第26話

 大学のキャリアセンターに用があったのに、無意識に筆章会の教室へ向かっていた。

 依存してるな、と自嘲する。精神が追い詰められるほど、腹の底から大切にしているものが滲み出た。風太にとってそれは執筆活動と、筆章会という居場所だった。

 先日の合同説明会の後、面接を受ける企業を幾つか決めたので、今日は企業研究の資料を探しに大学へ来ていた。


 予定通りキャリアセンターに向かうか悩んだが、折角ここまで来たんだしと言い聞かせて筆章会の活動場所を覗いてみることにする。時刻は午後四時。この時間なら筆章会のメンバーも何人か教室に集まっているかもしれない。


 徳田と話して揺らいだ決意を、もう一度固める儀式が今の風太には必要だった。

 就職してから再び作家を目指せばいいと思っていた。けれど徳田は、その姿勢に危うさを感じているようだった。このままでは就職も執筆も共倒れになるのではないか。風太の胸中にそんな恐怖が巣食った。


 一方、徳田は今頃、夢中で原稿を書いているだろう。

 青井がどうなったかは分からない。新年会の段階では普通の人生に惹かれているようだったが、青井の傍には大黒がいる。大黒はなんとしても青井を引き留めるだろう。

 風太は誰にも引き留められない。


 もう、いいんじゃないか?

 別に誰も、俺に特別な人間になってほしいなんて思ってないし。

 自分で自分を鼓舞しているだけで充足していたが、いざ誰にも手を差し伸べられないと悟ると寂しかった。小説家の道は父も反対している。物心つく頃からずっと味方だった父が今回ばかりは反対しているという事実を、もっと深刻に捉えるべきかもしれない。


 廊下を歩き、いつもの小教室へ向かう。

 教室に近づくと、ドアが勝手に開き、日村が出てきた。


「日村」


 その名を口にすると、日村は肩を跳ね上げて驚いた。

 不意を突かれたにしても驚きすぎている。

 日村の反応が、風太の中にある疑惑をより濃くした。


「これから帰るとこ?」


「ああ……まあな」


「ちょっと話さない?」


 いつもとは違う真面目な声音で提案した。顔だけは笑っておいた方がいいかな、と思ったが、予想以上に表情筋が動かなかった。そのせいで変な迫力でも出てしまったのか、日村は唇を引き結んだまま頷いた。

 廊下を歩き、階段を下り、校舎を出る。その間、二人とも無言だった。

 日村と一緒にいて、こんなに長い時間無言が続くのは初めてだった。


「俺、日村に何かした?」


 ゆっくりキャンパスを歩きながら、日村に訊いた。

 そこで首を傾げない時点で、疑惑は確信に変わる。いや、黙ってここまでついて来た時点でとっくに確信はできていたか。

 ここ最近、日村に避けられている。

 原因は自分にあるのだろうか。


「違う」


 日村は首を横に振った。


「俺は、風太の足を引っ張りたくないから、風太から距離を取った」


 視線を合わせずに言う日村に、風太は眉を顰めた。


「どういう意味?」


「さぁ。そのうち分かるだろ」


「そのうちって、いつだよ」


「一年後か、二年後か。そう遠くないんじゃないか」


 何を言っているのか意味が分からなかった。

 かつてないほど熟考するが、日村の答えがどこまで迂遠な言い回しなのか、何をぼかしているのかすら皆目見当がつかなかった。


 足を止める。このまま歩き続けていると、無言のままキャンパスの外に出てしまう。

 そんな風太を見て、日村は「察せよ」と笑いながら足を止める。


「俺は凡人だから、天才の邪魔をしたくないんだって」


 ようやく目を合わせた日村は、やはり訳の分からないことを言った。


「天才って、俺のこと?」


「他に誰がいるんだよ」


「……小説のこと?」


「他に何があるんだよ」


 日村が、呆れた様子で吐息を零す。


「そんなわけ、ないだろ。だって俺、一度も長編を完成させたことないし、今だって結局プロになれてないから、悩みながら就活してるわけだし」


「普通は悩まない」


 僅かな苛立ちを声に含んで日村は言った。

 しかしその顔は悲しげに曇っていた。目の奥で寂しさが揺れていた。今朝、風太が鏡の前で見た顔とそっくりだった。


「プロを目指すかどうかなんて、普通は悩まないんだよ。……俺は、どれだけ小説を書いても、プロになれる手応えを感じなかった。だから悩んだことがない。就活が始まったら小説の執筆は卒業する。俺にとっては当たり前のことだ」


 お前には理解できないだろう? 日村の目がそう告げる。


「でも昔は、一緒にプロを目指すって言ってたじゃないか」


「昔はな」


 笑い飛ばすように日村は言う。


「昔は俺でも目指せると思ってたんだ。でも、風太が俺の目を覚ましてくれた。……俺はお前にはなれないよ。どう足掻いても天才にはなれない」


 日村は微かに歯を震わせていた。

 あたかも風太のことを恩人のように語った日村だが、当然それは言葉の綾で、本心では憎んでいるに違いない。日村は夢を見ていたかったのだ。可能性を信じたかったのだ。でもある日、突然叩き起こされた。風太のせいで。


 え、諦めるの? ――他人事のように問いかけた風太に、果たして日村は何を思っただろうか。専門学校の講義があったあの日、就職活動に専念すると風太に告げた日村は、その内心でどれほどの黒い感情を渦巻かせていただろうか。

 そして今、その全てを抑えて対話に応える日村は、どれほど大人なのだろうか。


「風太。悩むってのは、才能がある人間の特権なんだよ」


 大人が子供を諭すような口調で、日村は言った。


「全部終わってからまた集まろうぜ。俺たちは、風太の邪魔をしたくない」

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