4章:渡会風太

第20話

 専門学校の体験講義は午後四時に終わった。

 大学三年生の冬。こんなことをしているのは自分だけかもな、と思いながら風太は駅の改札を通る。就職活動に力を入れなくてはいけないこの時期、親にはインターンシップがあると嘘をついて家を出てきた。一日限定の体験講義とはいえ、まさかアニメや漫画の専門学校に顔を出しているとは思うまい。


 ホームに着くと一陣の風が吹き抜け、ぶるりと身体を震わせる。先週までは秋らしい気温だったのに、今週から急に寒波が来て、涼しいどころではない極寒の風が吹くようになった。急な気温の変化についていけない人が多かったのか、広い駅のホームに人影はポツポツとしか見えない。その中にはスーツを着ているサラリーマンの姿もあった。土曜日だというのにお疲れ様です、と心の中で唱える。


 講義を受けた直後は心の中で情熱が燃えていた気もするが、この寒さで心も頭も一気に冷めてしまった。現実を見ろ、と神様に言われた気分になる。寂れた駅のホームで、背中を丸めて寒さに耐えるサラリーマンたち。あれがお前の未来だと神様は言っていた。社会とか、世間とか、そういう名前の神様が。


 筆章会に行こう。

 胸中に形容し難いモヤモヤが蓄積した時、風太は決まって大学のサークルに足を運ぶことにしていた。筆章会という名の文芸サークルには、風太の仲間が大勢いる。


 電車で運ばれること三十分。遠山大学の最寄り駅に着いた。商店街を抜けてキャンパスへ到着すると、広場に植えられた一本の樹木が目に入る。ちょっと前までは青々とした葉っぱを生やしていたはずだが、今ではすっかり痩せ細っていた。

 サークルの活動場所である文芸学部の小教室は、土曜日でも空いている。筆章会のメンバーには下宿している人たちも複数いて、彼らは休日もよく来ているらしい。


「あれ、風太」


 教室に顔を出すと、同級生の友人である日村が声を掛けてきた。

 去年までは髪を伸ばして一つに結んでいた男だが、就職活動を機に短く切ったことで随分爽やかな印象になった。髪を切るまでは長髪にこだわっていたはずだが、今ではすっかり短髪を気に入ったのか、また以前よりも短くなっている気がする。


「風太が休日に来るのは珍しいな」


「専門学校の体験講義を受けてきて、終わったからついでに来たんだ」


「ああ、前に言ってたやつか。メディア・エンタテイメント総合学院だっけ」


 一緒に行かないかと誘った時は即答で断ったくせに、学校の名前は律儀に覚えているようだった。風太は鞄から専門学校のパンフレットを取り出す。


「パンフレット貰ったけど、見る?」


「見る」


 風太からパンフレットを受け取った日村は、パラパラとページを捲った。

 教室には日村一人しかいなかったが、机の上に空になったスナック菓子の袋が二つ広げられていた。一人で食べる量ではない。直前まで何人かいたのだろう。すれ違いになってしまったか、と少し落ち込む。


「風太って、ライトノベルも書くんだっけ?」


 パンフレットを読みながら日村が質問した。


「まだ書いたことないけど興味はあるよ。そのうち書くかも」


「ふぅん。誰の講義がよかった?」


「どの先生の講義も面白かったけど、魚棲先生のが一番分かりやすかったかな」


「魚棲先生……知らない人だな」


 日村がスマートフォンで魚棲について調べた。しばらくすると、あぁー……と、呆れたような、残念そうな声がする。


「なんていうか、あれだな。最近流行りの粗製濫造タイプ。とにかく量を出すというか」


「いや、でも本当に凄い執筆量なんだよ! 本を出している量なら他の先生よりも圧倒的に多いし! だからモチベの原点を知りたかったんだけど……」


「出たよ、ピュア風太。お前、どんな相手でも尊敬するもんな。おかげで俺たちも自己肯定感マシマシだわ」


 あまり納得していないが、風太は筆章会で、ピュア風太という渾名が定着していた。

 純粋と言われて喜ぶ歳ではない。どちらかと言えば分別くささに憧れる年頃だ。


「まあ結局デビューできなかったけどさ。……そろそろこの趣味とも卒業だな」


 寂しく笑う日村に、風太は目を丸くした。


「え、諦めるの?」


「就活あるし。働きながら原稿書くのはしんどいだろ。俺はこの辺で筆を置くよ」


 悲しそうな顔をしているが、覚悟を決めた者の語気を感じた。引き留めるなよ? と暗に言われているようだった。風太は唇を引き結ぶ。


「風太は? これからも書くのか?」


 その問いに、風太は答えられなかった。

 沈黙する風太に、日村は微笑む。


「まあ、俺もプロになることを諦めるだけで、小説はこれからも読み続けるからさ。また小説が完成したら読ませてくれよ。俺、風太の小説めっちゃ好きだから」


 んじゃ俺、明日面接あるから、と言って日村は教室を出た。

 その背中に掛ける言葉は終ぞ見つからず、一人になった風太は天井を仰ぎ見る。


 引き留められなかった。まだプロを目指してもいいだろうとは言えなかった。日村の気持ちもよく分かる。夢に生きる道は、あまりにも険しすぎる。

 季節が移ろい、景色が移ろい、心も、気持ちも、夢も、覚悟も、生き様も、何もかもが移りゆく時期だった。決して目まぐるしく変化するわけではない。穏やかに、緩慢に、しかし多くを巻き込んでいく大波のように、変化は力強く訪れている。


 大波のうねりに攫われたこの身はどうすることもできず、抵抗しようものなら四肢が千切れる覚悟を決めねばならなかった。しかし目を閉じて身を委ねてしまえば、存外心地のよい波でもあった。だからほとんどの人は身体の力を抜き、波に行き先を任せている。不安な人は隣の人と手を繋いで瞼を閉じる。大丈夫。怖くない。皆一緒だから。そんな囁き声がそこかしこから聞こえてきた。


 青春って、こういうものかな。

 ここに来る途中で見かけた、枯れ果てた樹木を思い出した。青と春。どちらもいずれは過ぎ去っていくものだ。青はやがて腐り、春はやがて枯れる。決して継続しない一瞬の煌めき。それが青春の定義なのかもしれない。


 だとすると、風太は青春を謳歌したかったわけではない。

 人と話して気を紛らわすために来たのに、誰もいないようじゃ意味はなかった。風太はとぼとぼと帰路に着く。


 電車に揺られながら、スマートフォンでプロの小説家になる方法を調べた。

 新人賞を受賞する王道のパターンもあれば、昨今はウェブ小説からのデビューも主流なやり方になりつつあった。後はコネを使ってのデビューだ。新聞記者とか放送作家などが出版社との伝手を得て、本を出してみることはままあるらしい。

 ウェブ小説からのデビューはライトノベルが中心だし、コネを手に入れられるのはその時点で選ばれし一握りの者だけの気がした。残された道は一つしかない。直近で、何かいい新人賞はないか探してみる。


 だいち小説賞が見つかった。有名な文学賞なので名前は知っているが、毎年三月が締め切りというのは初めて知った。ジャンルは自由。最低文字数は八万文字……。


 八万文字は、書いたことがないなぁ。

 電車を乗り換えるため駅のホームに降りる。冷たい風が頬を撫でた。


 風太はプロの小説家を目指している。しかしその熱量は己でも計りかねた。

 何故なら、未だに長編を完成させたことがない。

 両親が読書家で、その影響を受けて大学では文芸サークルに入り、活動の一環として小説を書いたら夢中になった。以来、風太はプロを目指して小説を書き続けているが、一度も長編を書き切った試しはなく、自身の才能と熱量のなさに日々辟易していた。


 プロになりたいとは思っているが、こんな自分が言ったところで説得力もない。

 日村を引き留められなかったのも、その資格がないと自覚しているからだ。

 これでも書いた小説の評判は悪くない方だ。お世辞の可能性も否定できないが、サークルの皆からは一番上手と言われる。憧れてくれる後輩もたくさんいる。


 ウェブ小説を投稿したこともあった。ライトノベルが主流の中で普通の小説を出してしまったから、注目は浴びなかったが、読者からは「感動しました」「泣きました」といった感想をよく貰う。自惚れる気はないが、流石に全てがお世辞だとは考えにくい。


 つまり、才能以前にやる気がないだけだ。

 熱量がない。根性がない。

 単純で深刻な問題を前に、風太は項垂れた。


 やる気が続かないという意味ではそもそも才能もないのだろう。ちょっと手先が器用というか、要領がいいだけだ。スタートダッシュは速いけど、走り続けているうちに色んな人に抜かされ、最終的な順位は平均に落ち着く。


 波に、身を委ねた方が賢明なのかもしれない。

 電車に乗ると椅子が空いていたので座った。軽い震動が眠気を誘い、乗り過ごしてしまう不安はあったが、疲れていたので半ば投げ遣りに目を閉じた。

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