第18話

 十二月の中頃、謝恩会は行われた。

 会場には既に大勢の関係者が集まっている。作家、編集者、装丁家、校正、他にも出版社と関わりのある企業の役人などが大広間で歓談していた。


 胸元に名札をつけながら、智規は宴を眺める。これ見よがしに高級なスーツやドレスを身に纏った大人たちが、丸いテーブルを囲むように立食していた。伸び伸びとワインを飲みながら優雅に語り合う彼らを見て、智規はつい視線を逸らしたくなる。


 立派な服を着て、立派な会場に赴き、立派な料理を口にする。ただそれだけでこうも景気がいいと錯覚できる。だが直前までこの業界に鬱屈としたものを感じていた智規は、目の前の光景に作り物めいた違和感を覚えた。

 或いは皆、本当は気づいているのかもしれない。


 皆、酔わなきゃやってられないのだ。

 末期だと思った。


「以上で、第十九回ファンタジー小説大賞の授賞式を終わります」


 司会を務めた編集長の男がそう言うと、会場の来賓たちが拍手した。

 壇上に立つ今年の受賞者を見る。大黒三郎。ペンネームから男だと思っていたが、まさか女性だったとは。しかも若い。才気溢れる新人作家だ。


 また一人、椅子取りゲームの参加者が増えた。

 出版社や編集者が大切にできる作家の人数には限界がある。小さな椅子にしがみついている智規にとって、新入りの突き上げほど恐ろしいものはない。


「魚棲先生、お疲れ様です」


 樽みたいな体型の男が、ワイン片手に声を掛けてきた。

 三谷誠司という筆名を思い出す。確か去年の謝恩会で親しくなった同業者だったか。

 テーブルから離れて佇んでいたのだ。話したくないというこちらの意図を汲み取れないのだろうか。無遠慮な距離の詰め方に苛立ちを覚えたが、よくよく考えれば謝恩会に来ているのに人と話そうとしない自分の方が失礼だと気づいた。


「先生、偶には文芸の世界に帰ってきてくださいよ。こっちは今、厳しいですよ」


「知ってますよ。厳しいからなかなか戻れないんですし」


 智規が文芸の世界から離れつつあることを、三谷は知っていたようだ。

 今は雌伏の時。そう思って耐えてきたが、傍から見ればやはり牙が抜けたように見えているらしい。

 虚しい気持ちで返事をすると、三谷の顔が微かに明るくなった気がした。苦労を分かち合える相手とみなされたのだろう。屈辱だが否定できない。


「いや、ほんと、難しい世界ですよね。何が売れるかサッパリ分からない。魚棲先生は最近の市場についてどう思います?」


「分析はしてますけど、正直、人に伝えられるほどではありませんね」


 その分析で痛い目に遭ったばかりだ。

 思い出した。三谷とは去年の謝恩会で意気投合し、業界に対する不満を語り合った。

 だがその日、家に帰って智規は憂鬱な気分になった。売れていない人間同士で業界に対する愚痴を吐き続ける。まさしく敗者のやることだと反省した。酒のせいで誤魔化せていたが、あれはただの傷の舐め合いだった。


 嫌な記憶だったから忘れていたのだ。そして思い出した以上、再びこの男と傷を舐め合うつもりはない。


 売れていない作家同士で何が売れるか議論しても無駄でしかない。互いに自分たちが売れていないことを棚に上げて、創作論を語り合うのだ。鋭い意見を述べても、斬新な発想だと思っても、冷静に考えたら俺もコイツも冴えない作家。そういう現実から目を逸らすと、一人になった時に現実が帰ってきて悲惨な気分になる。


 売れている作品の売れた理由なんて誰にでも言えるし、売れなかった作品の売れなかった理由だって誰にでも言える。言った者勝ちでしかない意見を、如何に賢しらに言えるか競い合う。そういうままごとみたいな会話がこの業界の至るところで発生していた。或いは大御所ごっことでも呼ぶべきか。

 ろくに結果も出していない作家がスカした態度で物申す。そういう光景を見ると智規は吐き気を催す。この感情は同族嫌悪に他ならない。自分が持て囃されるのも気色悪いし、自分以下の作家が持て囃されていたらいよいよ周りの人間の正気を疑う。


「魚棲先生はライトノベルで成功してますけど、そのノウハウをこっちに持ってくるのはできないんですか?」


「ライトノベルでも成功してませんよ。従ってノウハウも糞もありません」


「またまた、景気いい感じじゃないですか」


 妙に会話を長引かせているが、その理由が分かった。

 仕事を紹介して欲しいようだ。

 ここにも一人、ダイヤ探しに疲れて食うに困った作家がいる。

 天井のシャンデリアも、格式高い食事も、絨毯の柔らかさも、全てが嫌味に感じた。

 もう面倒臭いなと思った。


「仕事の紹介なら、あそこにいる加賀先生の方がいいと思いますよ」


 三谷が目を剥いてぎょっとした。欲得を見透かされて驚いたようだ。

 分かりやすい擦り寄り方をしている自覚がなかったらしい。浅はかだなと思いつつも智規は馬鹿にできなかった。一歩間違えれば自分もそちら側だ。


「加賀先生には僕も後で挨拶に行く予定なので、またそこで話しましょう」


「え、ええ、では失礼します」


 小太りの男が去って行く。

 一難去ったような気分になって溜息を吐くと、一人の女性が近づいてきた。見計らったようなタイミングで来たが、その顔を見て智規は驚く。


「はじめまして。大黒三郎です」


「……魚棲清水です」


 毎年、受賞者は色んな人に囲まれてちやほやされている。大黒もその例に漏れず、さっき一瞥した時は編集者やデビューしたばかりの作家たちに囲まれていたはずだが、わざわざ抜け出して来たのだろうか。


 一応、智規は八年前にファンタジー小説大賞を受賞した先輩にあたるため、後ほど余裕があれば挨拶しようとは思っていた。しかし向こうから挨拶されるとは思わず、智規は驚きながら話のネタを探す。


「その、女性とは思いませんでした」


「よく言われます。狙い通りって感じですけど」


 大黒は慣れた様子ではにかんだ。

 なるほど。骨のある新人だ。

 ペンネームを敢えて男らしくしたということは、そういうことだろう。今時、女性作家というだけで苦労することはそんなにないと思うが、これは男性目線だからこその考えかもしれない。いずれにせよ大黒が慎重に慎重を期す性分なのは間違いなかった。


「魚棲先生、あとでサイン貰ってもいいですか?」


「それは、まあ、僕でよければ」


「実は魚棲先生の作品、かなり好きでして。幻想的だけど寂れた世界観って言ったらいいんでしょうか。どの作品にも読後の余韻があって、素敵だなって思ってて」


 恥ずかしそうに語る大黒に、智規も恥ずかしくなった。

 ちゃんと読んでくれている人だ。だからわざわざ会いに来てくれたのか。

 ファンを相手にしていると思うと、つい背筋を伸ばしてしまう。幻滅されたくない。


「ファンタジー小説大賞に応募したのも、魚棲先生の影響なんです」


「そうでしたか。身近にファンがいたことないので、素直に嬉しいです」


「私もお会いできて嬉しいです。……あ、でも私、一番のファンは別にいまして」


 上げて落とすなと思った。

 この女、魔性か。


「大学時代の文芸サークルの同期がいるんです。その子もプロを目指してて、いつかここに来ると思います。私、その子の書く小説が一番好きなんです」


「……羨ましいですね。僕はそんなふうに切磋琢磨できる仲間がいないので」


「私も恵まれているなって思います。まあ最近、何故か連絡くれないんですけど」


 既に暗雲立ち込めているようだった。

 顔に影を落とす大黒を見て、智規は他の話題を探す。


「そういえば僕も二ヶ月くらい前、大黒さんと同い年くらいのアマチュアの女の子と話しましたよ。プロ志望の子で、アドバイスが欲しいってSNSで連絡されて」


「え、それって大丈夫ですか? ファンに手を出したら問題になりますよ?」


「本当にただ相談に乗っただけですよ。僕のファンってわけでもなかったですし」


 正直、SNSで彼女のことをフォローした時はそんな気持ちもあったが、今は仕事でそれどころではない。


「では、私はこれで」


 大黒が礼儀正しくお辞儀して、離れたところにいた三人の女性と合流した。デビューが決まったばかりの新人で、まだ本は発売していないが、人間関係は順調に築けているらしい。しかしきっと十年後には全く別のメンバーと関わっているだろう。新陳代謝が激しすぎるこの業界では、どんな出会いも一期一会だと思った方がいい。ひょっとしたら大黒が筆を折るかもしれないし、智規が折るかもしれない。


 そう考えると三谷とも一期一会の関係だ。傷の舐め合いはごめんだが、もう少し心を柔らかく保った方が孤独も遠ざけられるかもしれない。


 智規は三谷がいるテーブルに向かった。

 テーブルには大勢の作家が群がっている。中心にいるのは、ダークグレーのジャケットを着た六十歳の作家、加賀泰男だ。

 智規が目標にしている大物作家の一人だった。時代小説の専門家だが、人間の心を繊細に描くその作風はもはや時代小説の域を超えており、老若男女の読者を虜にしている。感涙必須とまで言われる彼の表現力は一つの作家性として昇華しており、直木賞にも何度かノミネートされたことがある、正真正銘の大御所だ。


「おや、魚棲先生」


「加賀先生、お久しぶりです」


 加賀とは面識がある。智規がファンタジー小説大賞を受賞した当時、加賀はその審査員だった。授賞式が終わった後、加賀にテーブルまで手招きされ、審査員目線での意見や薫陶を受けた。君の文章には光るものがある――加賀からそう告げられた時は心底喜び、己の才能を信じられたものだ。


 もしも智規が売れていたら、加賀は恩師だっただろう。

 己の実力不足が、加賀の言葉を軽くしていた。


「魚棲先生、最近は色々書いてるみたいじゃないか」


「はい。でも書いてるだけで、ヒットはしていません」


「贅沢な悩みだな。三谷先生が羨ましがるわけだ」


 加賀の隣に陣取っていた三谷が苦笑いした。仕事を紹介してほしい旨までは加賀に伝えられたようだが、その様子だと欲しいものは手に入らなかったか。


「魚棲先生は学校の講師とかもやっているんだろう?」


「いえ、それはもう辞めるつもりでして」


 加賀はきょとんとした。


「何故?」


「細々とした仕事で食いつなぐことから卒業しようと思いまして。一花咲かせるための時間が欲しくなりました」


 青臭い発言だが、本音だった。

 瑞々しい理想は作家同士なら共感してくれるはずだ。そう思ったからこそ智規は答えたわけだが、予想に反して加賀は神妙な面持ちをした。


「作家は長期戦だよ」


 諭すように加賀は言う。

 八年前、審査員として智規にアドバイスをした時と同じように。


「スポーツとかと違って、大御所たちが老いても引退しないからね。若い作家が才能だけで割り込める世界じゃない。必要なのは長く生きる力だ。俺も昔は苦労した」


 場を和ませるためか、最後に軽く自嘲するように加賀は笑ったが、智規の口角はピクリともしなかった。

 お前の考え方は間違っている。そう言っているのだろう。


「しかし、僕は別に、長生きするために作家になったわけじゃありませんから」


 安定した収入が欲しいならサラリーマンになればいい。だが智規は敢えて小説家を選んだ。不安定な収入と引き換えに、個人が世界に物申せる浪漫を選んだ。


「僕は、世の中に一石を投じられるような小説を書きたいんです。そのためにも才能を磨く必要があると思ったんです」


 加賀は眉間の皺をうねらせる。


「魚棲先生、本業はあるの?」


「いえ、専業です」


「じゃあ十分才能あるよ。小説一本で食っていける人なんてほとんどいない」


「でも、それは書きたいものよりも数字を優先しているだけであって……」


「いやだから、それで数字を出せることが才能なんだよ」


 呆れた様子で加賀は笑った。


「しかし加賀先生は、個性的な作品を出し続けているじゃないですか」


「俺はこれしか書けないもん」


 へらへらと笑う加賀を見て、智規の額に青筋が立った。

 それが才能だって言ってるんだ――。

 分かっていない。天才は分かっていないのだ。凡人の苦悩を、葛藤を、妥協を、諦念を何一つ理解していない。


 この八年間、俺がどんな思いで壁にぶつかっていると――。


 だいち小説賞に挑戦するのも恥を忍んでのことだ。現役のプロ作家がアマチュアに混ざって公募に参加するなんて、プロとして満足のいく結果を出せていないことを自ら露呈しているようなものである。自身の無能を晒す覚悟を、この男は知らない。


「個性的な作品を書きたいんです。今までみたいに売るためのものではなく、ちゃんと自分にしか書けないものを世に出したくて……」


 加賀を殴り飛ばしたい衝動を歯軋りして必死に抑え、言葉を絞り出した。テーブルを囲む他の作家たちの同情の眼差しが苦しい。

 だが加賀は、智規の顔だけを真っ直ぐ見つめる。


「でも君、デビュー作の時点で無個性だったじゃないか」


 ピシリと心に亀裂が走った。

 棚の、一番見つかりにくいところに上げていたはずの過去が、息をするかのように呆気なく発見され、押しつけがましく目の前に下ろされた。


「君は別に、書きたいものがあって、この世界に来たわけじゃないんだろう?」


 加賀の言葉が耳を通り抜ける。それ以上は言われなくても分かっていた。

 八年前のこの日、加賀に言われたことを鮮明に思い出した。


 君の小説は、テーマの組み合わせが新鮮だけど、蓋を開けばなんていうか……ちょっと有り触れた話になっていたのが残念だよ。


 あの時は加賀も今より若く、智規が賞を貰ったばかりの新人だったことも相まって言葉を選んでくれたのだろう。そんな加賀の優しさに甘え、智規はその指摘を取るに足らない些細なものだと受け取った。そして棚に上げた。


 カッと顔が熱くなった。

 そんな智規を見て、加賀は鼻で笑う。


「個性的な作品を書きたいなら、私小説でも書けば? 君みたいな半端者の人生を、金払ってでも知りたい奴なんていないと思うけどな」


 その皺だらけの首を絞めてやろうかと思った。

 だが、なけなしのプライドが殺意を抑える。


 作家なら、作品で勝負しろ。作家であり続けたいならば……。

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