第9話
その空は、懐かしいような色をしていた。
夢の中だろうか。
言葉で言い表せないような昔からよく知っているような馴染みの深い安心する空間が宇宙のように広がっていた。
手の届く高さに丸い何かが浮かんでいる。
シャボン玉の様にふわふわ浮かぶ柔らかそうな3つの球体。中からは音が聴こえてくるようだった。
そのそれぞれ違う3つの音は、うまく重なり合って何とも素敵な音楽を奏でていた。
私はその球体にとても心惹かれて、さっきまでの悪い気持ちを嘘みたいに忘れていた。
早くその中に手を伸ばし、覗き込みたい衝動に駆られていた。
これは何の音だろう。
耳をすまして直感的に1つの球体を選んで手を伸ばしてみる。
あ…吸い込まれる!
次の瞬間、夜空の広がる芝生の上に私はいた。
頭上では、『ドーン』と上がって『パラパラ』と舞い散る音がする。
見上げるとキラキラと光が溢れ落ち、色々な色が広がって消えた。
綺麗だなぁ!と思ったら隣で誰かの声がした。
「綺麗だなー。」
その人は見ると、父だった。
目を細めて空を見上げるなんだか若い父だった。
私は手に何か冷たいものを持っていた。
青いシロップのかかったかき氷。自分の手がとっても小さくて、着ている浴衣の柄は昔、写真で見た記憶のある古いものだった。
「ほら、翠、凄いだろ。見えるかぁ?」
父の話し方は小さな子供に向けるような特別の、とても優しい響きがあった。
私は頷いた。両頬におかっぱの髪がサラサラ触れた。
そうか、小さい頃、私はこんな風に話しかけられていたのか。もうすっかり忘れていたけれどこんなに優しく接してもらっていたのね。
白いカップの中で、青いかき氷が溶けて水っぽくなっていく。きっと花火が始まる前に、あそこで買ってもらったんだろう。向こうの方に小さな売店の明かりが見えた。
ドーン、パラパラと繰り返し胸に響く音。
父の顔を照らす光。胸がいっぱいになる。
「パパ!」
私は思わず手を伸ばした。
すると同時に元の懐かしい色の空間に戻り、父は居なくなってしまった。
残りの2つの球体が浮かんでいる。
また父に会いたい。私は片方に手を伸ばす。
この中へ行けばきっとまた父に会える気がした。
再び光に包まれる。
胸を締め付けるほどの懐かしい感覚が襲ってきた。
それは、ギターの音だった。
気がついたら今度はギュッとギターのネックを必死に掴む自分の小さな手があった。
その手に並ぶように父の大きな手が綺麗に弦を抑えている。
「ここだよ。翠、ここを抑えるんだよ。」
父がギターの音を鳴らす。
私が変なところを抑えているせいでおかしな音が混ざり込んだ。
右手に握りしめたピックは見覚えのあるべっ甲柄で昔父がよく使っていたものだった。
身体中に変な力が入ってしまって、ピックを握る手も弦を抑える指も痛くて、全く弾ける気がしなかった。父の膝の上に乗ったバタースコッチブロンドのテレキャスター。私とテレキャスを支える父の体温。
なんだか退屈だなぁと思った。
父の背後で、ストーブに乗ったやかんが静かにシュウシュウと呼吸している音がする。向こうの方で小さく聞こえるテレビの音。もう今日は辞めたいな。私は力を抜いてみる。いつもの父のヘアリキッドの爽やかな香りが静かに香った。それがとても心地よくてギターの練習は退屈なのに何故か淡い幸福感に包まれる。
「翠、薬指は5弦を抑えるんだよ。」
面倒くさくて私は小さく「うーん。」と唸った。
その瞬間、見慣れたリビングが遠のきはじめる。
後悔の感情が私を襲った。
どうして真面目にやらなかったんだろう。
もっと真面目にギターを弾いていたら父は嬉しかったろうなぁ…。ちゃんとやれば良かったのに…!
元の空間に戻った私は1人静かにため息をついた。
残る1つの球体に手を伸ばそうすると、後退りしたくなるような躊躇いの反発が急に身体を襲った。
とても辛いけど、どうしても見なくちゃいけない。
そんな気持ちで私は球体へ吸い込まれて行った。
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