第15話

 だいち小説賞は、プロの小説家でも応募することができる文学賞だ。

 小説家になるための登竜門として利用できる文学賞は、しばしば新人賞と呼ばれることもあるため誤解されやすいが、あれらの大抵は応募資格が不問となっている。つまり原稿さえ書くことができれば、原則誰でも応募が可能だ。


 だが実際、プロの小説家がこの手の文学賞に応募することは珍しい。何故なら、一冊でも本を世に出している以上、プロの小説家は出版社や編集者との繋がりを持っている。その繋がりを利用すれば、わざわざ文学賞で何百倍もの倍率を潜り抜けなくても、編集者との一対一のやり取りだけで本を出版することができる。


 では何故、智規はだいち小説賞に応募するのか。

 売れていないからだ。


 魚棲清水という作家は今、停滞している。気を抜けば深い谷底に落ちてしまう。だから箔のある賞を獲って一発逆転を狙っているのだ。


 家に帰った智規はすぐパソコンの前に座り、原稿と睨み合う。

 元から部屋に引き籠もりがちな人生を送っていた智規だが、プロになったことで一層その傾向が強くなった。八年前に処女作を出したあの日からろくに遊ぶこともなく、修行僧のように小説を書き続ける日々を送っている。


 だが、売れない。

 この業界の残酷な一面に、智規は早々に気づいた。この業界では、費やした時間と成果が比例しない。真面目な人間というだけで評価されることもない。


 才能と運。この二つが絶妙に噛み合わなければ大物になれないというのが、八年間の作家活動で得た見識だった。何年も泥臭く原稿と向き合っていると、新人がデビュー作であっさりヒットを記録し、一瞬で自分を追い抜いていくことがある。その光景を何十回と見て智規は察した。……ああ、俺は天才ではないんだな。


 天才ではない智規は、そもそもデビュー直後から何度も壁にぶつかっている。

 まず、デビュー作が売れなかった。とはいえ大抵はそうなると聞くし、この時の智規はまだ次のチャンスが幾らでもあると思っていた。しかし二作目、三作目も売れないと、編集者も乗り気ではなくなる。コイツには才能がないと薄々思い始めるのだ。


 そうなると本を出しにくくなる。メールの返事は目に見えて遅くなったし、打ち合わせの約束もなかなか交わしてくれない。はっきり戦力外と告げられたわけではないが、先方が智規と一緒に仕事をしたくないのは火を見るより明らかだった。大御所の作家ならともかく売れない作家はいくらでも替えが利く。既にその編集は、智規よりも期待できる他の作家を見つけていたに違いない。


 狭き門を抜けねば手に入らない小説家という肩書きだが、いざ業界の内側に入ってみると、わらわらと新人が入ってくることに気づいた。さながら夏場の家に侵入してくる虫のようで、気づかぬうちに、知らぬところから湧いてくる。虫と違うのは、いつの間にか全身を喰われて成り代わられる恐怖があることだ。


 智規には、己にしか書けない唯一無二の小説を発表し、この世界に一石を投じたいという青い野心がある。


 しかし残念なことに、野心を滾らせているだけでは飯は食えない。売れない作家である智規は、執念を燃やす前に飯の種を確保する必要があった。新人賞の賞金と、それまでに稼いだ印税が底を尽きた時、智規には野心よりも優先するべきことができてしまった。


 意地でも就職したくなかったし、就職するくらいなら小説を書きたいと思った。それは傍から見ると、甘ったれた精神ゆえの選択に見えたかもしれない。だが実際は、隙あらば成り代わろうとする虫たちへの抵抗だった。ここで退けば確実に奪われる。先に狭き門を潜った身としての矜持が、彼らの踏み台になることを強く拒んだ。


 なんとか小説一本で飯を食いたい。そのためならどんなことでもする。追い詰められた智規は視野を広げ、そこで一つ新たな道を思いついた。

 ライトノベルへの進出だ。


 智規のデビュー作は漫画化した。世界観にファンタジー要素が含まれるため、漫画化に向いている題材だったとオファーの際に説明を受けた。肝心の漫画は短い巻数で打ち切りになってしまったが、漫画雑紙の編集部との間にできた細い伝手は残っていた。


 智規は駄目元でその編集部へ頭を下げてみることにした。おたくの出版社が抱えるライトノベルのレーベルで本を出させてくれないかと。

 この作戦が功を奏し、智規はライトノベル作家としてもデビューした。以来、智規は飯の種には困っていない。小説一本でちゃんと生活が成り立っている。


 一般文芸と比べるとライトノベルは金になりやすい小説だった。二巻、三巻と続くシリーズ化が前提だし、漫画化のようなメディアミックスとの相性もいい。一般文芸の世界と比べてこんなにも景気がいいとは笑ってしまいそうだった。だが、昔からライトノベルを書いてきた者たちに話を聞くと、皆一様に不景気になったと嘆息する。


 じゃあ文芸の世界は何なのか。地獄とでも言いたいのか?


 文芸の世界は、一滴の水すら残されていない砂漠のようだった。デビューしたばかりの新人はその光景を目の当たりにして絶望する。そして、この中から一粒のダイヤを見つけろと命じられ、二度と帰ってこなくなる。


 それでも砂漠に居座ろうとする者も大勢いて、智規もその一人だった。これは長い戦いになる。そう覚悟したからこそ、飯を食うための補給線を用意したのだ。

 だが、何年経ってもダイヤは見つからない。


 顔を上げると、同じように死にそうな顔でダイヤを探している作家がいる。ダイヤの輝きを盲信している者たちの、狂気じみた忍耐を見ていると、偶に心が挫けそうになる。


 俺はいつまで藻掻けばいい?

 いつになったらヒット作を出せる?


 アラームが鳴り、智規は執筆を中断した。

 そろそろ打ち合わせの時間だ。

 スマートフォンが着信を報せ、通話を開始する。


〈魚棲先生、お疲れ様です。プロット拝見させていただきました〉


 スピーカーモードにしたスマートフォンから、担当編集の声が聞こえた。

 ライトノベルの打ち合わせだった。文芸ではない。三ヶ月前に発売した新作の売上が悪くなかったので、二巻を出すことになり、その内容の擦り合わせを行う。


 売上が悪くないと言っても、可もなく不可もなしといったところで、業界に爪跡を残しているとは言い難い。智規はこの結果に愁いを感じたが、編集の方は明るい口調で二巻の執筆を依頼してきた。出版社としては黒字を出せたので何も問題ないのだろう。


 だがその調子のよさが気に入らない。まるで最初から、智規が爪跡を残せるなんて期待していないかのような態度だった。


〈提出はどのくらいになりそうですか?〉


「再来週までには出せると思います」


〈分かりました。では、引き続きよろしくお願いします〉


 あっさりした打ち合わせが終わった。作家の中には編集との雑談を好む者もいるが、智規は業務連絡だけの方が嬉しい。小説家は個人事業主で、編集者は出版社に勤めるサラリーマンだ。野心のために死に物狂いでダイヤを探したい小説家と違って、編集者は給料を貰えればそれでいいと考える者も少なくない。今回、打ち合わせした編集者は間違いなくその一人である。そんな輩と長時間話そうものなら、双方の価値観の差が浮き彫りになって気まずい関係になるに違いない。


 疲れた。打ち合わせの後はいつも身体が石のように重くなる。

 ライトノベルを書くようになってから、金には困らなくなっていた。背もたれを倒して天井を仰ぎ見る。腰痛防止のために購入した十万円以上するオフィスチェアだが、尻を乗せるクッションの柔らかさ以外にこれといって違いを実感したことがない。割に合わないなと思いつつもさほど後悔はしていなかった。貯金はまだ余るほどある。


 ひょっとしたら俺は、売れている方の作家なのかもしれない……。

 いや、決してそんなことはない。己の下らない妄想を咎めた。文芸にせよライトノベルにせよ、ヒット作は一本も出せていない。そんな作家のどこが売れているというのか。どこに胸を張れる要素があるのか。


 食っていけているだけで、名が知れていない。そんな作家に価値などない。

 中堅作家ではあるのだろう。だが大物作家とは程遠い。

 壁が厚かった。八年間、ずっとプロとして小説を書き続けてきたのに、大物作家への壁だけが一向に乗り越えられない。


 俺は、こんなことをやっている場合なのか?

 パソコンで開いた、ライトノベルの原稿を見てそう思った。

 ライトノベルを書いた切っ掛けは、飯を食うためだったはずだ。ダイヤ探しを継続するために、取り敢えず補給線を用意する。そういう計画だった。


 補給線の整備と、ダイヤ探し。この二つを交互に続けていく予定だったが、いつしか補給線の整備にばかり時間を取られるようになってしまった。昨日も、一週間前も、一ヶ月前も、ライトノベルの原稿ばかり書いている。


 別にライトノベルが嫌いなわけでも、見下しているわけでもない。

 だが、智規の表現したいものは文芸の世界ならではのものだった。描きたいのは爽快感よりも、読み進めることが億劫に感じるほどの重厚感で、手軽な読み味よりも、高尚な気分に浸れる芸術性を生み出したい。

 お高くとまっているのではない。好みの問題だ。

 清崎智規は文芸の方が好きなのだ。


 だから、ライトノベルでは数字を出すことだけを意識している。本当に表現したいものをぐっと堪え、市場が要求しているものを愚直に作っている。その姿勢は黒字を出したい出版社たちに気に入られ、目論見通りの印税が振り込まれた。


 同じことをしている小説家は他にもたくさんいる。ダイヤ探しの傍ら、ダイヤほどではないが程々に価値があって見つけやすい宝石を集めるのだ。ミステリー、時代小説、恋愛小説……これらは売れやすいジャンルであり、食うに困った作家たちの救済措置としても機能している。無論ライトノベルと同じように、最初からそれらのジャンルを好んで書く小説家も多数いるため、彼らに対する敬意は忘れてはならない。しかしこの業界には紛れもなく、不承不承、妥協してそういうジャンルを書く作家もいる。


 食うに困っているから、書きたくないものを書いて稼いでいる小説家は山ほどいる。

 作家という特殊な身分でありながら、うだつの上がらない平凡な境遇。

 そこから抜け出したい――。


 だから、だいち小説賞に応募する。

 箔のある賞を獲り、壁を乗り越えるための踏み台にしてみせる。

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