第17話
家に帰って、すぐに原稿を確認した。
だいち小説賞へ送り込む予定だった原稿を、最初から最後まで隈なく読み込む。
トランスジェンダーの主人公が、社会を変えるために権力者を殺していく話だった。主人公はある日、生きづらさの象徴であったトランスジェンダーという身分が、人から忖度される武器だと気づく。その武器と、生来備えていた卓越した話術を駆使して、多くの善良な市民を味方に引き入れて殺人を犯していくという話だ。
半年前、ネットニュースでパパ活女子が大金を騙し取ったという事件を見て、このストーリーを思いついた。立場を利用して人を誘惑する事件は古今東西、存在する。それを昨今、何かと物議を醸すトランスジェンダーというテーマでやってみるというのが智規の試みだった。不謹慎さと新鮮味を紙一重にしたような発想は我ながら面白いと感じ、書いている最中もこれは挑戦的な取り組みだと自画自賛した。
しかし我に返って読むと、なんて浅はかなものなんだと憤慨した。
これは、俺の書きたいものではない――。
とってつけたような社会性と時代性。読者の目を引くためだけの、有り触れたサスペンス仕立てのストーリー。
無意識に、売れそうな要素を適当に掻き集めている。
嫌な予感が当たった。先程、若い死神に殺されそうになった時、智規は自分の書きたいものを見失っていることを自覚した。なら、その状態で書いた原稿が、自分の書きたいものであるはずがない。
この原稿は、手癖で書いたものだ。
長いこと、飯を食うためだけに小説を書いてきた。本当はこんなもの書きたくないと心で叫びながら、ひたすら打算で小説ばかり書いてきた。
その結果、癖になった。
小説を書く前に、人気の題材を調べることが……。
読者や審査員に受けそうなテーマから、逆算して小説を書くことが……。
頭を抱え、悲嘆に暮れる。それでも押し寄せる感情は留まらず、両の拳を机に振り下ろした。モニターが一瞬跳ね上がり、床に落ちて大きな音を立てる。
俺は何をやっているんだ……。
目の前の壁がどれだけ分厚いのか、嫌というほど痛感しているはずだ。その壁を乗り越えたいなら、珠玉の作品を叩き付けなければならない。
こんなのものが、珠玉と言えるのか?
断じて否だ。
不甲斐なさに涙が零れた。この八年は、泥水を啜るような思いで耐えてきたつもりだった。世間からは売れている作家とは思われていないだろう。数字ばかりを重視した、退屈で面白味のない作家だと見られているに違いない。
それでも、虎視眈々と逆転の機会を狙っているつもりだった。いつか一矢報いて、大物作家として文壇に君臨する予定だった。
とうに牙が抜けていることも知らずに――。
八年は長い。その長い期間を、智規はひたすら身を縮こまらせて生きてきた。飯を食うためだけの、守りに入った小説ばかり書いてきた。しかも智規は、遊び呆けることもなくひたすら小説を書いてきたのだ。
これで癖にならないわけがない。
慣れてしまったのだ。自我を殺し、書きたくないものを書くことに。そしてそれ以外の書き方を忘れてしまった。
不幸なことに、その領分においては才能のある人間だったのだろう。
書きたくないものを書いていると言いつつも、なんだかんだその行為に楽しさを見出していたのだ。だから八年間も耐えられた。結局、小説を書くという行為自体が好きなのだから、数字重視の作品を書いている時でさえ充実を感じていたのだ。清崎智規という人間は、打算に対しても粘着質な自分を発揮することができる作家だった。
おかげで訳が分からなくなった。
書きたいものとは? 書きたくないものとは? 今まで充実していたなら書きたいものを書けていたんじゃないか? しかしそれならこの渇きはどこから来ている?
倒れたモニターを戻そうとして床に膝をついた。すると、机の脇に並べていた本たちが頭上から落ちてきて、ドサドサと無味乾燥な音を立てる。
また片付けるものが増えた。そう思った瞬間、糸が切れた。モニターに向けて伸ばしていた手がそのまま床に落ち、呆然と床板を見つめる。
惨めだ。部屋の中で蹲りながら、侘しさに打ちひしがれる。劣化して光が弱くなったLEDの照明も、掃除をサボっているせいで埃っぽい床も、針が狂い始めた置き時計も、部屋干ししたまま畳んでいない洗濯物も、全部全部、自分が選んだものだった。自分で選んだ職業、自分で選んだ仕事、自分で選んだ家、自分で選んだ環境。その末がこれだ。何か一つでも他人に選ばれたものがあれば八つ当たりできたのに、ここにあるのは全て自分が選んだものだった。責めるべき人間は己ただ一人だった。
張りたくない見栄だけが保たれ、遠ざけていた孤独が擦り寄ってくる。
モニターだけ机の上に置き直した。しかし原稿と向き合う気にはなれない。
埃のついた指でマウスを掴んで原稿を閉じると、新英社からメールが届いていることに気づいた。新英社は、智規がデビューしたファンタジー小説大賞の主催社であり、ライトノベルではなく文芸の出版社である。
メールを内容は謝恩会のリマインドだった。そういえばそんなのあったなと思い出す。
新英社は毎年冬頃に都内ホテルで謝恩会を開催する。同時にファンタジー小説大賞の授賞式も行われる。そのため新人にとっては業界で繋がりを得るための機会で、中堅以上の作家にとっては同業者と再会できる機会だった。智規もデビューした年はこの授賞式兼謝恩会に参加し、壇上でたどたどしく挨拶した。今となってはいい思い出だ。
だが今はこんなものに参加している場合じゃない……。
数分ほど、今からでも断るべきかと悩んだが、流石に迷惑がかかるので渋々行くことにした。既に座席も決められている頃だろう。
いっそ、やけ酒でもしてやろうか。
自虐的な笑みを浮かべながら、智規はメールの返事を書いた。
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