第16話

 十月の下旬。智規は都内の専門学校に足を運んだ。

 メディア・エンタテイメント総合学院。漫画やイラスト、ゲーム、ライトノベルについて学ぶことのできる学校だ。東京と大阪にそれぞれ拠点があり、幅広い分野でクリエイターを育成することを理念に掲げている。一言で言えば、今時の学校だ。


 智規は知人の紹介で、この学校の特別講師に何回か招かれている。この日は来年の入学シーズンに備えた体験講義を行うらしく、常勤講師だけでなく、智規のような非常勤の講師も数人ほど呼ばれ、短い時間だが教鞭を執る予定となっていた。


 ネットに公開されていた体験講義のチラシを見たところ、アニメ化したような大物作家も講師として呼ばれているらしい。ネームバリューのある作家を利用して、生徒を増やしたいという学校側の意図が透けて見えた。


 まあ俺に集客効果なんてないが……。

 ネームバリューのある作家に該当しないことは分かっている。多分、自分は安定した授業ができるから呼ばれたんだろうなと智規は思った。客寄せパンダたちの緩衝材として使われているに過ぎない。ここでも可もなく不可もなしの人間だ。


 学校のある建物の中に入ると、二十代の若者たちと目が合った。しかしお辞儀すらされずに立ち去られる。ライトノベル科の生徒たちには顔を覚えられつつあるが、今日は体験講義目当ての部外者も多くいるため、この反応は不自然ではない。しかし、もし智規が大物作家だったら、きっと彼らは足を止めていてだろう。


「魚棲先生、お疲れ様です」


 入館証を貰いに窓口へ行くと、事務室から女性が出てきた。


「お疲れ様です。教室はもう空いてますか?」


「ええ。どうします? 魚棲先生の講義まで、あと二十分くらいはありますが」


「教室が空いてるなら、そちらでゆっくりしています。講義の準備もしたいですし」


「流石、もう慣れたものですね」


 好きで慣れたわけではない。

 当然のように、この仕事も智規にとっては飯を食うために仕方なく引き受けているものだった。本心としては、人に物を教えている暇があれば自分の原稿を書きたい。


 最近は貯金も潤っている。そろそろ講師の仕事は辞め時かと考えながら、宛がわれた教室に入った。用意されているパソコンには、あらかじめ提出しておいた教材のデータが入っている。プロジェクターが正しく動くことを確認し、生徒が来るのを待った。

 二十分後、講義が始まる。


「特別講師の魚棲清水です。よろしくお願いします」


 スクリーンに映るスライドを切り替えながら、智規は講義を始めた。

 体験講義ということもあって、今回は起承転結の作り方など初歩的なものを教える。初めて講師に招かれた時は緊張のあまり声が上擦ってしまい、生徒たちにクスクスと笑われたが、今では落ち着いてマイクを握れるようになった。講師としての成長を実感するとこの仕事に未練を感じてしまうが、それでも今は壁を乗り越えることに注力したい。補給線の整備よりも、ダイヤ探しを……だいち小説賞を優先したい。


 話し続けていると汗を掻いてきた。今週に入って寒波が関東を襲い、それに伴って教室の暖房を点けたようだ。生徒の数もいつもより多い五十人ほどで、人口密度が高い。密室を強調するような生暖かさの中で、生徒たちは真剣に授業を聞いていた。


 行儀のよさで飯は食えない業界だ。講師としての立場上、真面目な人間は評価したくなるが、それは評価しやすいだけで才能があるかは別件である。


 この中からプロが現れるとしたら、多くても一人だろう。そしてその一人も、数年以内に筆を折る可能性が高い。


 斜陽気味で、それゆえに一握りの天才しか生き残れないこの業界は、かといって純度の高さを保てているわけでもない。多くの作家が誰かに看取られることもなく次々と散っていくこの現状には一作家として憤りを感じるが、残念ながら今の智規に世界を変えるほどの影響力はなかった。


 教室にいる生徒たちに聞きたくなる。どうしてわざわざこんな世界に挑むのか。

 青い野心は時折、饐えた臭いを発していた。


「じゃあ、ここからは質問コーナーにします。気になることがあれば聞いてください」


 残り十分は質問コーナーにするようにと、特別講師を引き受ける際に頼まれていた。

 手前の席に座る青年が挙手したので、掌を向けて「どうぞ」と発言を促す。


「一日に何文字書きますか?」


「四千文字くらいです。多分、平均的だと思います」


 具体的な答えを述べると、次は多くの生徒が挙手をした。

 生徒たちの勢いにたじろぐ。正直、質問はあまりされたくない。

 智規はこの業界に、正解なんてないと思っていた。


 何が売れるのか分からないのが、この業界の難しいところであり面白いところだ。これを書いた方がいいとか、これを勉強した方がいいとか、口では簡単に言えるが実際にそれが正しいかどうかは誰にも分からない。流行も、作品を発表する場も水物であり、昔は通じていた分析が今は通じないというのがザラである。


 だから仮定の話しかできない。あくまで個人的に、これが正解だと思うという話しかできないのだ。プロ同士なら暗黙の了解だが、アマチュアの生徒である者たちにこの暗黙の了解が通じているかどうかは分からない。


 一度このことを講義で説明したことがある。すると後日、学校からああいうことは生徒に教えないでほしいと言われた。智規としては誠実な講義をしたつもりだが、生徒からすると弱気で信頼できない講師に映ったらしい。毎回、講義の後で生徒たちに配られるアンケートにそう書かれていたようだ。


 講師の身にもなれ。

 たとえ望まれていなくとも、進んで地獄へ向かおうとする生徒にせめて嘘偽りなく己の経験を語るのは、慈悲深き手向けではないのか。

 静かに息を吐く。部屋が暑いから頭に血が上るのだと自分に言い聞かせた。

 挙手している生徒に手を向ける。


「インプットで意識していることはありますか?」


「偶に嫌いなジャンルにも手を伸ばしておくことです。特にヒット作には。その作品が自分の好みでなかったとしても、何故、多くの人に受け入れられているのかは考える必要があると思います」


 誰にでも言えるような意見だが、生徒たちは感心してメモを取った。

 また別の生徒から質問される。


「編集者とのいい関係の築き方を教えてください」


 プロになった後のことを考えるのはまだ早い。しかし智規も、デビューする前は自分のことを天才だと信じて疑わなかった。プロになる前提の質問が出てくるのも仕方ない。


「個人的には、あんまり考えないことがいい関係を築くコツだと思っています。ぶっちゃけ売れたら仲良くなりますし、売れなかったら疎遠になるだけです」


 冗談に聞こえたのか、生徒たちは笑った。

 これが冗談であればどれだけ気も楽か。ついでに今の業界において、新人作家の新作はほぼ確実に売れないこともセットで伝えたくなる。


 しかしそれなら、仲良くもないし疎遠にもなっていない自分は何なのか。

 考えるまでもない。答えは数合わせの作家だ。才能はあまり感じないが、最低限の売上は出してくれるので、取り敢えず繋ぎ止められているだけの作家である。重宝されているのではなく、縁を切る分かりやすい機会がないだけだ。


 彼らも気づいているだろう。魚棲清水という作家は、成功者ではない。

 この後、アニメ化作家の講義がある。その次は重版の常連である作家の講義がある。もし生徒たちが同じ質問をして、アニメ化作家たちが智規と異なる回答を述べたら、生徒たちは間違いなくアニメ化作家たちの答えを信じるに違いない。そう考えると真面目に答える気も失せてきた。実績に乏しい作家の立場は、吹けば飛ぶ塵のようだ。


「プロになるために必要なものは何ですか?」


「書き続けることだと思います。打席に立ちさえすれば、意外と長生きできますから」


 大抵は引退を先延ばしにするだけの延命措置にしかならないが、極稀にしぶとく生き残った末にヒット作を叩き出す作家もいる。


 少し、心が蠢いた。

 ここで回答をやめてもいい。しかし、そろそろ講師を辞めようしているせいか、智規の胸中に小さな蛮勇が湧いた。後に続く大物作家たちへ、木っ端作家の尻拭いをさせてやろうという小癪な悪巧みも恐らくある。


 今日はいつもより舌が回りやすい。

 最後くらい、嫌われてもいいから厳しいことを言うか。


「もし才能がないなら、普通との決別が必要になると僕は思っています」


 無垢で世間知らずな瞳を向けられながら、智規は語る。


「早い話、普通の人が努力していない間に、自分だけは努力するんです。皆が遊んでいる間、皆が飲んでいる間、皆が寝ている間、皆がぼーっとしている間、自分だけは机に齧りついてひたすら努力する。これを繰り返せばきっとプロになれます」


 深く頷く生徒たちを見て、智規は失笑しそうになった。

 馬鹿が。それができてないから、お前たちはここにいるんだ。


「人と違うことをしなければ、人を出し抜くことはできません。隣に同じことをしている人がいる時点で、その行動は間違っているかもしれませんね」


 生徒たちが、隣に座る人間にさり気なく視線を注いだ。

 こんなところに来る暇があれば、家で机に齧りついて原稿を書け――そんな智規の言外の言葉に気づいた生徒は、果たしてどれほどいるだろうか。


 厳しいというより、嫌味なことを言ってしまったかもしれない。

 だが間違ったことは言っていないつもりだ。プロの小説家の中で、小説の専門学校を卒業している人間は稀である。他所の業界は知らないが、少なくとも小説は独学でも極められることがはっきり証明されていた。

 少し調べれば分かる事実だ。なのに何故こうして生徒が集まるかというと、彼らは少しも調べていないからである。


 とどのつまり現実逃避がしたいだけなのだ。大学受験や就職活動など、嫌なことができない人間がこういう学校に来る。アニメやゲーム、漫画、ライトノベル、なんとなく自分の好きなものに関わっているうちに、社会やら義務やら世間体やらといった嵐が過ぎ去るのを待つ。……愚かだ。生きている以上、その嵐が過ぎ去ることはない。


 極稀に本物が現れるという話は聞く。強靱な意志と共に専門学校の戸を叩き、講師たちの技術を貪るように盗み、卒業と同時に新星の如くデビューする。だが、そんな生徒は見たことないし、他の講師が見たという噂も聞かない。つまりただの都市伝説だ。


「他に質問はありませんか?」


 静まり返った教室を、ざっと見渡す。

 してやったり、という気持ちが湧いた。夢見がちな子供に現実を突きつけるのは快楽を感じる行為だった。しかしその一方で、確かな情熱と反骨精神を持った人間に、胸倉を掴まれることを期待した。


 本気のやり取りがしたい。

 書きたくもないものばかり書いている自分。黒字さえ出せればいい編集者。生温い授業を強いる学校。現実逃避がしたいだけの生徒。


 もう、うんざりだ。

 この世界はもっと、野心と野心をバチバチとぶつけ合うような、血湧き肉躍る壮絶な戦場だと思っていた。

 死に損ないの亡者どもが、みすぼらしく傷を舐め合う光景なんて見たくない。


 誰か立ち上がれ。

 俺と戦え。

 この死に損ないを殺してくれ――。


 教室は静寂に包まれ、誰も口を開かない。智規の願いは聞き届けられなかった。

 だが最後に、中央の席に座っている青年が手を挙げる。透かした前髪が爽やかな印象を醸し出す若者だ。彼は純粋な眼で智規を見た。


「魚棲先生は、どんなものを書きたくて作家になったんですか?」


 本気の殴り合いを期待していたからか、一瞬、その問いかけが酷く無礼なものだと誤解しそうになった。青年は決して「お前は何がしたいの?」と喧嘩を売っているわけではない。智規は文芸からライトノベルまで様々な小説を出しているので、単純に一番力を入れている分野が気になったのだろう。

 頭を冷やし、淡々と答えようとして、言葉に詰まった。


 どんなものって……。


 冷や汗が垂れる。思考が霧散し、マイクを握る手がぶるりと震えた。

 いつの間にか絞首台に送られていた。生徒たちの双眸がじっとこちらを見つめているのに、何も喋ることができない。


 分からない。

 飯を食うために、書きたくもないものを書き続けた。いつしかその仕事にばかり時間を取られ、気づけば八年が過ぎていた。


 俺は何を書きたい……?

 麻縄が首を絞める。ざらついた縄が擦れ、首に焼けるような痛みを感じた。


 死にたくない――。


 温厚に見えた青年は死神だった。許しを乞う智規を見て、彼は首を傾げる。

 本気の戦いを求めているつもりだった。だが実際は、死を恐れている。


 俺は亡者だ。

 俺こそ、亡者だ。


 己の無才に気づきながらも、我が身可愛さのあまり死にきれず、必死に業界へしがみついているだけのゴミのような作家。こんな恥知らずが無数にいるから、この業界は腐敗の一途を辿るのだと今理解した。

 講義終了のチャイムが鳴る。


 助かった――。


 縄が解け、絞首台から下ろされた。

 しかし次はない。

 崖っぷちに立っていることを自覚した。素人の集団を前にして、つい勇み足で戦場に出たら一瞬で死にそうになった。


 早く、確固たる実績を身につけねば。


 さもなくば――近いうちに殺される。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る