第13話

 日が暮れる頃には、目元の腫れは引いていた。

 香里と慧子は別れ際まで奈々のことを心配し、悩みがあるならいつでも聞くからねと約束してくれた。いい友人を持ったなと奈々は思う。

 だが、やはり自分は彼女たちとは違う世界に焦がれていた。


 この感情はもう認めるしかなかった。

 勇樹が待っている家に帰ろうとする途中、道路の向こうに公園が見えた。引き寄せられるように横断歩道を渡り、公園のベンチに腰を下ろす。冬の夜の公園は酷く寒いが、煮え滾る血潮を冷ますには丁度いい気温だった。

 頭が冷えた今なら、落ち着いて話せるかもしれない。


 鞄からスマートフォンを取り出し、真澄に「話せる?」とだけメッセージを送った。

 すぐに既読がつき、電話が掛かってくる。


〈奈々?〉


 いつもより少し小さな声だった。

 それでもすぐに出てくれた。やはり彼女は奈々が知っている通りの真澄なのだ。しばらく口を利かなくても、奈々にとって憧れの文芸誌の表紙に名を載せても、真澄は真澄だ。


「あのさ、聞きたいことがあって」


〈うん〉


「学祭に行った時、私と風太君を引き合わせたよね?」


 真澄は「そうだよ」と肯定した。

 何の後ろめたさも感じさせない声で。


「それってさ、なんで?」


〈なんでって……〉


「スランプに陥っている私を、駄目な例みたいに紹介して、風太君のやる気を引き出したかったから?」


〈はぁ? そんなわけないじゃん〉


 だよね、と奈々は思った。

 奈々は真澄と過ごした日々を思い出した。大学では顔を合わせる度に小説の話をしたものだ。お互いに原稿の進捗を報告し合い、時に褒め、時に叱り、酒に酔った日なんかは周りの視線も憚らずに直木賞を獲るとかノーベル文学賞を獲るとか宣言した。

 強い信頼関係が築かれていたはずだ。

 真澄が奈々を侮るなんて、有り得ないことだった。


〈え、どういうこと? まさかそんな思い込みで私のこと避けてたの?〉


「うん。……ごめんね。私、馬鹿過ぎるかも」


〈大馬鹿だよ。最低。信じらんない〉


 引っ込めたはずの涙が目尻から垂れてきた。風が吹き、涙が凍りそうになる。この寒波は罰だなと思った。親友を信じ切れなかった自分への罰だ。

 嫉妬で頭がおかしくなっていたとしか言いようがない。言い訳に過ぎないが。


〈私がやる気を引き出したかったのは、奈々の方なんだけど〉


 落ち込む奈々に、真澄が溜息交じりに言った。

 それは、どういう意味だろうか。


〈奈々って負けず嫌いじゃん。だから、才能ある後輩を紹介したら、今まで以上にやる気を燃やすんじゃないかって期待したの〉


 しばらく声が出なかった。

 やがて奈々は笑う。笑うしかなかった。これでは道化もいいところだ。被害妄想どころか、真澄はこちらのことを想って行動してくれたらしい。

 人としても、作家としても、真澄には負けたと思った。

 けれど諦めはしない。ここから立ち上がって、なんとしても食らい付く。並び立つだけでなく、追い抜いてみせる。真澄が奈々に求めているのはそういう関係だ。


「……風太君、凄いよね」


〈うん。あの子は天才。多分、本物の〉


 真澄も風太に対しては色々思うところがあるようだ。

 電話の向こうで、真澄が神妙な面持ちをしていることが分かる。


〈奈々、ちゃんと小説書いてる? 次のだいち小説賞には絶対に間に合わせて〉


「分かってる。もう逃げないから」


 真澄から逃げない。

 みっともない人間になってしまう可能性からも逃げない。


〈遅くとも、この一年で決着をつけるような気持ちで書いて〉


「はいはい。早くデビューしないと、真澄が寂しいもんね」


〈それもあるけど……〉


 真澄の言葉は不自然に途切れた。


〈期限を設けた方が、やる気も出やすいから〉


「何それ、急に初歩的な話? 心配しなくても、もうダラダラはしないから」


 言い渋っていたから何を言われるのかと身構えていたが、気が抜けるほどの初歩的な話で奈々は笑った。


「じゃあ、寒いからそろそろ切るね」


〈え、今外にいるの? ちょっと、風邪引くから早く中に入りなって!〉


 真澄に怒鳴られるまでもない。頭どころか身体の芯まで凍えそうだ。冬の夜に公園のベンチに座るのは無謀だったらしい。


「デビュー作、今日買ったから。すぐ読むね」


〈はいはい、お買い上げありがとうございます! もっと早く連絡くれたら、ただで献本あげられたのにね!〉


 これ以上、通話を長引かせたら奈々が風邪を引くと思ったのか、真澄は返事も待たずに通話を切った。

 献本なんかいらない。

 ライバルのデビュー作だ。金を払って買いたいに決まっている。


 奈々は駆け足で家まで向かった。

 私の幸運は、同じ道を志す友達がいたことだ。

 奈々にとって真澄は道標だった。たとえ目を逸らしたって、いつか必ず立ち塞がる。どれだけ先を行かれても、真澄はずっと奈々を待っている。

 少なくとも、この心が本当の意味で折れるまでは――。


 白い息を吐きながらエレベーターに乗る。

 真澄は言った。この一年で決着をつけるような気持ちで書けと。

 一年。……確かに丁度いい期間かもしれない。

 夢のために幾つかの物事を切り捨てる覚悟はある。しかし全てを切り捨てることはできない。やはり世を捨てたような、みっともない人間にはなりたくない。


 だから、期間を決める。

 向かう先は残酷な底なし沼だ。奥深くを目指し続けると一生戻ってこられないかもしれない。だから期間内に成果が出なければ切り上げる。その時は己の無才を呪うのだ。


 奈々が家に帰ると、ソファで寛いでいる勇樹が振り返って「お帰り」と言った。それから心配そうにこちらを見つめる。諸事情で帰りが遅れることは事前に伝えていたが、理由までは伝えていない。怪我や体調不良だと思っているのだろう。

 今から、その理由を告白する。


「勇樹、大事な話があるの」


 奈々は鞄から二冊の本を取り出した。

 小説『妖精一揆』。それと『だいち四月号』。

 奈々にとっての道標と、挑戦するべき壁。結婚情報誌の代わりに購入したこの二冊を勇樹に見せる。


「一年だけ、挑戦させてください」


 深々と頭を下げ、奈々は言った。

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