第10話
スッと身体が冷たく透明になってフッと空中へ浮かぶ感覚があった。
淡々とリズムを刻む木魚の音。
よく響く低い読経の声が響く会場。
色彩の無い白と黒の世界がそこには広がっていた。
祭壇に飾られた遺影。高校の制服を着た笑顔の私。
啜り泣く声がする。見ると親族が並んで座っている。
父も母もいる。うなだれて表情を失った青白い顔。
祭壇の前に棺桶が見えた。
上から覗いてみると花に囲まれ目を閉じる自分の顔が小さな隙間から見えた。
あぁ、そうか。私、あの時事故に遭って…。
その瞬間、浮かんでいた身体が勝手に流されるように動いて斎場のドアが観音開きに開け放たれた。
滑り込むようにその中へ入ると見慣れた部屋が現れた。
黒いピアノと大きなクマのぬいぐるみ。
白い勉強机にいつも寝ていた白いベッド。
そこに眠る真っ白い服を着た私。
傍には父と母が居て、並んで私を覗き込んでいた。
2人は必死に祈るように、何かを思い詰めるかのように、動かない私をじっと見つめて静かに涙を流している。息を飲んで浮かんだまま、私は2人を見つめた。
ああ、私は何て事をしてしまったんだろう。
あの時ライブハウスを飛び出したりしなければ、こんな事にはならなかったはずだ。
深い後悔の思い、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
どうしてあんなに手放しで人を好きになってしまったんだろう。他の事が何も見えなくなってしまうほどに。
「ギターが壊れちゃったのなら、これを貸してやれよ。」
そう言って颯斗にテレキャスを貸してくれた父の顔が浮かぶ。父はどんな気持ちだったのだろう。
あぁ、できれば時間を戻したい。そう強く思った。
ごめんなさい、ごめんね…。私、何も分かっていなかった。何も気づかなかった、もう戻れない過去は変えられないんだ。
その時、空気を揺らすようにとても柔らかい音楽が部屋を包んだ。見ると父の手元に小さなプレイヤーがあった。
父と一緒にたくさん聴いた、懐かしい曲。
父の大好きなギタリストの優しいアコースティックギターの音。そして歌声。
何か細かな粒子が部屋に広がり確かに彩りを帯びていくのが見えた。
その場に静かに時空が変わるような、優しい歪みが訪れる瞬間だった。
私は深く呼吸した。
父と母と送った毎日の些細な記憶が次々と浮かんでは静かに消えていく。そしてありがとうという気持ちが溢れ出した。
お父さんとお母さんに出会えて、本当に良かった。
ありがとう。短い時間だったのかもしれないけれど、限られた命の中で、大事な事、全部受け取ったよ。
ありがとう。
聴き慣れたアコースティックギターの音色。
よく通る歌声がゆっくりと近づいてくる。
あぁ、心地良いなぁ。このギターと歌声が何故だか分からないけれど、私はとっても好きなんだ。
土の匂いがする。記憶の焦点が戻るようにゆっくりとくっきりと私は目を開けた。
小さな緑色の手のひらが土まみれになって2つ並んでいる。私はその手を使って土を払った。しばらくモゾモゾ動いているとパッと光に包まれて地上に上がる事が出来た。
「あぁ…!」
ギターを弾く手を止め、彼が目を見開いている。
「やっと起きてきた!良かった…。心配したんだぞ。」
眼鏡の向こう側で優しく笑う目。
透明の壁にピタッとくっついて私は彼をじっと見つめた。
彼はすぐ、止めてしまったところの続きから、またギターを弾き歌い始めた。
私の部屋の前でいつもの様に。
私は、大好きな彼を頭に焼き付けるようにじっと見つめた。これが最後なんだ、何故だかそう思った。
私は今ここを出て、次の世界へ行くべきなんだ。
そんな感覚が強く私を押していた。
彼の歌と、演奏が終わる。
小さな余韻。
ケロケロ…と、私の喉から小さな声が出た。
ありがとう。
あなたの事を好きでいられて私はとても幸せだった。
幸せになってね。
「ご飯の時間だね。」
そう言って彼が立ち上がる。
ガラッと窓が開いて外に出ていくその背中を見届けて、私は部屋の中心に立てかけてある枝をつたって上の方へ登っていった。
私は以前から知っていた。この部屋の天井は、とても軽くて私の力でも動かす事が出来る作りだという事を。一度、彼のいない間に、脱走して部屋を冒険した事があった。
今日も天井は簡単にフワッと動いて、私は外に出る事が出来た。勢いよくジャンプして床のクッションの上に落ちる。大丈夫、痛みは感じない。私はピョンピョン飛び跳ねて、夜の空気を感じる方へと急いだ。
窓のところまで辿り着き、外を見渡すと庭の隅の方で虫を捕まえる彼の姿があった。
さようなら!
私は彼の部屋から飛び出した。
冷たい地面に飛び移り、勢いよく前進する。
外の空気は冷たくて気持ち良くて、新しい世界を思い描きながら私は思いきり息を吸い込んだ。
なんだか心の底からワクワクした。
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