づくと、初老の男性が気づいた。大島はその人物を知っていた。

「あ、あんた、そこの高校の先生だろ？」

「ええ、はい……あら川本さん」

「あー、大島先生っ！！！」

　そうである、大島センセ……大島先生。すぐそこの進学校の高校の教師である。

「おお、あんたみたいに力のある人が来てくれて助かるよ。さすが県大会優勝させるほどの腕前だもんな！　文武両道！」

「いやー、それほどでもぉ……」

　男性は川本という高校の近くに住む住人で、今は定年退職をし、ボランティア活動に励んでいる。

　他の集まっている人々も大島の顔見知りだった。

　すると、どこからか「にゃー、にゃー」と猫の鳴き声が聞こえてきた。

「ほら、まだ声がするわ。生きてる！　さっきからこの排水口の下から猫の声がするんだけど……」

「猫？」

　大島は声のする排水口のあたりを見た。

「この排水口の蓋が重くて、誰も開けられないんだ。深夜だから市役所にも連絡できないし、これで警察呼ぶのもどうかと思ってね」

「はぁ……」

　正直、大島はすぐに高校にある寮に戻りたかった。明日は朝から大会に向けての部活の指導がある。しかし、期待されてる中、ここで立ち去るわけにもいかない。

「分かりました……じゃあ、皆さんスマホで照らしてください」

　すると、スマホのライトが一斉に大島に向けられ、まるで容疑者のように照らされる。

「俺じゃなくて、排水口を照らして！」

「あ、すみません……」

　ライトに照らされた排水口の蓋はかなり重そうだった。大島は気合を入れて持ち上げようとする。

「よっしゃ……ぬおぉおおおお！！」

　彼は剣道部の顧問で、力には自信があるが、40歳を過ぎてからは昔ほどの体力はない。それでも、ここは何とか面目を保とうと力を振り絞った。

「開いたぞー！」

「おおお！」

　周囲から歓声が上がるが、深夜のため、一人が

「シーッ」

　と静かに諌めた。

　大島は蓋を開け、腕を排水口の中に伸ばす。指先に触れたのは柔らかな毛の感触。暗闇に目を凝らすと、かすかに光る猫の瞳が見えた。

「怖くないぞ、怖くない……俺を信じて出てこい！」

　声を落として優しく語りかけるが、猫は怯えたまま動かない。

「結構大きな猫ちゃんみたいね……」

　と誰かが呟く。

　大島は焦ることなく考えを巡らせた。だが、考え込む間もなく、力任せに猫を引っ張り上げる決意を固めた。

「そっちがそうなら……うりゃぁー！」

　彼は思い切って猫をがっしりと掴み、無理やり引き寄せた。

「にゃーー！！」

　猫は驚いたように悲鳴を上げるが、大島は構わず力を込めて引っ張る。他の住人も手を貸し、ようやく猫は無事に引き上げられた。

　川本さんの奥さん、房江が素早くタオルで猫を包み込む。

「この子は多分ママさん猫ね」

　タオルを開けると、猫のお腹がふっくらしているが砂まみれの体が痛々しい。

「大島先生がこの蓋を開けてくれなかったら、きっとこの猫も冷え切って大変なことになっていたでしょう。本当にありがとうございます」

　その言葉に周囲が静かに拍手を送る。大島は少し照れくさそうに微笑みながらも、内心で安堵していた。

「うちで一晩預かります。首輪がないから、きっとノラ猫でしょうし……」

　川本さんが猫を引き取り、その場は静かに解散となった。

　大島はようやく肩の荷が下りたように息をつき、軽く伸びをしながら坂道を戻る。

「……よし、ようやく帰れるぞ」

　しかし、その安堵は一瞬だった。

　――「キキィィィッ！」――

　突如、鋭いブレーキ音が響いた。強いライトに照らされ、耳には甲高いクラクションが鳴り響く。

　「え……？」

　気づいた時には遅かった。車が坂道を下ってくる勢いのまま、大島に衝突した。

　衝撃が彼の全身を貫き、瞬く間に視界が暗転する。身体が宙を舞い、無意識のうちに地面へと叩きつけられた。

　しかし彼を轢いた車はものすごい音で遠くまで去っていった。

　轢かれた大島の耳に、かすかに周囲のざわめきが聞こえる。しかし、その声もどんどん遠くなっていく。周りの音も、視界も、すべてが薄れていく中、彼は微かに自分が倒れていることを感じていた。そして生温かい何かが流れている。

　そして一言だけ出た……。

　「……三葉……」

　大島の意識は完全に途切れた。