第12話

 奈々にとっての、普通を取り戻す日々が始まった。

 普通と特別について、昨年の秋頃から悩んできたが、一度舵を切りさえすれば後は楽なものだった。特別を志した末があんな醜いものだとしたら、私は普通でいい。そう心に決めた奈々は、溢れ出る解放感と共にここ数ヶ月の失われた日常を取り戻そうとした。


「最近、元気いいね」


「そう?」


 日曜日の昼過ぎ。奈々は鼻歌を歌いながら、昼食に使った食器を洗う。その隣では勇樹がのんびりと調味料を片付けていた。


 ふと顔を上げると、暖かな日の光がレースカーテン越しにリビングを照らしていることに気づく。この明るさなら電気は不要だなと思い、食器を洗い終えた奈々は照明のスイッチをオフにした。読み通り、部屋は穏やかな明るさに包まれたままだ。

 賑やかしのためだけに点けていたテレビはワイドニュースを映していた。事故と、天気と、芸能人と、動物。似たような報道が延々と繰り返されるのは、それが視聴者の望むものだからに違いない。


 代わり映えのない日々を愛する。それが普通の人の生き様だと思った。

 テレビが車のCMを流した。映像と共に聞こえる楽曲が軽快なリズムで気に入り、真似して鼻歌で歌ってみる。勇樹が「いい曲だよね」と笑った。

 些細なことに幸せを感じられる。それもまた普通に生きる条件だ。

 野心がないと人生を楽しめないなんて、病気である。


「勇樹、次の三連休っていつ?」


「月末だったかな。何、どこか行きたいの?」


「偶には旅行でもしたいな~って。桜見に行こうよ、桜」


「確かに、もう花見シーズンか」


 今は三月の半ば。肌を刺すような寒さから解放され、換気の度に悲鳴を上げることはなくなったが、代わりに洗濯物に虫がつく季節になった。


「あとさ、来週の土日って予定ある?」


「いや、ないけど」


「じゃあどっちかで外食しない? 友達からオススメのフレンチを教えてもらったの。ほら、ここなんだけど」


「うわ、お洒落だな。ドレスコードとかある感じ?」


「ないみたいだけど、折角だからお洒落な服で行きたいね」


 スマートフォンで店の情報を伝える奈々に、勇樹は困った様子を見せた。服装に自信がないのだろう。だが勇樹は、顔はともかく体型は悪くない。手足はスラリと長く、腹も引っ込んでいる。今度フォーマルな上下一式を見繕ってやろうと奈々は思った。


 楽しみをたくさん作っておく。

 自分の人生はこっちでいいんだと思えるように、未来を補強していく。

 早く四月になってほしかった。脳裏を過ぎるのは、八割がた完成している書きかけの原稿。まだ間に合う。今から執筆を再開したら、だいち小説賞に間に合ってしまう。


 だいち小説賞の締め切りは三月末だ。

 だから、早く四月になれ。

 四月になって、引き返せなくなれ。


「奈々、なんか焦ってない?」


 ふと聞こえた遠慮気味な声に、奈々は勇樹の顔を見た。

 一重の円らな瞳が奈々をじっと見つめている。心を見透かされているようで、思わず視線を泳がせた。図星のような反応をしてしまったかもしれないと後悔する。まるで裁判を受けている被告人のような気分になった。


「どういう意味?」


「いや、なんていうか、無理して合わせてるように見えるっていうか」


 何に合わせているというのか。

 普通に合わせている――ということか。


「全然そんなことないよ」


 二つの間で揺れていたのは少し前までのことだ。もう生き方は定めたはず。決して無理して合わせているわけではない。

 勇樹を安心させたくて、柔らかく笑みを浮かべてみせる。しかし勇樹は何か言いたげに口をもごもごと動かした後、視線を逸らして黙った。


「じゃあ私、行ってくるね」


「行ってらっしゃい」


 外出の予定があってよかった。気まずい空気から逃げるように、奈々は家を出る。

 今日は大学時代の友人と久々に会う予定だった。真澄ではない。サークルは別だったが専攻が同じで、学籍番号が近かったことが切っ掛けで親しくなった二人の友人だ。


 彼女たちは小説なんか書いていないし、野心を燃やしているわけでもない。

 今はとにかく、普通の友人と会いたかった。


「お待たせ~」


 新宿駅の改札前で二人の友人を見かけ、声を掛ける。


「奈々、久しぶり」


「あんまり変わってなくて安心した~」


 慧子と香里は、学生時代はどちらも髪を明るい色に染めていたが、今は黒色に戻していた。しかし変化はそのくらいで、すぐに当時の距離感を思い出す。

 奈々は二人と雑談しながらカフェに向かった。


 カフェは混んでいるわけではなかったが、念のためにと香里が席を予約してくれたようだった。感謝を伝えると、いい気になった香里が店のドアを開け、「どうぞ」と奈々を店内へエスコートする。

 見覚えのあるシチュエーションに、一瞬、魚棲清水のことを思い出した。

 忘れろ。もうそちら側の世界とは決別したはずだ。


「奈々、聞いた? 慧子、やっと彼氏できたんだって」


「ほんと? おめでとう」


 カフェに入ってからも話題が尽きることはなかった。コーヒーとパンケーキを注文した後は、それぞれの恋愛や結婚の話になる。

 高収入の慧子は長らく仕事に集中していたが、去年辺りから結婚を焦り始めていた。多分その一因には奈々も入っている。奈々と勇樹の関係について、結婚まで秒読みで羨ましいと度々漏らしていたのは慧子だ。


「慧子、仕事の方は落ち着いたの?」


「落ち着いたっていうか、少しのんびりしようかなって思って」


 元々自主的に仕事に打ち込んできただけなので、心持ち次第でワークライフバランスは簡単に調整できるようだ。いい会社に就職した特権と言えるだろう。


 コーヒーの味が好みだったので、奈々はしばらく聞き役に徹してその味と香りを満喫した。恋愛と結婚の話題が下火になったタイミングで、香里が貯金の話を始める。学生時代からアイドルの推し活で忙しかった香里は、高収入を求めてIT企業に就職したが、思うように稼げずやきもきしているらしい。普通に推し活を我慢すればいいじゃん、と慧子が冷静に告げると、それじゃあ本末転倒でしょ、と香里は笑った。


 作家志望たちの新年会を思い出す。……どう考えても、こっちの方が人としてのレベルが高いなと思った。あそこには年上の男ばかりいたが、彼らと比べても目の前の二人の方が地に足をつけて生きている。


 二人の話を聞いていると、心が調律されていくようだった。去年の冬から揺れていた心の天秤が、少しずつ、丁寧に普通の方へと傾いてく。一つ一つ、優しく重りを載せられていき、いずれ天秤は二度と揺れなくなるだろう。


「なんか奈々も、すっかり丸くなったって感じね」


 香里が安心した様子で奈々を見た。

 天秤が微かに揺れた。

 私は丸くなりたくないという、かつての願いが脳裏を過ぎる。


「学生時代の奈々って、なんかストイックな感じだったもんね」


「そうそう。私、奈々ってどこに向かってるんだろうな~って、思ってたもん」


 笑いながら話す二人に合わせて、奈々も笑った。

 上手く笑えている自信はない。早くこの話題が終わってほしいと願った。

 奈々の願いが聞き届けられたのか、学生時代の話はすぐに終わる。お互いまだ二十五歳だ。記憶に新しい学生時代のことよりも、社会人になった後の変化の方が話に花を咲かせやすい。聞き役に徹しているから苦手な話題になるのだと反省し、奈々はコーヒーがまだ入っているカップをさり気なく遠ざけた。


 二時間後、たっぷり話した奈々たちは、二軒目のカフェを探しながら適当に散歩することにした。駅から離れると帰りが面倒になるので、駅構内とその周辺を練り歩く。


「あ、ごめん。本屋寄っていい?」


 書店の看板を見つけた奈々が、反射的に声を発した。

 香里も慧子も、すぐに頷いてくれる。


「そういえば奈々って、大学時代は文芸サークルだったね」


「……まあね」


 慧子の言葉に、奈々は我に返った。

 反射で行き先を決めてしまったことを後悔する。

 大丈夫、問題ない、これはただの習慣に過ぎないと自分に言い聞かせた。

 野心を捨てて小説を書かなくなったからといって、小説を読むことまで嫌いになったわけではない。ただそれだけだ。


 書店に入ると香里が、久しぶりに本屋に来たなぁと呟いた。今時、普通の人は本屋なんて行かないのだろう。大きな書店なのでそれなりに客が入っていたが、彼らは全員、少数派に分類されるはずだ。

 書店に入ったのは習慣に過ぎないと自分に言い聞かせつつも、奈々は小説の売り場に行くことはできず、雑紙コーナーでファッション誌を手に取った。隣で香里が同じ雑紙を手に取り、最近のトレンドについて話し合う。


 盗み見るように小説の売り場を一瞥した。

 見知らぬ新作が所狭しと並べられている。

 天秤が揺れた。香里と他愛もない話をして気を紛らわし、なんとか耐える。


 やはり書店には来るべきではなかった。まだ早かったのだ。

 奈々は結婚情報誌を手に取った。表紙には相も変わらず綺麗な女性がいて、これが女の幸せなのだと突きつけられているような気分になる。


 そうだ。その通りだ。これが私の目指すものだ――。

 この雑紙を買おう。そして今日、勇樹にこれを見せながら言うのだ。――私たち、結婚しましょう。

 普通の幸せは、もう目の前にある。


「奈々って小説読むんだよね?」


 店頭の辺りをうろうろしていた慧子が、こちらを見て聞いた。

 奈々が頷くと、慧子が手招きするので近づく。


「これ、人気みたいだよ。重版? してるみたいだし」


 店頭の平台は客寄せのためにも人気作を飾る。だからここに並べられている時点で売れる作品であることは明白であり、それゆえに奈々は目を逸らして書店に入った。

 平台には、大きなポップが飾られている。


 ――発売即重版の人気作。


 重版。作品がヒットした証明。

 最近は小説のことをあまり考えたくなくて、新作のチェックをしていなかった。知らないうちに、また新たなヒット作が生まれたようだ。

 そう思い、視線を下ろして本の表紙を見た刹那――奈々は息を呑んだ。


「……奈々?」


 震える手で本を持ち上げた奈々を見て、慧子が首を傾げる。

 大きくて分厚い単行本だった。立派な装丁で、光沢のあるカバーが目を引く。帯文には錚々たる作家たちの賞賛の言葉が連なっていた。著者と、編集者と、デザイナーと、周りの作家たち、全員が一丸となってこの本を傑作に押し上げようしていることが分かる。


 一塊の熱情のような本だった。

 本の表紙には、金色の文字でタイトルが刻まれている。


 ――妖精一揆。


 覚えのあるタイトルだった。

 口に出して、読んだことがある。


 タイトルの下には著者の名が記されていた。

 大黒三郎。


 知っている名だ。

 知らないわけがない。


 もう一度、ポップを見た。

 発売即重版の人気作。……新人のデビュー作が重版したようだ。それも、発売してすぐに。恐らく最も理想的な形で作家人生のスタートを切ったことになる。


 大黒三郎は、新星の如くこの業界を駆け上がってみせた。

 作家も、読者も、書店員も、或いは偶々この本を知る機会に恵まれただけの人間も、全員が確信したに違いない。

 この著者はいずれ大物になる――。

 堪えきれない激情が全身を駆け巡った。


 もう駄目だ。

 これ以上、我慢できない。


 零れ出た涙が大黒三郎の文字に落ちた。見間違いであってほしい。瞼を閉じて、次に開いた時にはなくなってくれと願う。だが消えない。大黒三郎という名は、一冊の本の表紙に強かに刻まれている。重版という文言と共に。


 大黒三郎――加藤真澄の顔が思い浮かんだ。大学で会った日を境に、彼女とは距離を置いていた。もう二度と交わることはないだろうと思っていた。


 そんなわけないのに。

 逃げられるわけがないのに。

 だって加藤真澄は、親友であり、ライバルなのだ。


 悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい――!!


 どうしてここに私の本がない?

 真澄が小説を書いている間、私は何をしていた?


 勇樹とのんびりテレビを見て。

 友達とのんびりお喋りして。


 馬鹿か。

 私は、こんなところで何をしているんだ?


 言葉にならない呻き声が出た。震える顎で歯軋りする。

 腹の底に溜めていた感情が、奈々の体内で激しくのたうち回っていた。立っていられなくなり、その場で蹲りながら号泣する。二人の友人が驚きながら何か声を掛けてきた。遠くから駆け寄ってくる店員の足音が聞こえた。


 天秤が壊れる。

 もう、どうしようもない。この気持ちは抑えられない。


 プロになりたい――。


 私は、プロの小説家になりたい――。

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