第29話
「そっちはどう? もう慣れた?」
モニターに映る勇樹の顔を見ながら、奈々は訊いた。
〈環境には慣れたけど、仕事はもうちょっと時間かかりそうかな。前の部署と全く違うことをやってるから〉
「そっか。頑張ってね、私が言えることじゃないけど」
〈そんなことないって。何度も言ってるけど、俺は奈々のこと応援してるんだから〉
親友のデビュー作を買って、家に帰ったあの日。目を腫らしたまま二冊の書籍を見せた奈々に、勇樹は目をパチパチさせて驚いた。
しかし勇樹は、真剣に奈々の話を聞いた。実は作家志望だったこと。その夢を諦めきれないから、最後にもう一年だけチャンスが欲しいこと。やると決める以上は執筆に専念したいので、しばらく家事はできないこと。……当然、結婚なんてできないこと。奈々は涙で目を潤ませながら説明した。
勇樹は快諾してくれた。最近、奈々の様子が変だったことを気にしていた勇樹は、その理由を知ることができてむしろ安心していた。
最初に出てきた一言が「病気が発覚したとかじゃなくてよかった」である。この言葉を聞いた瞬間、奈々は決意した。――勇樹と結婚しよう。作家になれてもなれなくても、彼と共に幸せな家庭を築くのだ。作家になれたら印税も入るはずだから、家事は最悪、家政婦に任せたらいい。作家になれなかったら、その時は勇樹に尽くす。
未来の生活に思いを馳せていると、頭の奥から眠気が湧いた。
奈々は小さく欠伸する。
〈寝不足?〉
「ちょっとね。昨日、思ったよりも原稿が進まなくて」
〈え、もう二作目を書いてるの?〉
三月末にだいち小説賞に応募したばかりだが、奈々は既に他の新人賞へ送る原稿を書いていた。「まあね」と頷く奈々に、勇樹は感心した素振りを見せる。
「一年なんてあっという間なんだから、だらだらしてる暇なんてないよ」
〈……やっぱり俺、ゴールデンウィークくらいは戻ろうか? 家事とか手伝うよ〉
「大丈夫だって。そっちも仕事大変なんでしょ? この家も、勇樹のおかげで住めてるんだしさ、これ以上は甘えてられないって」
気遣いではなく本心からの言葉だった。
これ以上、甘えられない。
今すぐ結婚はできない奈々のために、勇樹は転勤の話を呑んだ。その際、同棲していたこの家は奈々のために手放さず、勇樹だけ新たに賃貸を借りることにした。
至れり尽くせりである。ここまでされると流石に罪悪感を覚えるが、幸か不幸か、勇樹は転勤先である大阪のことをわりと気に入っているようだった。食べ物は美味しいし安いし、周りの人も優しくて助かっているとか。住めば都と言うにはまだ早いが、これなら一緒に行った方がよかったかなと思うことがある。
「それじゃ、私はそろそろ執筆に戻るね」
〈うん。お互い頑張ろう〉
ビデオ通話を切って、奈々は静かに息を吐いた。
分かっている。目を逸らすな。――勇樹は偶に不安そうな顔をしている。
無理もない。結婚秒読みだったのに、急に別居する羽目になったのだ。奈々は今年で二十六歳だが、勇樹は三十歳になる。結婚を焦る歳だろう。もしここで二人が別れたら、勇樹はまた一から婚活を始めなければならない。三十歳で婚活を始めるなら、結婚は更にその一年後か二年後になる。
勇樹はビデオ通話で話す度に、奈々の体調を心配した。だが、奈々が執筆に専念する期間を引き延ばすことだけは提案しない。勇樹が内心では、薄氷を踏む思いで今の関係に耐えていることは明白だった。
ここで決めたい。そんな勇樹の気持ちがひしひしと伝わってくる。
その気持ちには応えるつもりだ。だが、散々そういう態度を取ってきたわりに、直前で結婚できないと言ってしまったのは奈々の方だった。
一年間のチャンスを、引き延ばす気はない。
奈々は原稿を開き、執筆を始める。
燃え尽きるつもりで書こう。
自分の覚悟も、勇樹の献身も、全てを筆に込めた。
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