第3話 牛頭大樹はめんどくさい

「さて。じゃ、名前を教えたことで僕は許されたんだよね。失礼しました。あとはその紙ゴミ、じゃないや、似顔絵を好きにしてください」


 ぺこ、と頭を下げて僕は踵を返そうとした。

 が、町屋サガリ(ああもう、覚えたくもないのに名前を覚えてしまった。)が例の力強い手のひらで僕の手首を掴んだものだから、動けなくなってしまった。 


「待て待て待て!」


「何? もう用事終わったでしょ」


「終わってないだろ。エース佐藤の顔を見たんだ、俺の描いた絵について再度評価してほしい。上手くないっていうのは分かってるけど、特徴は掴んでるとか、ヘタウマとか、あるだろ?」


「はあ?」


「だってずっと見つめてた。昼に実体を見て、夜には夢を見て、夕方には妄想を見て。それでただの下手くそで済まされたら傷つくだろ。魂をこめたんだぞ」


 ああ出たよ。心の籠った絵とかいう理屈。

 僕が一番嫌いな理屈。


「俺さ、やっぱり自分の絵の中のエース佐藤も好きだなって思って。だからこそ、埋めたら忘れられるっていうか、諦められるっていうか」


 ――心を籠めても、舞の、妹の、運命は変わらなかった。

 絵としての評価だって大したものにならなかった。佳作でしかない。

 油絵っていうのは、当たり前だけど油だからよく燃えるんだ。


「それだけ本気なんだよ。ふざけてるみたいに見えたかもしれないけど。だからもう一回見てみて、評価して欲しいんだよな」


 せっかくだから一緒に火葬してあげましょう、ってあのとき僕に勧めたのが誰だったのか覚えていない。葬儀屋だったかもしれないし、母だったかもしれない。

 焼かれた骨に絵の具の色がまだらについて、それは僕の執着心みたいで申し訳なかった。ずっと苦しんでいた舞が、やっと肉体から自由になったのに。僕が絵に塗りこめた『心』が舞の真っ白な骨を汚した。


 美術部を辞めた理由。友達なんかいらないって理由。

 絵が嫌いな理由。

 なのにやめられない自分がキモイって理由。


 ぐるぐると頭の中に考えが入りこんでくる。


「……う」


 胃がきゅっと締まる感覚があって、反射的に口に手をあてる。

 胃が、体の前面が緊張したわけだから、当然僕の体は前方に折れる形になる。ドラマとか映画とかでトラウマを刺激された登場人物がいかにもやりそうな演技みたいに、僕はその場で屈みこんだ。片手は町屋サガリに掴まれたままだったから、安いドラマ以上に恰好つかないけど。

 

 くだらない。

 

 喉が意思に反してきゅうきゅうと動いて、胃からの移送を開始しようとする。

 やめろ。やめて。

 食べたものは戻せるけど、死んだ人間は生き返らない。いや、ゲロみたいな形でなら生き返るのか。そんなホラーあったな。

 はは、バカみたい。

 

「どうした? お前なんか、顔色が……」


 アホ面で町屋サガリが言う。

 

「あ…………ぅ、はな、して」


 空気がせり上がってくる。喉が、熱い。


「え? あ、ちょ」


 慌てて彼は僕の手首を放して、背中に手を当ててくれた。

 そんなことをしなくてもいい。汚れるから。

 汚れるから。

 僕からの返答が無いことを不審に思ってだろうか。町屋サガリは僕の背中をさすりながら、抱きかかえるみたいにして後ろから顔を覗き込んでくる。 

 

 ばかだ。

 

 離れろという暇もなく、僕はその場で嘔吐した。





 冷たいそうな水が手洗い場の蛇口から出ている。冬に手洗い場の水に手をさらしたらそりゃ冷たいだろうってことは分かる。僕ならやりたくない。今日会ったばかりの失礼な陰キャのゲロを拭いてやるためになんか。

 本来はむさくるしい高校生の利用なんか想定されてないんだろう、低い位置の蛇口でハンカチ(!)を濡らすために、長身の町屋サガリはめいっぱい体を小さくしていた。

 ハンカチなんて持ち歩くタイプに見えなかったし、ゲロが手や服についても怒らないどころかこうして世話しようとしてくれているし、薄々思ってたけど多分彼は僕より人間ができている。ちょっとおかしな奴ではあるが。


「ほら、冷たいけどこれで口の周り拭けよ。それから服も」


 固く絞ったハンカチを渡してくれた彼の指先は赤かった。

 

「ん……ありがとう。ていうか」


「うん?」


「君の制服も汚しちゃった。ごめん。クリーニング代払うよ」


「あー、いいって。お前より被害小さいし。体調悪いことなんて誰でもあるから」


 やけにきっぱりと言われた。真っ直ぐ僕を見る目が、にこやかなんだけど頑固な光を放っていた。

 どれだけお金を払おうとしても固辞されるだろうなって予想がついた。

 だからだろうか、僕は深く考えずに、提案していた。ぽろっと、口から零れるみたいに。


「代わりに描いてあげようか? エース佐藤の似顔絵」

 

 と。

 それに対する町屋サガリの反応はというと、『ぽかん』である。顔の横に擬音が見えた。

  

「い、いや、僕の方が絶対上手いし、ていうか君の絵が下手すぎるっていうのもあるし。なんか埋める? ってまじないっぽいから、似てる方がいいんじゃないの?」


 自分でも何を言い出したんだって気持ちになってきて焦る。早口に理由を並べれば並べるほど謎に必死っぽい。


「いや、まじない系ならやっぱり本人が描かないと意味無いのかな。でも相手の体の一部とか入れる系じゃないし関係ないよね。いやそんなキモイ系のまじないだったら即逃げてるけど」


 出逢い→失礼発言→名乗り→ゲロ、からの電波失礼発言である。

 自分でも頬がカッと熱くなるのが分かった。こめかみの血流がどくんどくんと激しくなる。

 

 沈黙。

 もう逃げ出したい。ごめん町屋サガリ。君は変な奴だけど、僕の方が数倍変だ。もう名前も忘れて欲しい。さようなら。


 うなだれる。目の前が暗くなる。どうやってこの場から去ればいいでしょうか……。

 そのときだった。


「プッ」


 頭上から、思わずといったように吹き出す声が聞こえた。

 それから、


「お前、やっぱ面白いわ。人の絵けなして潰したあとに、自分が描き直してやるー! って、だいぶヤバいぞ。傲慢が服着て歩いてんのか? 友達いなくなるぞ」

 

 とのお言葉。

 まったくもってその通りなんだけど、そんな奴相手だっていうのに彼の声が優しくてびっくりする。

 どう答えればいいんだろう。分からないから、うつむいたまま口を尖らせた。


「だから、友達なんかいないし、いらないんだよ」

 

「ああ、なるほど。高校生にもなるとさ、みんな適当に距離をとるのが上手くなるからな。『ちょっとあいつはね』なんて言って、無視もしないけど近寄りもしないってやつだなあ」


 感心したように頷かれる。正直すぎるだろう。

 

 こいつは――町屋サガリは僕のイラっとポイントをやたらと突いてくる。というか、基本的に他人ってこんなもんだったかもしれない。他人と長く会話したのが久しぶりだから忘れてたけど、意外に優しくて無神経で真っ直ぐなのが他人ってやつだったかもしれない。


「そういうことで、僕は友達甲斐のない人間なのでもう忘れて下さい。制服を汚したのと失礼発言はすみませんでした。絵、描き直すなんて言ったのは気の迷いでした。それじゃ」


 この場を逃げ出すチャンスはここしかない、と思った。

 わざと敬語に切り替えて、一息に言い切る。そうして立ち去ろうとしたのに。


「なにするんですか」


「え? いや、待ってほしくて」


 ぐい、と腕を掴まれていた。


「俺、大樹たいじゅの絵が見たくないとは言ってない。ていうか、人のこと下手くそ呼ばわりする奴の絵、見てやりたい。あとエース佐藤のいい感じの似顔絵が見れるなら見てみたい」


「君に比べたら僕どころかあそこにいる小学生の方が上手いよ」


 寒空のなか、飽きずにベンチに集ってゲームをしている小学生を顎で指す。

 サガリは僕の憎まれ口に、無言で肩をすくめた。柔らかく口の端を上げて。

 あ、これ、譲らないやつの笑顔だ。と直感し、諦める。

 

「いいよ。じゃあベンチ行こ。小学生に占領されてない方のね」


 溜息とともに行ってやると、サガリは体を揺らして喜色満面の笑みに変わった。……びっくりした、飛びつかれるかと思った。雰囲気が大型犬すぎるだろ。


「やった! 大樹って失礼だけど悪い奴ではないよな。俺が絵埋めてるの、キモイって言わないし、描き直してくれるし」


「ゴミはゴミ箱に捨てろとは今でも思ってるよ」


「真面目だ!」


 そんなくだらない会話を交わしながら移動する。先に歩く僕の後ろをサガリが左右に行ったり来たりする。

 濡れたハンカチを握ったままの手がかじかんでるし、ごしごし擦った口元の皮膚が寒風に晒されてちょっと痛い。シャツは濡れてる。

 それでも、『ついてないな』みたいな気持ちにならない。

 認めたくないけど、一人じゃないことで、みじめさが無い。


「言っとくけど、君のこと変人だとは思ってるからな。あと、いつ名前呼んでいいって言った?」


「名前聞いたら、そりゃ呼ぶだろ」

 

 心から分からないといった顔をされて、ああ陽キャとは見ている世界も常識も違うんだと思った次第。

 それでもなぜか、会話していて気まずいとか嫌な気がするとかは無い。彼の人柄なのかもしれない。まあ犬っぽいしな。


「それにさ、大樹がさっき具合悪くなったのって、多分俺の言葉の何かが悪かったんだろ? 事情を探ったりはしないけどさ、心配だから横で名前を呼んでやりたいって思うよ」


 犬って優しいんだったな。


「はあ……分かったよ。もうそれやめてよ」


 なんでだろう、肩から上全部が熱い。

 反射的に顔に手をやったら、自分の指がひどく凍えてた。

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