第19話
いつ家に帰ったのか、よく覚えていない。
ただ、横断歩道の赤信号を見て、ここで死ぬべきか悩んだことだけは覚えている。小説で歴史に名を刻むより、適当に身投げでもした方が簡単に有名になれそうな気がした。亡者として生き続けるなら、いっそ……と思ったが、結局死にきれず帰ってきた。
部屋の電気とパソコンを点けた後、徐に本棚から一冊の小説を取り出した。『因習と魔法使い』、感慨深いはずのデビュー作だが今の智規には色褪せて見える。
ページを捲って中身を読んでみた。……なるほど、確かに個性はない。田舎の牧歌的で閉鎖的な環境の描写など、頑張っているところは頑張っているが、はっきり言って作家性を感じる内容ではなかった。
数字ばかりを見てきたせいで、忘れてしまったのではない。
最初からなかったのだ。自分の書きたいものなんて。
加賀の嘲笑うような表情を思い出す。彼には全てお見通しだったのだろう。伊達に何十年と作家を続けていない。
それでも食っていけるなら構わないじゃないか、というのが加賀の言い分だった。
だが智規は嫌だった。
自分に書きたいものがないと分かっても、それでもなお唯一無二に焦がれる。今やオリジナルなんてものは存在せず、全ては焼き直しであるという意見もあるが、それでもオリジナルを模索するのが作家の使命だと智規は思っていた。
思っていただけで……その使命を負う資格は備わっていなかった。
笑ってしまう。
信念だけ膨らんで、技術はまるで追いついていなかった。いや、技術どころか、その信念自体も空っぽだったと見抜かれた。
こうなると大黒の称賛も本物か疑わしい。彼女は智規の作品を素敵だと言っていたがあれはお世辞だろうか。或いは、言いたくはないが彼女には見る目がないのだろうか。
再び本棚に手を伸ばし、これまでに自分が書いてきた小説を全て取り出した。
出した本を床に並べる。全部で二十八冊。うち文芸はたったの六冊。
どれもジャンルがバラバラだった。まるで何を書きたいのか分からない作家が、思いつくものに片っ端から手を出しているような、芯のない仕事っぷりに見える。加賀が鼻で笑ったのも、智規のこういう出版歴を知っているからだろう。
しかし、ここに並べたどの作品にも、智規の想いが込められていた。
たとえばデビュー作である『因習と魔法使い』。この小説を書いた切っ掛けは、当時の智規が就職活動という行事に疑問を感じたからだった。就職活動も成人式も受験も、ひょっとすると規模が大きいだけの因習ではないかと思い、それをテーマに書いた作品だ。都会の人間を魔法使いに喩え、就職活動などの行事を田舎の因習に喩え、旅の魔法使いが狭い田舎の因習を是正していく物語を構築した。
ん? と首を傾げた。
些細な違和感。
いや、これは既視感だ。つい最近も似たような展開を書いた気がする。
一番新しく出版された小説を手に取り、黙々と読み進めた。
それはライトノベルだったが、テーマは近いものがあった。レジスタンスが管理社会に抗う物語で、こちらも社会のルールに反逆することをテーマとしている。
他の小説も手に取り、読んだ。
切り口や世界観の違いはあるが、根底にあるテーマは全て同じ。理不尽で抗いがたい規則への逆襲だ。
決してテーマを使い回しているわけではない。それは、文章に込められた己のこだわりが証明している。あの頃の自分の想いが、濁流の如く胸に流れ込んできた。
顔を上げ、目を見開く。
そうか。
俺はこれが書きたかったのか――。
じわり、と涙が瞳を覆う。
書きたいものなんて存在しないと思っていた。自分の信念は空っぽだと思っていた。けれど、無意識に積み上げていたのだ。今まで必死に書いてきた作品たちが淡く光り、星座のように繋がって、自分ですら把握していない心の形を示してくれた。
書きたくないものと思って書いた小説たちですら、光って見えた。いや、下手したらそういう小説の方が強く光っていた。肩の力を抜いて書いたからだろうか。意図していなかったにも拘わらず、より鮮明にこだわりが表面に出ている。
この感情の原点を、智規はすぐに理解した。
壁を越えたい。ずっとそう思っていた。だから作品にもその想いが込められた。どうしようもない壁を、ルールを、破壊してその先へ向かう物語を好んだ。
――加賀め、見誤ったな。
俺にもあったぞ。
書きたいものが。
自分だけの世界が――!!
床に本を並べたまま、智規は椅子に座って真っ白な原稿と向き合った。
ジャンルはどうする?
一文字も埋まっていない新しい原稿を前にして、智規は悩んだ。
書きたいものは、壁を越える物語。
実現したいのは、世の中を変えること。
この二つさえ叶えば他にこだわりはない。人を生かす小説でも、人を殺す小説でも、ミステリーでも、ファンタジーでも、時代小説でも、恋愛小説でも、なんでもいい。
ふと、加賀に言われたことを思い出した。
個性的な作品を書きたいなら――。
「……書いてやる」
私小説を、書いてやる。
誰の足跡もない初雪の如き原稿に、思いつく限りの文章を注ぐ。
己の経験をそのまま書く私小説というジャンルは、智規にとって初めて挑戦するものだった。書けば書くほど自身の未熟を赤裸々に暴露しているようで、何度も筆が止まる。
だが同時に、自由だった。
思想も信念も、全てを余すことなく叩き付けることのできるジャンルだった。書いて初めてそれを知った。いつしか筆は進み、智規は私小説というジャンルを愛し始めた。
売り言葉に買い言葉のようなものだ。
加賀に乗せられた形で私小説を書いている自覚はある。加賀から言わせれば、これもまた智規の書きたいものではない。
自分はただ、その場限りの悔しさを原稿に吐き出しているだけかもしれない。
しかし、こういうものだと思った。
小説家とは、物書きとは、こういうものだ。
突きつけられた現実に納得いかず、みっともなく穴倉に逃げ込んで泣き寝入りする。しかし後から怒りが込み上げ、咄嗟に言葉にできなかった気持ちが周回遅れで整理整頓されていく。持て余したこの感情をどうにかしたくて、けれど今更説き伏せようにも相手の興味はもう失せていて……。
だから原稿に書くのだ。
書いて、書いて、書いて、書き殴る。晒した恥を掻き消すように。逃げられない後悔と独りよがりな決着をつけるために。
小説家は、愚鈍な人間のための職業だ。
俺にぴったりだ――。
魚棲清水。清水に魚棲まずという言葉から取った筆名。あまりにも清らかな水には魚が住めないということから、清廉潔白な人間はかえって親しまれず孤立してしまうという意味を表わしている。
だが作家は孤独であるべきだ。
孤独の中で感じた美徳を筆に込めるべきだ。
この胸にある純粋な気持ちを貫くと決めた。きっと加賀のような、多くの人に慕われるような作家にはなれないだろう。それでも構わない。才能のない自分が、彼と同じ道を歩んだところで、彼と同じ領域にはきっと至れないから。
孤独でいい。分かり合える相手なんていなくてもいい。
だから代わりに――その席を寄越せ。
これは復讐だ。
私小説で成功し、この末期の業界に一石を投じてみせる。そして加賀に一泡吹かせ、己の見る目のなさを痛感してもらう。
無心になって、智規は書いた。
理不尽で抗いがたい――天才を殺すための小説を。
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