第27話

 家に帰った後、風太は机の前でぼんやりとしていた。

 何度も日村の言葉を噛み砕いて反芻した。最後に日村が放った言葉の主語が俺たちであったことに気づいたのは、洗面所でうがいをしている時だった。

 日村だけではない。恐らく、同期の全員が風太のことを天才だと思っている。

 彼らの言い分は理解した。だが、それが腑に落ちるかと言えば話は別だ。


 仮に自分が天才だとしたら、何故、最後まで小説を書き切れない。

 ミステリーの犯人でも探しているような気分だった。犯人はこの中にいる、そう思いながら風太は胸をとんと叩く。


 原稿を書いた。だいち小説賞の締め切りまであと一ヶ月を切っている。焦らなくてはならない。しかし、それでも途中で筆が止まる。

 年末から就職活動と並行して原稿を書き続けていた。没になった原稿は今や三十を超える。いずれも途中まではいいペースで執筆できていたのだ。けれど途中から急に筆が乗らなくなった。このままじゃいけない、これでは駄目だ、そんな強迫観念めいた不安が頭に湧いて、筆を重たくする。


 今もそうだった。登場人物の心情が上手く書けない。書いては消し、書いては消しを繰り返すうちに、心が冷めていく。ああ……俺にこれは表現できないんだなと諦念し、遂には筆を止めてしまう。吐き気を催すほどの根性なしだ。


 短編小説だと誤魔化せるのだ。だから書けた。短編小説は全体の尺が短いから、登場人物たちの人生に深みを持たせなくても、なんとか読者の目を騙すことができる。そういう技術を無意識に身につけてしまった自分が許せない。


 だが長編小説ではそう簡単にいかない。尺が伸びる以上、どうしても真に迫った描写が必要になる。ここでいつも躓いてしまう。思い描いた通りの表現が上手くできず、無力感のあまり腸を引き摺り出して振り回したい衝動に駆られる。


 どうして、思い通りの表現ができないのだろう?

 こんな理不尽、あってもいいのだろうか?

 皆はどうやってこの苦痛に耐えているのか、聞きたくて仕方ない。


 ……聞いてみるか。


 風太はスマートフォンを手に取り、大黒にメッセージを送ってみた。

 そういえば、大黒のデビュー作は明日発売だ。サークルの先輩だし、目標にしている作家の一人でもあるため絶対に買わねばならない。

 書店に行く予定を立てていると、大黒から返事があった。

 小説について相談があると連絡した風太に、大黒はメッセージのやり取りではややこしいから通話できる? と尋ねた。

 問題ないことを伝えると、早速スマートフォンが着信を報せる。


「すみません、夜分遅くに」


〈いいよ別に。なんか深刻そうだったし、一応先輩だしね〉


 あと一年早く風太が生まれていれば、大黒や青井とは筆章会で肩を並べる関係だっただろう。もし同い年だったら、彼女たちは日村のように風太を置いて行かなかったかもしれない。そんな、詮なきことを考える。


「前に、話したことがあるじゃないですか。短編しか書いたことがないって」


 大黒の相槌が聞こえたので、続けて語る。


「実は今、だいち小説賞に送る原稿を書いてまして。でも、やっぱり途中で止まってしまうんです。大黒先生なら解決策を知ってるんじゃないかと思ったんですけど……」


〈うーん、私はそういう経験ないからなぁ〉


 大黒は悩ましそうに言った。

 よくある現象でないことは察していた。ネットで調べても同じ悩みを抱えている作家志望はいなかったし、新年会の時にもこのような話題は聞かなかった。

 当然、筆書会の同期である日村たちにはもう何度も相談しているが、彼らが共感してくれた試しはない。しかし翌日にはプロとしてデビューする大黒なら、何かヒントを授けてくれるのではないかという一縷の望みを感じた。


〈書けなくなる切っ掛けはあるの?〉


「切っ掛けって言っていいか分かりませんが……やっぱり、このままじゃ駄目だなって思った時に、筆が止まってしまいます」


〈自信がないから原稿を捨ててるってこと?〉


 どれだけ言葉にしても掴み所がないと思っていた悩みが、あまりにもシンプルに言い換えられたので一瞬理解が遅れた。

 そう言われると、そうかもしれない。


「はい。多分」


〈だったら杞憂だよ。風太君は才能あるから、もっと気軽に書き続けてもいいと思う〉


 大黒は明るく言った。

 だが、気軽に書くというのは、どうなんだろうか。

 自分で満足できない文章を騙し騙し書き続けるのは、読者に対して失礼ではないだろうかと思った。いや、読者だけではない。作品の中に込めた自分の想いや、作品の中で生きている登場人物たちにも失礼だ。


〈納得できない?〉


 風太の無言を、大黒は正しく解釈した。


「……はい」


〈そうなると、後はもう根性しかないんじゃないかな〉


 風太が無言でいた間、大黒は考えを整理していたらしく、語り出す。


〈私ね、作家って粘着質な人間にしかなれないと思ってるの。だって、毎日ずっとパソコンの画面を睨み続けて、文章だけをひたすら書いて……こんなの人間のやることじゃないなって偶に思うもん。しかもデビューするまでは、ほとんどの確率で書いた作品がお蔵入りになるわけだし。地味な上に報われにくい世界だよね〉


 この冬だけでも三十回以上のお蔵入りを決断した風太にとっては、千切れそうなほど首を縦に振りたい意見だった。汗水垂らして生み出した作品は、そのほとんどが人の目に触れることなく葬られる。


「それでも、書き続ける力が必要ってことですね」


〈うん。最初の一歩はアイデアかもしれないけど、書き切るのは執念だと思うよ〉


 執念は燃やしていたつもりだが、まだ足りなかったということか。


「分かりました。今一度、小説に魂を捧げるつもりで書いてみます」


〈そんな大袈裟に考えなくていいよ。風太君は真面目だなぁ〉


 大黒の笑い声が聞こえる。

 しかし風太は、いたって真面目だった。


「大袈裟なんかじゃないですよ。実際、何度も死にかけてますし」


 大黒の、息を呑む気配がした。


「僕、去年の夏休み、ずっと小説に集中したせいで死にかけたんです。食事も睡眠も取ってなかったのでいきなり倒れたし、体重も二十キロくらい落ちまして。日村……友人が連絡してくれたから偶々助かりましたけど、危なかったみたいで」


 我ながら笑ってしまう。この年齢で、空腹のあまり倒れるなんて。

 当時は独り暮らしをしていたが、この事件を機に実家へ連れ戻された。独り暮らしの方が執筆に集中できたので嫌だったが、その不満はリハビリの大変さで上書きされてよく覚えていない。栄養も筋肉も、一から積み上げる必要があった。


「あと僕、感情移入し過ぎる癖がありまして。……二年前、味覚障害の主人公の話を書いたんです。そしたら僕まで味覚障害になっちゃって、こちらも緊急入院する羽目になりました。多分、こういうのが偶にあるから、親にも才能がないって言われるんですよね」


 これ以降、小説のテーマはもう少し軽めなものにすると決めた。

 親や友人に心配をかけるのも申し訳ないし、身体を労ることにしたが……今思えば、この身体を労るという考え方がよくなかったのだろう。


「大黒先生と話して気づきました。僕は、こういうことが多いから無意識にセーブするようになっちゃったんだと思います。でも、駄目ですよね。小説家を目指すなら、ここで止まっちゃいけない。もっと本気で……命懸けで小説を書かないと」


〈ごめん〉


 久々に大黒の声を聞いたような気がした。

 どこか、焦ったような声だった。


〈さっきまで私が言ったこと、全部忘れて〉


 大黒の声が微かに震える。

 急変した態度に、風太は首を傾げた。何か聞いてはいけないものを聞いてしまったかのような様子だった。


〈風太君は、理想が凄く高いんだね。私なんかじゃ想像できないくらい〉


「そうですか?」


 ピンと来ない話だったので、風太は不思議に思った。


「でも、作家なら皆、このくらい悩んで書いているんじゃないですか?」


 大黒だって、血反吐を吐くような思いで小説を書いているはずだと風太は思った。

 皆、凄い。自分は一作書くだけで死にかけたり頭がおかしくなったりするのに、他の作家たちは平然としている。その辛抱強さにはいつも驚かされる。持って生まれた精神力の差を感じずにはいられない。

 きっと自分は頭が悪い上に根性もないんだろうなと風太は思っていた。頭が悪いから深く考え続けないと小説を書けない。しかし根性がないから、途中で立ち止まる。


〈ごめんね。やっぱり私には、分からない問題かも〉


 心の底から申し訳なさそうに大黒は謝罪した。

 何故か、日村の言葉が蘇る。

 悩むってのは、才能がある人間の特権なんだよ――。

 やはり日村の言葉は信じられなかった。

 俺に、才能なんかない。

 あればこんなに苦労していない。


〈えっと、風太君ってだいちに応募するんだっけ?〉


「はい、そのつもりです」


 肯定すると、大黒は考え込んだ。

 何か気になることでもあったのだろうか。


〈今年、応募するんじゃなくてさ、何年かじっくり時間をかけてみたら? ほら、風太君は就活もあるし〉


 時間を置いてみる。なるほど、そういう方法もあるか。

 月末に間に合わせようという焦りも、筆を重くしている要因の一つかもしれない。大黒の言う通り、今は就職活動の最中だ。正直、集中するには最悪の時期である。


「そうですね。一年くらいかけるつもりで書いてみます」


〈……うん、そのくらい時間かけた方がいいと思う。それ以上でも、いいと思うし〉


 よく分からないが、もっと時間をかけた方がありがたそうな反応だった。

 大黒が「じゃあ」と通話を切りたそうな声を零す。もう夜遅い。悩み事は解決しなかったが、貴重な話が聞けただけでも十分だと思った。


「あ、大黒先生」


 最後に伝え忘れていたことがあると気づき、風太は慌てて口を開く。


「一日早いですけど、デビュー作の発売おめでとうございます。必ず買いますので!」


 この通話が始まるまで、丁度その予定を立てていたところだ。

 純真無垢な態度で風太が祝福すると、大黒が言葉にならない唸り声を発した。強烈な葛藤に苦しんでいるかのようだ。頭を抱える大黒の姿が容易に想像できる。


〈あのね〉


 絞り出したような声で、大黒は言った。


〈風太君に必要なのは、自分を追い込むことじゃなくて、自分を信じることだと思う〉


 そう言って、大黒は通話を切断した。

 スマートフォンを置いて、背もたれに体重を預ける。

 ぎぎ、と椅子の軋む音がした。


「信じる……」


 天井を見つめながら、大黒に言われたことについて考える。

 思えば、疑ってばかりいた。自分の作品や、自分の能力に自信を持つことができず、だから日村の言葉も疑った。才能なんてあるわけがないと、正直今でも思っている。

 それでも、信じるという行為に価値があるのだとしたら、試すべきだろうか。

 自分の才能を信じてくれた人の気持ちが、少しは理解できるだろうか。


 その時――あ、と声が出て、立ち上がった。唐突に十年近く前のことを思い出した。頭の奥底で埃を被っていた記憶が、急に意思を持って目の前に現れたかのようだった。


 初めて自分を信じてくれた人のことを思い出した。

 正確には十一年前のことだ。お盆の時期。当時十歳だった風太は、家族三人で母方の祖父母の家を訪ねた。暇と体力を持て余した風太は大いにぐずったが、しかしそこは田んぼしかない閑静な田舎なので、父は悩んだ末に風太を市の図書館へ連れて行った。


 風太は本を読まない子供だった。だから父はあまり乗り気でないように見えた。義父と義母への気遣いで疲れていたのだろう。息子が図書館で騒いで、周りの利用者の迷惑になることを懸念してか、ソワソワと落ち着かない様子だった。


 しかし蓋を開けば、風太は読書に熱中した。

 最初は文字が大きくて絵が多い、低学年向けの本を読んでいたが、すぐに物足りなくなって文庫本を読み始めた。一度本を読み始めると風太は一言も喋らず、トイレに立った時にちらと父の顔を見たら、今度は父が手持ち無沙汰のようだった。


 トイレから帰ってきて読書を再開しようとしたが、隣の椅子に置いていたリュックサックの中に、宿題の読書感想文が入っていることを思い出した。心置きなく読書に集中するためにも先に気掛かりを断つことにした風太は、読書感想文の原稿用紙を机に出した。


 自分でも驚くほど、原稿を滑らかに埋められた。鉛筆の黒鉛を原稿用紙にくっつけた後は、一度も指を止めることなくスラスラと言葉を綴ることができた。文字を書く速度よりも、頭に文章が湧いてくる速度の方が明らかに速い。風太は不思議な高揚感に浸った。まるで魔法使いになったかのような気分だった。


 完成した原稿を目の前で開いてみせて、風太は鼻息を荒くした。凄まじい達成感があった。読書も面白いが、その時の興奮は読書以上に風太の心を鷲掴みにした。


「君」


 目を輝かせる風太に、若い男が声を掛けてきた。


「さっき、難しい本を読んでたね。内容は分かったの?」


「うん」


「凄いな。……それ、読書感想文? ちょっと見せてもらってもいい?」


 男の見た目はうろ覚えだが、二十代くらいの青年だったはずだ。

 はっきりと覚えているのは、その目である。眼鏡の奥にあるその瞳は、ギラギラと燃えていた。煮え滾る意志。溢れ出る自信。まるで己の中に信じるべき神様を宿しているかのような、その猛々しい炎は、交錯した視線を経由して風太の中にも入ってきた。


 だから原稿用紙を渡した。

 何かが始まるような予感がした。

 青年は一文字も見逃さないよう丁寧に目を動かし、原稿を黙読する。

 そして、顔を上げて、興奮した顔つきで口を開いた。


「君、才能あるよ!」


 ボウッ、と風太の中で炎が灯った。

 全身を駆け巡る血潮が、強い熱を帯びた。

 青年は賞賛に値する部分を細かく説明した。文章が上手い。表現が綺麗。そんなことを言っていた気もするが、その時の風太は訳の分からない感情が去来していて、青年の話を聞く余裕が全くなかった。


 両目から涙が零れた。

 自分でも何故泣いているのかサッパリ分からない。悲しくはないし、嬉しいというのもちょっと違う。ただその涙は止まらず、風太はやがて号泣した。


 それからの記憶は曖昧だ。涙で視界が滲む中、周囲に謝罪する父と、図書館のカウンター裏に呼び出されている青年は見えた気がする。今思えばあの青年は図書館の司書だったのだろう。上司と思しき人に叱られて、頭を下げていた気もする。


 家に帰って取り出した読書感想文の原稿用紙は、グシャグシャになっていた。あの青年がやったはずないので、多分、返された際に自分が強く握り締めてしまったのだろう。


 皺くちゃになった一枚の原稿用紙。

 あれが、あれこそが、風太にとっての最初の一歩で――。

 あの時に褒めてくれた青年こそが、風太の才能を信じた最初の一人だった――。

 この日を境に風太は小説の執筆に興味を持った。中学校に上がったタイミングで一度止めてしまったが、大学で筆章会に入ったことで再び筆を握った。


 俺は孤独じゃない。

 両目から涙が零れた。

 時を超えて、もう一度あの青年から炎を送られたような気がした。


 十年以上前から、信じてくれた人がいたのだ。

 渡会風太には才能があると。ずっと前から、色んな人が信じてくれている。


 静かに、原稿と向き合った。

 この炎を、もう二度と絶やさないと誓う。

 才能があると言ってくれた人たちに、強く応えたいと思った。

 新しい原稿を用意し、一から小説を執筆した。パソコンのモニターに映る真っ白な長方形が、みるみる黒い文字で埋まっていく。


 信じろ。

 俺には才能がある。

 俺は天才だ。


 だから止まるな。

 走れ。


 筆よ走れ――。


 見開いた目で原稿を凝視した。目が乾燥しても、腹が減っても、喉が渇いても、指が疲れても、お構いなしで書き続ける。


 大黒の言っていたことが理解できた。小説は、粘着質な人間にしか書けない。

 粘着するのだ、原稿に。ああするべきか、こうするべきか、色々悩むけれど原稿からは絶対に離れない。己の肉体と、モニターに映る原稿が、粘度の高い液体で繋がっているような気分だった。一体化していく。椅子と、椅子に座る自分と、キーボードと、モニターと、そこに映る原稿が、ネバネバの液体に包まれて切っても切り離せない関係になる。


 液体のネバネバは自信でできていた。正しいと思い続ける力。間違っている可能性を否定する力。面白いものを書いているという自負。この小説には命を賭ける価値があると思い込む蛮勇。そういうものが、粘度をより高くしている。


 貪るように文章を書いた。登場人物の喜怒哀楽を、そっくりそのまま自分も感じる。泣いて、笑って、怒って、哀しみながら、自分だけの世界を書く。


 原稿に魂を込める儀式だった。魂の情報を一文字単位に切り刻んで、次々と原稿に載せていくような感覚がある。だから原稿が文字で埋まるほど、身体が軽くなっていくような気がした。肉体から少しずつ魂が分離して、やがてモニターの向こうに自分の分身が完成するのだ。なんて素晴らしい行為なのだろう。この魂は肉体の檻から解き放たれようとしている。ずっとそれを望んでいたに違いない。


「おい!」


 その時、背後から叫び声が聞こえた。


「何してる! こんな時期に小説なんか書くな!」


 父は激昂していた。

 肩を掴まれ、引っ張られる。だが無駄だった。ネバネバの液体が風太と原稿を繋ぎ止めている。どれだけ身体を揺らされても、どれだけ床に叩き付けられても、風太はすぐにモニターの前に戻ってきて原稿と向き合った。


「何度言ったら分かるんだ! お前は小説を書いたら危ないんだ!」


 叫ぶ父の唾液が、モニターに飛び散った。

 指で拭って執筆を続ける。


「書くな!」


「嫌だ!」


 原稿から目を逸らすことなく、風太は拒絶した。


「書かせて!」


 口角を吊り上げて、風太は叫ぶ。


「書かせて! このまま!」


 目を爛々と輝かせて、風太は吠える。


「書きたい!!」


 炎に突き動かされるままに、風太は願う。


「俺は――書きたい!!」


 部屋中に反響した声が己の耳朶を揺らし、風太は自らの気持ちを改めて理解した。

 そうか。俺はこんなにも小説を書きたかったのか。

 黙り込んだ父を無視して執筆を続ける。かつてないほど早いペースで原稿は埋まっていった。このまま書けば月末までには完成しそうだ。大黒には一年くらい時間をかけると言ったが、生憎もう止まれそうにない。


 筆よ走れ。

 この命が尽きるまで――。

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