第25話
三月の頭。風太は合同説明会に参加した。
東京ビッグサイトに有名企業のブースが密集している。大学祭みたいな雰囲気だなと思ったが、道行く人たちの顔つきはまるで違った。それは風太も同じだ。三万円するリクルートスーツに身を包み、自分の未来を委ねていい企業を真剣に探す。
この時期になると、幾つかの決意と諦念ができる。
まず、諦念。残念ながら就職活動からは逃げられそうにない。だいち小説賞に応募したとしても、その結果が出るのは半年以上も先だ。それまでの間、親の脛をかじることはできない。厳しい父はそのような生き方を絶対に許さないだろう。どうせ働くなら就職した方がいい。そう思った。
そして、決意。就職した後もプロの小説家を目指す。というより、プロを目指す以外の生き方が自分にはできないと確信した。作家志望の新年会が終わった後、日村や青井のように自分も普通の道へ進むべきではないかと悩んだが、その度に流木の塊に撥ねつけられた。風太は、日村や青井よりも、徳田ベトと名乗った男の方に惹かれていた。
日村のことを考えていると、一週間前のことを思い出す。
今日の合同説明会は日村を含む筆章会の同期たちと参加する予定だったが、一週間くらい前に日村から別々で行こうと連絡があった。日村もそうだが、筆章会の同期たちは専攻している学科がバラバラであるため、関心のある業界が異なる。遊びで行くわけじゃないし、その方が効率的かと思って了承したが、よく考えると元々皆で行動するのは会場の前までで、その後は別行動を取るという約束だったはずだ。
妙な不自然さを頭の片隅で感じつつ、目に入ったブースの説明会に参加する。
説明が終わった後、アンケート用紙に大学名やメールアドレスを記入して、人事の女性に渡した。パイプ椅子から立ち上がり、次はどのブースに行くか考える。
大体どのブースも説明会のスケジュールが同じためか、風太が会場を歩き出す頃には常に通路が混んでいた。大勢の学生が同じ姿をして同じ方向に歩いている。
流木――。
胃の辺りがきゅっと傷む。ここにいていいのか不安になる。
ごめん。今だけ掴ませてくれ。祈りの邪魔はしないから。いつか必ず離れるから。
深呼吸して視線を遠くにやった。すると、そこに見知った人物がいた。
「日村?」
近づいて声を掛けると、日村は一瞬だけ振り返り、焦った様子で去って行った。
避けられている?
まさかな、と思った。避けられる理由がない。何か急いでいただけだろう。
腹が空いたのでコンビニでおにぎりを買い、会場のベンチに座って食べた。その後、再びブースを見て回る。
合同説明会は午後五時まで続くが、興味のある企業は一通り見て回れたので、風太は三時を回った頃にビッグサイトを後にした。
真っ直ぐ家に帰るつもりだったが、駅のホームで電車を待ちながらSNSをチェックすると、新年会の幹事を務めた男が都内のとある書店をオススメしていた。折角なので寄ってみようと思い、階段を下りて向かいのホームへ移動する。
書店の最寄り駅で降りて、慣れない街を歩いた。
そこで、思いがけない再会があった。
「徳田先生!」
未来の自分かもしれない、孤立した流木を発見した。彷徨うように街を歩いていた彼は少し驚いた様子で振り返る。
徳田の行き先も例の書店だったらしく、一緒に行動することになった。
徳田は風太の服装を見てすぐに就活生だと気づいた。話の流れで徳田がフリーターであることも発覚して、徳田は気まずそうな顔をしたが、風太は嫌悪感の類いを一切抱かなかった。むしろ、それでこそだと思った。
「徳田先生。ちょっと相談に乗ってもらっていいですか?」
徳田は戸惑いながらも頷いた。
例の書店はカフェが併設されている。徳田が注文するので、風太は席を確保した。
「進路に悩んでまして」
対面に座った徳田に、風太は端的に悩みを切り出す。
考えを整理する時間が欲しくなったので、コーヒーを一口飲んだ。思ったよりも熱かったので舌を空気に曝して冷やす。
「サラリーマンになるつもりだったんですけど、この前の新年会で色んな人と話して、やっぱり小説家になりたいって強く思ったんです。でも僕って、実は今まで一度も小説を完成させたことがなくて」
進路については決意も諦念も出揃っているはずだった。だが、あわよくば、やはり今すぐにでも小説に専念したい自分がいた。徳田の世捨て人のような面構えを見ていると、引き出しの奥に一旦仕舞ったはずの本心がひょっこり顔を出す。
「長編が書けないのは、やる気の問題か?」
「多分、そうです。途中でダレてしまうというか」
今月末にだいち小説賞へ送る予定の原稿は、まだ完成していなかった。
焦りはある。だが就職活動から逃げられないと気づいて諦めた時、連鎖的にこの焦りもどこか他人事のように感じてしまった。
どれだけ悩んでも分からないのだ。
自分が、長く小説を書けない理由が。
もしかすると、自分以外のどこかに問題があるんじゃないかと思う。
どこか、ここではない、身体から分離したよく分からないところ。それこそ魂とか前世とか、そういう手の届かないところに原因がありそうだった。
現実的に考えても、遺伝子の問題という線はありそうだった。調べたところ、努力を継続する能力は遺伝子の影響を受けているらしい。両親はどちらも勤勉だが、家系図を遡ればどこかに自分と同じくらい怠惰な人間はいるだろう。
「就活してるってことは、小説家を目指してないんじゃないのか?」
顔が強張るのを自覚した。
やはり、そうなのか?
侍に斬られたような気分だった。敵は目前。進むべき道は一つ。なのに、おめおめと生き長らえようとする風太の背中を、徳田は士道不覚悟としてバッサリ斬った。
「仕事しながら小説を書き続けるのは簡単じゃないぞ。平日の朝から晩まで働いて、家に帰って小説を書くのは結構きつい。頭が疲れて一文字も書けない日だってある」
おめおめと逃げ帰るなら、今ここで刀を捨てろ。
徳田はそう言っていた。
「だから、フリーターになったんですか?」
だから貴方は、そんな世捨て人みたいになったんですか?
風太の問いかけに、徳田は顔を顰めた。
「俺は、ただの社会不適合者だ」
徳田は己の罪を告白するかのように語り出した。
小説はもう書いていないこと。その理由は家族とのトラブルとのこと。小説を書くことに逃げて、他の全てを疎かにしていた自分が嫌になったこと。
――もう書いていない?
有り得ないと思った。
確かに徳田の足元には、切り捨ててきた様々な物事が転がっていた。容姿、年齢、経済力、人間関係。徳田はこれらに罪悪感を覚えているようだが、全く共感できない。
徳田には、特別な人間になりたいという野心と、それを行動に移す胆力ある。野心だけ持っていて胆力がない風太にとって、徳田の足元に転がる物事は、まるで栄光へ至る架け橋を積み上げている最中に見えた。
こんなにも、みっともない人間になるまで、何かに夢中になれる。
たとえ現実逃避だとしても羨ましい。
「徳田先生は、後悔してるんですか?」
「してるよ」
「なんでですか。勿体ないですよ。これからも小説書きましょうよ」
使命感に駆られた。
この人を、正気に戻さねば。
「僕、本当に普通の大学生なんです。周りにいる友達も皆普通です。だからこそ知ってます。普通の人は、そんなふうに一つのことに打ち込めないです」
自分が普通だと知っているからこそ、徳田を引き留めねばならなかった。
普通の人間が、普通と決別することがどれほど難しいのか、きっと徳田は知らない。
だが知る必要はない。生まれつき流木の塊から拒まれているようなこの男には、真っ直ぐ突き進んでほしかった。
日村の時とは訳が違う。彼は普通の世界に行っても、きっと馴染めない。
徳田の境遇は欠陥ではないと思った。
それは強みだ。それは武器だ。それは特権だ。
俺が求めているものなんだ。
「普通が一番幸せだよ」
「そんなわけないじゃないですか」
泣きそうになりながら、風太は言った。
「そんなわけないから、僕も徳田先生も小説を書いてるんじゃないですか」
そう告げた直後、徳田の顔面を覆っていた暗雲が晴れた。
まるで心に新風が吹き込んだかのように、徳田はその目を見開いている。
俺も救ってくれよ――。
ズルいと思った。今、徳田は救われたのだ。なら俺は? 俺は誰に救われたらいい?
大学祭で青井と会ったことを思い出す。大黒は、青井と風太を引き合わせたかったと言っていたが、あの時、風太はなんとなくダシに使われているような感覚があった。恐らく大黒は、青井を救うために自分を紹介したのだろう。
いつも俺は、与える側だ。
偶には誰か救ってくれ。
「風太君、ごめん。そろそろ俺は帰るよ」
清々しい表情を浮かべて、徳田が立ち上がった。
脇目も振らずに立ち去る徳田の背中を無言で見届ける。徳田はこの後、家に帰ったら手も洗わずに原稿と向き合い、貪るように文字を書き殴るのだろう。
風太は拳を握り締めた。
何故、俺にはそれができない。
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