第11話

 普通と特別の間で揺れる日々は忙しなく、あっという間に年が明けた。クリスマスは勇樹と恒例のデートをして、年始にはそれぞれの実家へ顔を出して団欒の時を過ごす。勇樹の両親も奈々のことを快く迎えてくれて、仲良くおせち料理に舌鼓を打った。


 その裏で、奈々は密かに小説を書き続けた。

 時間は有限だ。小説を書き始めたことで、少しずつ犠牲が増えていく。リビングで勇樹とだらだらする時間は減った。友人と遊ぶ時間も減った。特別な時間が増えた代わりに普通の時間が消えていく。恒例の行事には欠かさず参加して、今まで通りの日常を演じているつもりだが、多分もうバレている人にはバレていた。勇樹を含む周りの人たちから「なんか付き合い悪くなったね」と目で訴えられることが増えている。


 真澄の裏切りも、確実に奈々の背中を押していた。

 執筆に傾倒するほど、自分が社会から浮いていく実感がある。普通の人は、こんなふうに部屋に引き籠もって何時間もキーボードを叩かない。朝も夜も家から出ず、平日も休日もずっとパソコンの前に座っている。そしてその粘着質な行為に楽しさを見出している。


 遊びの誘いを断る時、「休日なのになんで忙しいの?」と訊かれることがある。

 最近はショッピングやドラマの視聴を控えていると伝えると、真顔で「何を楽しみに生きているの?」と不審がられることがある。


 自分が、一般人にとって、得体の知れない人間になりつつあることを実感した。

 突き進むべきなのか危機感を持つべきなのか、分からない。

 分からないまま、奈々は目の前の原稿に集中する。


 元々は女子大生の恋愛をテーマにした小説だった。しかし風太の短編小説を読んで衝撃を受けた奈々は、物語のスケールを拡大したいと思って急遽テーマを変更した。

 まず、物語の舞台を日本の私立大学から留学先のアメリカの大学に変える。主人公の女子大生は留学先で会った青年と恋に落ちるが、彼女にはどうしても将来就職したい日本の会社があった。目標を取って日本に帰るか、人との縁を取ってアメリカに住むか。この二つで悩む女子大生の物語を奈々は書くと決める。


 女子大生の心境が、今の奈々と被った。そのおかげで筆は進む。

 どちらを取っても幸せになれる自信があり、それゆえにどちらも選べず苦悩する。どちらの人生にも応援してくれる人がいて、片方を選ぶということはもう片方の人間関係を裏切る羽目になる。普遍的な悩みだと思ったが、いざ書いてみると自分だけの世界を上手く表現できていた。裏切りに対する罪悪感。その重さを鮮明に書く。


 一月の夕方。奈々はこの日も悩みを押し殺し、できたてのカルボナーラをリビングにいる勇樹の前に運んだ。


「お、美味そう」


「簡単なものだけどね。チーズいる?」


 いる! と子供みたいに返事をする勇樹に、奈々は「はいはい」と笑いながら冷蔵庫からパルメザンチーズを取り、テーブルまで持っていった。


「ごめんな、外出前なのに作ってくれて」


「勇樹が仕事頑張ってるんだから、私もこのくらいはしないとね」


「助かるよ。奈々、最近更に料理が上手くなったし」


「ほんと? 嬉しい」


 いい人生を歩んでいるような気がする。きっとこの平凡な日常を、求めていても手に入らない人間がこの社会にはたくさんいるはずだ。


 だが――真澄は今頃、小説を書いているだろう。

 魚棲清水も小説を書いているだろう。

 それでも別にいいや、と思った瞬間が野心の死期だ。その死期は決して遠くない。


「じゃあ私、そろそろ行ってくるね」


「奈々」


 コートを着て玄関に向かう奈々を、勇樹が呼び止めた。


「結婚についてなんだけどさ」


 勇樹の顔を見ていた奈々は視線を逸らした。考えているフリをしている卑怯な自分を嫌悪する。勇樹に負担を押しつけてしまっている。


「乗り気じゃない?」


「ううん、そんなことないけど」


「俺も急ぐつもりはないから。最悪、別に転勤だってしていいんだし」


 心にもないことを言わせてしまっている。あれだけ転勤は嫌だと言っていたのに、勇樹はここ数ヶ月の奈々の様子を見て寛容な姿勢を取り始めていた。


 勇樹が転勤すれば、結婚の問題を先延ばしにできる。そんな考えが過ぎってしまう自分を奈々はますます嫌悪した。


「ごめんね。もうちょっとだけ考えさせて」


 勇樹は小さく「分かった」と頷いた。

 勇樹が諦めるよりも早く決めねばならない。その諦めは転勤に対してだけでなく、奈々に対してのものになるかもしれないのだから。


 電車に乗った奈々は、行き先のレストランをスマートフォンで確認した。

 これから風太が教えてくれた作家志望の新年会に参加する。いわゆるオフ会だ。風太のことを考えると真澄のことまで考えてしまい、指先が力んでしまうが、魚棲との対話が存外役立ったことは記憶に新しい。今回も得られるものはあると思い、参加を決意した。


 イタリアンのレストランに到着すると、入り口に小さな人集りができていた。彼らが今回の参加者だと知り、一緒に店内に入る。

 貸し切りと聞いていたが、既に店内には大勢の人が入っていた。時間には余裕があるはずだが、遅めの到着だったらしい。


 席は特に決まっていないようなので、適当に腰掛けながら他の参加者たちを見る。

 三十代から五十代くらいの男性が多かった。スポーツと違って小説の執筆は何歳からでも始められるし、いつまでも続けられる。懐の広い世界だが、一歩間違えれば永遠に抜け出せない底なし沼のような残酷さと紙一重だった。

 現に、お世辞にもマトモには見えない人間の比率が高い。底なし沼に落ちてしまった人間たちの末路だ。彼らとはできるだけ関わりたくないと思った。


「はじめまして。若いね、いくつなの?」


 隣に腰を下ろした四十代くらいの男性に声を掛けられる。どこかで酒を飲んでから来たのだろうか、既に顔が赤い。

 しかし、底なし沼に落ちた人間たちと比べると、まだマトモに見える男だった。


「はじめまして。二十五です」


「凄いね。そんな歳から小説を書くなんて」


 何も凄くないと思った。小説を書いているだけで人として優れるわけではない。

 温度差を感じる。作家志望が集まると聞いていたが、蓋を開けば趣味として小説を書いている人ばかりのように感じた。


 声を掛けてきた男は厚みのある上等なジャケットを着ている。若い頃は会社員として真面目に働き、余裕ができて暇を持て余したから小説を書き始めたのだろう。だが社会の荒波に揉まれ、その顔に深い皺を刻んだ男は、今更野心の燃やしようがないように見えた。


 マトモに見えるということは、普通の人間ということか。

 安い言葉の応酬が続く。凄いね、頑張ってるね、小説を書くのは楽しいよね、クリエイティブなことをしたいよね。――下らないと思った。我々は他の人と違って、真剣に打ち込んでいるものがあって幸せだ。そう自分に言い聞かせるような会話だ。


「あ、青井さん」


 ノンアルコールのドリンクを飲んでいると、風太の声がした。本音を言うとあまり会いたくなかったが、隣のおじさんと比べたらマシだと思い、彼のもとへ向かう。


「すみません。ここではナナさんでしたね」


「風太君はなんて呼べばいいの?」


「僕は風太のままでいいですよ。ペンネーム思いつかなかったので」


 新年会に参加する旨を伝えた際、風太にはナナというペンネームを伝えていた。SNSのアカウントも同時にバレてしまったが、別に隠すものはない。


「どうですか? 貴重な話、聞けてます?」


 風太の質問に奈々は苦笑いした。

 今のところ、傷の舐め合いしかしてないよ――とは言わないでおく。


 そのまま風太と話していると、いつの間にか数人のグループができた。集まってきたのはいずれも若い作家志望だ。周囲との年齢差から居心地の悪さを感じていた彼らは、歓談する奈々と風太の姿を見つけ、そこに居場所を求めたようだった。気持ちは分かる。

 だがその時、中年の男性が近づいてきた。


「交ぜてもらってもいいですか?」


 正直、嫌だと思った。

 一目見るだけで分かる。沼に落ちた人間だ。

 よれよれのシャツ。色褪せたジーンズ。寝癖のついた髪。不摂生を隠す気すら感じない肥えた腹。決して年齢の問題ではない。他者と交流する上での礼儀というものを、この男からは感じなかった。典型的な、世を捨てている人だ。


「いいですよ!」


 風太が上機嫌に頷いた。しかし男の方は反対に奈々たちの顔ぶれを見て、しまったと言わんばかりの焦燥した表情を浮かべた。お呼びじゃないことに今気づいたらしい。


「徳田ベトです」


「ナナです」


 確実に意味のない名刺交換だった。この名刺を後で確認することはないだろう。

 貰った名刺はシンプルにペンネームだけ書かれたもので、実力だけで食っていくという野心を感じさせた。


 やめてくれ――。


 名刺交換のやり方も分かっていないようだった。名刺を受け取ろうとした徳田は、名刺入れを床に落としてしまい慌てて拾い上げる。隙間の目立った旋毛を奈々は見下ろした。


 もう、やめてくれ――。


 風太と名刺を交換する徳田の姿を見て、奈々はチリチリとした胃の痛みを感じた。

 名刺から感じる青い野心。有り様から感じる普通との決別。徳田という男は、奈々が揺れている二つの進路のうち、特別を選んだ場合の未来に他ならなかった。こんなにもみっともないのに。こんなにも生理的嫌悪感を抱くのに。どうしようもなく共感できる部分がある。他人事ではないのだと突きつけられる。


 マトモに見える人間が、普通ということは――。

 こういうマトモに見えない人間が、特別ということだ。


 行き着く先は、これなのか?

 小説を書き続けた先に待つ未来は、こんなものなのか?


 分かっている。これが可能性の一つに過ぎないことは。しかし、それでも絶望した。自分はなんてものを天秤に掛けているのだと思った。勇樹と進む普通の未来。対するは、この男のような人生。一瞬でも均衡を保っていたことを恥じる。


 駄目だ。

 これになるくらいなら、死ぬ。

 居たたまれなさから足早に去って行く徳田ベトの背中を見て、奈々は進路を決めた。そちらには行かない。彼と同じ道は歩まない。


 席に戻ると、二次会へ誘われた。少人数で落ち着いたバーにでも行かないかという話だったが奈々は断った。

 これ以上、傷の舐め合いをする気はない。

 この集まりに、奈々が居心地のよさを感じることは終ぞなかった。

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